「メディア規制」「取材・報道規制」ではなく「表現規制」と呼ぶ

※エキサイト版「ニュース・ワーカー2」から転記です。http://newswork2.exblog.jp/8018714/
 明治学院大学社会学部での非常勤講師の講義は、昨日(5月31日)から「表現規制と新聞ジャーナリズム」のテーマに入りました。長らくの間、直接、法規制が問題になることがなかった新聞ジャーナリズムですが、この10年はさまざまな動きが相次いでいます。そのことを紹介し、その規制をはねつけ続けていくためには何が必要かを、わたし自身も考えていきたいと思っています。
 昨日の講義では「表現規制」という言葉の用法について説明しました。わたしが「表現規制」という用語で意味しているものには、新聞社や放送局、あるいは出版社や雑誌などの取材・報道活動を直接、法律による規制、制限の対象にする、ということも含んでいます。ですから人によっては、あるいは新聞や放送の報道でも多くの場合は「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいることが多いと思います。しかし、この呼び方では、新聞や放送など、既存のマスメディアさえ直接規制の対象から外れれば問題はない、というイメージを与えかねません。
 かつて2001―02年当時、個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案を指して「メディア規制3法案」とマスメディア自身が呼んでいたことがありました。このうち唯一実現した個人情報保護法を見ても、新聞や放送の取材・報道行為は適用除外とされながらも、社会に(とりわけ公権力の側の不祥事情報の開示に)過剰な反応が広がり、結果として市民の「知る権利」が阻害される、という事態が現に進行しています。01―02年当時、新聞各紙は大々的な論陣を張り、新聞や放送の取材・報道活動を直接規制の対象から外すよう、自らの媒体を使って強く主張しました。そのこと自体にわたしは異論はないのですが、自らへの直接規制が外れた途端に、法案が抱えている問題点を検証し追及する姿勢が急速にしぼみ、そのことが今日の個人情報の過剰保護(とりわけ公権力による)を招いた一因になっている気がしてなりません。
 インターネットをはじめとして、社会の情報発信手段が多様化している今日、表現の自由はマスメディアだけの問題ではありません。むしろ公権力の側の方が、そういった情報発進の多様化には敏感になっていると感じます。新聞をはじめとしてマスメディアの側は、仮に自らが直接の規制対象として明示されていなくても、表現の自由への規制の動きには、今まで以上に、そして公権力の側以上に敏感にならなくてはならないと思います。放送と通信の一元規制化が現実のものになりつつある今、いつまでも「新聞はネットとは違う」「ネットに規制は必要だ」と考えているのだとしたら、いずれ自らの首を絞めることになりかねないことを危惧しています。
 以上のような考えから、わたしはマスメディアが「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいる表現活動の法規制の動きでも、あえて「表現規制」と呼ぶことにしています。

 講義ではまず、表現規制にかかわる現在進行の動きとして、裁判員制度と事件事故報道から話し始めました。だれが裁判員になるか分からない段階から、事件や事故の報道は始まっています。逮捕された容疑者について、読者や視聴者が報道によって予断や偏見を抱くことがあるとすれば、その読者や視聴者が仮に裁判員に選任された際に、公正な裁判が確保できるかどうかが危ぶまれるのは当然でしょう。事件事故報道が法によって規制されることがないようにするために、報道する側の姿勢が問われることになります。
 既にことし1月、新聞協会が「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」を公表し、新聞各社も近く、事件事故報道の一定の基準を策定する見通しです。表現規制に対して、新聞のジャーナリズムの問題としてどう考えていくのか、学生たちの理解の助けになるような講義にしていきたいと考えています。