「年越し派遣村」を社会運動として伝える意義〜ボランティア「とね」様へのお答え

 前回のエントリーの続きです。年越し派遣村のボランティアに参加された「とね」様からのご質問に答えてみたいと思います。
 重複になりますが、1月4日のエントリーに対する「とね」様からのコメントを再掲します。

 私の記事を取り上げていただき、ありがとうございました。(遅まきながら失礼しました!)
 その後、もうひとつ派遣村についてのレポート記事を加えました。「1月4日の年越し派遣村レポート」というタイトルです。こちらは取材手法について私のかなり突飛なアイデアを紹介しています。ニュース報道は中立性が要求されると思いますので、そのアイデアのように過度に派遣村に賛同する姿勢で報道していいものかどうか素人の私には判断がつかない部分が残ってしまいました。個人的には賛同している形で取材、報道してほしいのですが、報道倫理との兼ね合いが私にはわからなくなっているわけです。
 美浦様は労働問題やマスメディアについての記事をたくさん書いていらっしゃるようなので、お考えをお聞かせいただければうれしいと思い、コメントさせていただきました。

 「とね」様のブログ「とね日記」の3本目のリポートはこちらです。
 「1月4日の年越し派遣村レポート

 その後、「とね」様から6日の前回エントリーに次のコメントもいただきました。

 今回派遣村で実際にお手伝いしてブログの記事を私は書きましたが、正確に伝えることの難しさを痛感しました。昨日この件のニュース報道を見て違和感を感じました。悲しいBGMの曲を流したりして、脚色されたニュースもありましたし。
 私はメディアでなく一個人ですから、村民(生活困窮者)に対する主観や期待、激励の気持ちを記事に含むことができますが、メディアが彼らを取材するときに、どの程度まで村民の気持ちを積極的に伝えられるか、それともそれは報道の中立性に反するから規制されるのか、わからなかったのです。またこの背景は労働問題ですし、与党と野党の対立という側面も背景にあります。
 また派遣労働者やホームレスという言葉に対して抱くイメージは人によって大きく異なります。ドラマの「ハケンの品格」のようなオフィスで働く派遣社員から、製造業、建設業で働く人たちまでです。またホームレスもアパートを追い出されたばかりの人から1年以上路上生活をしている人、そして今では禁止用語になってしまいましたが昔私たちが「乞食」と呼んでいたような人までさまざまです。プライバシー保護の観点から顔を映せない場合、そこにどのような人がいるのかをテレビニュースという短い時間の中で伝えることはすごく難しいと思いました。実際に派遣村にいたのは40代後半から6代後半くらいまでの製造業、建設業に従事していたような雰囲気の人が7〜8割で、あとは30代の比較的身奇麗にしていた人たちでした。

 最初のコメントで書かれている「取材手法について私のかなり突飛なアイデア」とは以下の部分だろうと推察しています(違っていたら申し訳ないのですが)。

 日本の報道関係者は前よりずっと村民を撮るようになっていた。明らかに距離が縮まっている。でも僕が感じたのは映像だけでなく、ちゃんと村民の言葉を聞いていたかどうかである。表面だけで撮影すれば「気の毒な生活困窮者」というわかりきった姿しか出てこない。話をちゃんとすることで村民の中から時にはユニークな人物像が、またこれから頑張ろうとしている心が浮き彫りになってくるかもしれない。
 カメラマンがインタビューしたっていいはずだ。レポーターがほとんどいないのだから。カメラマンがボランティアを一生懸命やって村民の信頼を得てから撮影をお願いしたっていいと思う。そうやって撮影した意外性のある音声付き映像がその記者の手柄になると思うのに。質問する側もよく考え、自分の言葉で「ありきたりでない」質問をすれば村民も好奇心が出てきて本音を語ってくれるかもしれない。ウソではないリアルな意外性が視聴率を稼ぐのだ。僕はそういう番組が見たい。記者がそういう機会を活かせていないのがもったいないと僕は思った。
 みすぼらしい姿をさらしたくないから写真に写りたくない村民は多いだろう。顔の写真撮影と公開の禁止はもっともだ。だがここにもいろいろな人がいる。中には目立ちがり屋の村民、男はつらいよの寅さんのような村民もいることだろう。(例えばだが。)実行委員会にしてもあらかじめ取材をされたい村民を募っておけば、活動のポジティブキャンペーンになるし、記者にとっても手柄になるから、これもまたWin-Winになると思うのだ。

