読書:「シビックジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙」(寺島英弥 日本評論社)

シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙

シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙

 著者は仙台市に本社を置く河北新報記者。2002年8月から03年3月まで、フルブライト研究員として米国に滞在中に出合った「シビック・ジャーナリズム」(人によって「パブリック・ジャーナリズム」とも呼ぶそうです)の報告を中心にした一冊です。シビック・ジャーナリズムとは著者の言葉を借りれば「新聞が読者とのあいだの距離を縮め、交わり、たがいにかかわりあい、ともにつくる『場』となる―。シビック・ジャーナリズムは一言にすれば、従来の新聞のあり方を変えるアイデアであり、一九九〇年代はじめ以来、全米の新聞の五分の一以上が実践しているという運動だ」(「はじめに」より引用)ということになります。日本の新聞も全国紙、地方紙を問わず古くから「社会の公器」を掲げ、最近では「生活者目線での紙面づくり」といったことが、当の新聞社から盛んに言われていますが、本書が紹介するシビック・ジャーナリズムはそうしたものとは全く次元が異なっています。
 日本の新聞との比較で、シビック・ジャーナリズムのもっとも分かりやすい例を本書から一つだけ紹介するとすれば選挙報道かもしれません。本書ではノースカロライナ州の人口50万人の都市シャーロットで発行されているシャーロット・オブザーバー紙の1992年の事例が紹介されています。大胆に要約すれば、従来の選挙報道が各候補の選挙戦略の分析や当落予想に重点が置かれていたのを一新し、まず有権者が不安に思っていることや望んでいることを徹底的に調べ掘り起こし、候補者への質問も記者ではなく読者に考えてもらい、候補者からの回答を「回答拒否=白紙」も含めて紙面に載せ、1票の行使のための判断材料を豊富に伝えた、ということになります。何を伝えるかを新聞の側だけで判断するのではなく、取材対象者に何を尋ねるかをも含めて読者とともにつくり上げた報道、というふうにわたしは理解しています。日本の選挙報道との比較で言えば、最近では各政党、各候補者がマニフェストを公表していますが、著者が次のように指摘している通りだと思います。「選挙の主役が真に有権者であるなら、地域の政策課題はも、公約は、候補者からもらったり待ったりするものではなく、市民がみずから主張し、政治がそれに対して何をなしうるかの回答を要求するのが本来ではないのだろうか」。

 本書を通読してみて、ある意味ではシビック・ジャーナリズムそのもの以上に強く印象に残ったことがあります。シビックジャーナリズムが新しいジャーナリズムの運動として全米の地方紙に広がっていった背景に、ジャーナリズム研究のアカデミズムとの協同と、各新聞社の記者やエディターのネットワークがあったことです。新聞社の外の研究者たちと、新聞社間の垣根を超えた同じ職能人同士との2つのつながり。このことは、日本の新聞のこれからを考える上でも示唆に富んでいると感じます。
 日本の新聞は全国紙、地方紙を問わず、記者は新聞社という一企業の社員としての側面が強く、社会的な存在としての「新聞記者」の職能は実は確立していない、とわたしは考えています。「新聞離れ」が指摘されて久しい中で、「新聞の生き残り」の議論も、「新聞社=企業」の生き残りとしばしば混同され、企業間の業務提携ばかりが話題になります。新聞が地理的な意味以上に、人と人とのつながりという意味での「コミュニティ」に根ざしたメディアとして再生し、生き延びていくためには、まずそこで働き、新聞をつくっている記者やエディター(デスク)が、社会的存在としての職能を自ら確立する必要があると思います。そのためには、同じ職能を持つ者同士のネットワークが必要ですし、アカデミズムとの協同も記者個々人が職能を高めていくためにも有益でしょう。そうすることで新聞のジャーナリズムの質、中味が変わり、ひいては新聞社の経営面でもプラスに作用していくのではないでしょうか。とりわけ「コミュニティ」が明確な地方紙にとっては、今後の具体的で有望な方向性だろうと思いますし、全国紙、通信社や放送局などの全国メディアにとっても、ジャーナリズムの質、中味の問題は、マスメディアとしての今後の可能性を左右する問題であることに変わりはないだろうと思います。