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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

続・高須大将の述懐

 田母神俊雄・前航空幕僚長侵略戦争否定発言をめぐって、前回のエントリー「五・一五事件裁判長が遺した述懐〜『前空幕長処分せず』で危惧されること」で取り上げた阿川弘之「軍艦長門の生涯」に出てくる高須四郎大将の逸話について、エントリーでもご紹介したブログ「ある教会の牧師室」管理人のちばさんから、引用した該当部分の原文をメールでご教示いただきました。またわたしの引用の適否についても丁寧なご指摘をいただきました。
 前回のエントリーでわたしは「五・一五事件で軍人たちの処断が甘かったことが後年の二・二六事件を誘発する一因になったとの指摘を、敗色が濃くなる中で死の床にあった高須大将自身が完全には否定しきれなかった(自分の判決が「間違っていた」とは思っていなかったにせよ)のではないかと、わたしは受け止めています。」と書いたのですが、ちばさんにご教示いただいた原文では、高須大将は息子に、以下のように語っています。

五・一五事件の処置が甘かったから、次に二・二六事件を誘発したと言う人があるが、それは時間の経過の上でそう見えるだけの話で、歴史を知らない人の言い草だと思う。海軍にかぎっては、あの判決のあと、青年将校の政治関与とか、暗殺事件とかいったものは一つもおこっていない。米内(光政)さんが大臣に、山本(五十六)さんが次官に坐って、非常にはっきりした強い態度を部内に示されたせいもあるけれども、海軍は分裂の方向から統一の方向へ向って行った」
「死刑にして国内だけで簡単におさまるものならいいが、そう行かない証拠に、二・二六事件の時は、あれだけ大勢の被告を銃殺しておきながら、陸軍はたちまち翌年、盧(※原文は草冠が付いている)溝橋でああいう暴発をしたじゃないか。謀略の手は、こちらの側からだけ動いたのではないかも知れないが、結局その後始末をつけようとして、日独伊三国同盟仏印進駐、対米英開戦と、こんにちの事態まで追い込まれてしまった。満州事変以来の総決算がここまで来たんだよ。残念なことだ。五十六さんだけは、私のほんとうの気持ちを分かってくれていたように思うがね」

 田母神氏の論文問題に即して高須大将の述懐を考えるなら、今日の防衛省自衛隊に、米内光政海軍大臣山本五十六次官のような「非常にはっきりした強い態度」でシビリアンコントロールの理念を部内に示すような存在が必要なのだ、という気が今はしています。
 阿川弘之さんの作品群には、米内光政や山本五十六とともに、「最後の海軍大将」である井上成美とあわせて「提督3部作」と呼ばれる3作の評伝もあり、今日の自衛隊のあり方を考える上でも示唆に富むエピソードが豊富に収録されています。統帥権が独立していた当時でも「軍人が政治に関して外部で発言するのは大臣に限る」との姿勢を強く部内に示していた米内光政や山本五十六、井上成美らのエピソードは、強く印象に残るものですが、これらの評伝も手持ちの原本が見つからないので、ここでのこれ以上の紹介はやめます。

 田母神氏の問題をめぐってはその後、APAグループの懸賞論文に90人以上の自衛官の応募があり、中でも航空自衛隊小松基地の第6航空団所属の尉官、佐官が約60人と多かったことが明らかになっています。その小松基地では、田母神氏が6空団司令時代の1999年にAPAグループ代表の元谷外志雄氏らが中心になって、金沢市「小松基地金沢友の会」をつくっていたことも明らかになりました。他の自衛官が応募した論文の内容は明らかではありませんが、田母神氏の問題は田母神氏1人の問題にとどまらないのかもしれません。
 わたし自身は、自衛官であってもどのような歴史観・思想を持っているかは基本的には個人の「内心の自由」に属するものの、それを自衛隊の外部に公表するとなると、「言論の自由」ではすまされない別の問題になる、と考えています。国家の暴力装置の一部である自衛官は、その職務について憲法自衛隊法で文官の指揮監督下にあることが明記されています。ことが政治的議論に及ぶテーマについては、私見を一切口に出さない、出すなら制服を脱いでからにすべきでしょう。
 わたしは田母神氏が更迭はされたものの定年退職となったことについては、やはり何らかの人事上の処分が必要だった(懲戒免職かどうかは別として)と考えています。同時に、今後のこととして、シビリアンコントロールの徹底が必要だと思います。実態として徹底されることももちろん大切なのですが、その理念をどう自衛隊内部で教育していくかということも重要だと思います。現代の米内光政、現代の山本五十六はいないのでしょうか。