 さて、ここからが本題、「とね」様からのご質問に対するわたしなりの答えになります。
 まず最初にお断りしておきたいのですが、わたしは通信社の記者で、基本的には活字による報道の世界で過ごしてきました。自分では新聞記者の一人だと考えています。映像による報道のことは正直に言って分からないことばかりです。一方で、活字であろうと映像であろうと、マスメディアの報道に共通していることもあります。その最たるものは、日々、限られた時間の中で、その時々に起きていることを取材し、限られた枠の中で社会に発信していくということです。「枠」とは新聞なら紙面のスペースの制約のことですし、映像=放送ならニュースの時間の制約のことです。
 今、何が起きているのかをいち早く伝える、速報としてのいわゆる「ストレートニュース」を伝えるには、おのずと取材も効率を優先させざるを得ません。放送メディアなら、とりあえずは眼前の光景をカメラに収め放映するところで終わってしまうのも、やむを得ないことになると思います。新聞ならば、公式のレクチューをもとに記事を組み立てる、ということになります。しかし、だからと言ってそのニュースや記事が取るに足らない、底の浅いものでしかないかと言えば、決してそうばかりではありません。その取材対象に日ごろからどれだけ注意を払いウオッチしているか次第で、限られた時間内の限られた手法の取材でも、伝える内容の濃淡は変わってきます。
 一方、放送も新聞も情報伝達の手法はストレートニュースだけではありません。一定の時間をかけて取材対象に密着し、取材対象者との間で議論も重ねて、新聞なら長編のルポルタージュや連載記事に、放送なら長時間のドキュメンタリー番組にまとめ上げる手法もあります。ただ、この手法を取るには、それなりに事前の態勢準備が必要です。すぐにこうした取材を立ち上げられるわけではありません。やはり結局は、日ごろのウオッチ次第、関心の持ち方次第ということになると思います。
 以上は一般論です。実際の取材はケースバイケースです。「年越し派遣村」ではどうだったのかと言えば、同時進行での報道、それは新聞では12月31日以降の日々の記事であり、テレビでは日々の定時ニュースということですが、そこでは「ストレートニュース」としての報道が続いていたのだと思います。一方で、入村者に6日間密着し、彼らの話に耳を傾け、派遣村の6日間は何だったのかを明らかにしようとする取材も行われていました。このブログはわたし個人の情報発信と位置付けているので、わたしの所属するメディアのことやわたし自身の職務に触れるのは戒めているのですが、ここで少しだけ禁を破って明らかにすると、わたしの所属するメディアでも、同僚記者たちがそうした取材を展開しました。連載記事として日の目を見ることになると思います。他のメディアでも同じような取材を展開していたかもしれません。じっくり腰を据えて取材するなら、取材者がいったんはカメラやペンを置き、取材対象者と同じ生活に身を置いてみる、ボランティアに加わってみる、ということもあっていいのではないかと思います。
 ただ繰り返しになりますが、ストレートニュースにしても連載記事やドキュメンタリーにしても、日ごろの関心の持ちようによって、同じ出来事を目の当たりにしていても伝える記事、映像はまったく違う内容になるだろうと思います。
 では次に、「年越し派遣村」という取材対象を目の前にしての「日ごろの関心の持ちよう」とは何なのか、という点について、わたしの考えていることを少し説明します。
 わたしは「年越し派遣村」に対して、労働組合NPOなどが一緒になって立ち上げた「反貧困」の社会運動であり、しかもそれが成功した点で、大きなニュースだったと受け止めています。「成功」の意味は、入村者の方々が「職」を失い「住」を失ったことは個人の責任に帰するものではないということを行政の側に認めさせた、ということです。厚生労働省が講堂の開放を決め、5日以降も自治体と共に食と住の提供を決めたことは、そうした意味を持つと考えています。
 派遣村が開設された日比谷公園は、日本の行政機構が集中する霞が関の官庁街に隣接するという点で、まずもって強烈なインパクトがありました。昨秋以降の「派遣切り」で「職」も「住」も奪われた人たちがそこに集まり、そうでなければ命の危険さえ予想された年末年始の数日間をともに乗り切ろうというこの試みが、最初から国を動かすことを目的として企画されたものだったのかどうかは分かりません。しかし、企業の都合による「派遣切り」を企業の横暴ととらえ、あるいはその横暴を許している雇用制度の不備を政治の無策、怠慢ととらえて、企業も政治も行政も救済しようとしない人々を支援しようとする試みは、人と人との「共生」を願い、貧困の解消を目指そうとする社会運動だったのだろうと思います。
