ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

ひとこと:山本五十六の肉筆「述志」を見たい

 太平洋戦争開戦時の旧海軍連合艦隊司令長官だった山本五十六大将が残していた肉筆の「述志」の現物が見つかった、とのニュースがありました。共同通信の記事を一部引用します。

 旧日本海軍山本五十六連合艦隊司令長官が太平洋戦争開戦時などに決意を書き記し、戦後所在不明になっていた肉筆の文書「述志」が、海軍兵学校時代の友人だった堀悌吉・海軍中将の遺品の中から見つかった。大分県立先哲史料館(大分市)が1日、発表した。
(中略)
 述志は、開戦日の1941年12月8日付の便せん2枚と、海軍次官時代の39年5月31日付の同3枚。2通とも毛筆で書かれていた。
 開戦日の述志は「大君の御楯とただに思ふ身は名をも命も惜しまざらなむ」と歌を詠み込むなど、決死の覚悟をうかがわせる内容。39年の述志には「此身滅すべし、此志奪ふ可からず」などとあり、海軍次官時代に日独伊3国同盟に反対したため、身の危険を感じつつ書いたものという。

 以前のエントリーで取り上げた作家阿川弘之さんの「提督3部作」などでも、山本五十六が述志を残していたことは紹介されており、わたしも知識としては知っていました。いずれ一般にも公開されるのであれば、ぜひ目にしたいと思います。山本五十六が生きた時代と諸々の出来事を、文献上の知識だけではなく、実際に日本の社会であった「事実」として、実感を伴いながら確認したいからです。
 山本五十六は対米開戦に先立つ1940年に、時の近衛文麿首相に日米戦の見通しを問われ「半年や1年の間は暴れてみせるが、2年3年となったら確信は持てない」との趣旨の返答をしたエピソードが有名ですが、わたしは今回見つかった述志のうちのもう1通を書いた海軍次官時代の方が強く印象に残っています。陸軍が乗り気だった3国同盟締結に、海軍大臣だった米内光政とともに「そんなことをすれば米国と戦争になる」と反対し、暗殺計画の情報まで流れながらも頑として譲らなかったエピソードです。世界3位と言われた海軍力を持ち、戦争が悪事ではなかった当時にあっても、冷静さを失わず世界情勢を見ていた軍人がいたことは、田母神俊雄航空幕僚長が制服を脱いだ後も発言をどんどんエスカレートさせている今日、今いちど振り返っておいてもいい歴史の一コマだと思います。
 山本五十六には肯定的な評価だけではなく、例えば米内大臣−山本次官のもとで軍務局長を務めた井上成美元大将は戦後、近衛元首相とのエピソードについて「なぜはっきりと『負ける』と言わなかったのか」と語ったことが、阿川弘之さんの著作で紹介されています。個人の神格化や過度の美化は慎まなければなりませんが、山本五十六が3国同盟に文字通り命をかけて反対したその覚悟、避けたかった戦争が始まり自らが部隊最高指揮官を務めることへの心情を、実物の述志を通して感じ取ってみたいと思っています。