 運動は、参加する人が増えることによって広がりを持ち、やがては社会変革につながります。わたし自身はそのことを、労働組合運動を通じて学びました。運動への新たな参加を呼び込むには、まずもって問題の所在が知られなければなりません。マスメディアが取り上げるためには、日比谷公園は格好の「場」だったと思います。こうした社会運動としてのあり方は、人によって好き嫌いはあるのかもしれませんが、社会運動とは社会変革を目指すものであり、参加する個々人にとっては、運動に参加することは市民的権利でもあると思います。権利の行使として、他者の権利の侵害にならない限り、本質的に善か悪か、正しいか間違っているかの問題ではありません。取材者の関心の持ちようとは、派遣村が取材者の目に、貧者を政治的に利用する特定集団のパフォーマンスと映ったか、市民的権利に根差して貧困の解消を目指す社会運動と映ったか、そこがまず問われたのだと思います。
 「とね」様が触れている「報道の中立性」ですが、確かにマスメディアは「公正中立で客観的な報道」を看板に掲げています。マスメディア批判の中にはしばしば「政治的に偏向」といった表現もあります。しかし「公正中立」「客観的」あるいは「政治的」「偏向」という言葉もじつはあいまいで、受け取る人ごとにイメージは異なるのではないでしょうか。「客観」と対になるのは「主観」ですが、そもそも報道にとって何をニュースとして伝えるか、その選択自体が取材者の「主観」から完全に自由ではあり得ません。わたしは「主観」の反対が「客観」なのではなく、「主観」の反対はまた別の「主観」であり、すべての「主観」を俯瞰するのが「客観」なのではないかと考えています。また、マスメディアの情報伝達が民主主義にとって不可欠の社会的な議論に資するためにあるのだとすれば、伝達される情報は程度の差こそあれ何らかの政治性をそもそも持っているのではないかと思います。「報道の中立性」とは、ひとつの「主観」にのみ固執しないことであって、「主観」をすべて排することを必ずしも意味しないと思いますし、留意すべきは「政治性」というより「党派性」(特定党派への支持を誘引することにならないように、という意味で)なのではないかと思います。
 話が散逸気味かもしれません。ここでわたしの考えをまとめてみると、「年越し派遣村」は人と人がつながることによって貧困の解消を目指した社会運動だったのだと思います。人としての権利を守ろうとする運動ではあっても、他者の権利を侵害するものではありません。運動とは人々の営みです。人は知らなかったことを知ったり、考えたこともなかった別の考えに接したりしたときに、考え方が変わることがあります。だから民主主義をルールとする社会では、表現の自由と知る権利が重要になります。「年越し派遣村」はマスメディアがその中に入り込み、社会に紹介していくのに足りる人々の営みだったと思います。
 最後にもう一つ、「年越し派遣村」でわたしが注目しているのは、ボランティアの方々です。労組などの組織的動員ばかりでなく、「とね」様のように個人で参加したボランティアの方々の存在です。ネットでブログなどを検索してみると、「年越し派遣村」に対しては好意的な受け止めばかりではなく、批判的な言説もけっこう目に付きます。総務省坂本哲志政務官の「失言」もありました。そうした言説におおむね共通しているのは「『派遣』という働き方を選択したのは個人の責任」「不況になって企業も大変なのに行政に救済を求めるのは責任転嫁」といった「自己責任論」です。個人ボランティアの方々の参加の動機はそれぞれなのかもしれませんが、少なくともそうした「自己責任論」からは自由な発想で皆さん参加されたのだろうと思います。そうしたボランティアの方々が活動を通じて見たこと、聞いたこと、感じたこともまた社会に知られていくことで、「派遣切り」や貧困の問題に対する社会の議論が深化していくのだと思います。マスメディアはボランティアの方々からも取材すべきだと思いますし、「とね」様のようにボランティアの方が自らブログなどで、マスメディアの報道を凌駕する貴重な情報を自ら発信するのも社会にとっては意義が大きいと思います。
 昨年12月にNPJのパネルディスカッションに参加した際の報告のエントリー「揺らぐ『マス』の正当性と『プロ』の正統性」でも書きましたが、インターネットの普及によって、だれもが情報発信できる社会になり、一次情報の発信はマスメディアの独占ではなくなっています。しかしマスメディアと市民の情報発信とは敵対する関係だとは考えていません。マスメディアならではの長所、市民の情報発信ならではの長所がそれぞれにあります。相互が補完し合う関係でいいと思います。

 以上、「とね」様からのご質問に対する答えとして書いてみました。
 文中に「取材対象」という用語が出てきます。即物的で決していい表現ではありません。目の前にいる相手に、一人の人間同士として接することを忘れずに心がけていきます。

※追記 2009年1月12日21時30分
 「とね」様から「年越し派遣村」の関連で4本目の記事アップのお知らせをコメントでいただきました。ご連絡ありがとうございました。
 「とね日記」−「年越し派遣村:おまけ話」
 これで完結とのことです。
 現場に身を置いた方が発信する一次情報と、マスメディアの報道とが相互補完の関係としてうまくかみ合っていくには、マスメディアの側にどんな変化が必要なのか、今後もわたしなりに考えていきたいと思います。