京品ホテルの強制執行で裁判官の人権感覚が問われている

 一つ前のエントリーで取り上げた京品ホテル強制執行に関連して、わたし自身の考えをどんな風に書こうかと考えていたときに、ルポライターの鎌田慧さんが1月27日付の東京新聞朝刊の特報面「本音のコラム」で、「太陽のない街」と題した一文を書いているのを読みました。「テレビを見ていて、強い憤りと悲しみがあった」との書き出しで始まるこのコラム記事は、わたしが考えていることにしっくりとはまります。一部を引用します。

 労働者が生きるための労働争議に、機動隊を派遣する無神経さは、もっと批判されるべきだ。争議は労使の和解で解決すべきもので、強制執行という強権はなじまない。争議権は、労働者の基本的な人権であり、自主営業、自主生産は争議の平和的な手段である。

 続いて鎌田さんは、半世紀前の自らの「自主生産闘争」の経験に触れながら「強制執行は最悪の、非民主的な強権解決である。裁判官の人権感覚を疑う」「労働争議に警官隊を出すのは戦前の話だ」「日本の経営者や裁判官の頭は、戦前に行ってしまった」と、京品ホテルの明け渡しを命じ、労組側が拒否するや強制執行に踏み切った司法を激しく批判しています(ちなみにタイトルの「太陽のない街」は、東京・小石川の共同印刷労働争議をテーマに、「蟹工船」と同じ1929年に発表されたプロレタリア作家の徳永直の作品です)。
 以前のエントリー(「京品ホテルはだれのものか?」)でも書きましたが、そもそも労組側に明け渡しを命じた東京地裁の仮処分決定自体、「廃業」と「解雇」をあまりにも杓子定規に切り分けて判断したとの印象を持っていました。例えばホテルの買い手が現にいるのかどうかなど、今回のケースの個別事情に裁判官はどこまで留意したのでしょうか。
 組合側主張によれば、買い手と目されていた会社は争議発生後、売買契約の解除を表明していました。売却を理由とした緊急性がどこまであったかは疑問で、ならば裁判官がなすべきは和解による平和的決着を目指すことだったはずです。法に照らして黒白を付けるだけでなく、民事紛争では当事者間が合意に至るまで労を惜しまず調整を図るのも裁判官の職責の一つです。ただでさえ労働者は使用者との力関係では弱い立場に置かれています。だからこそ、労働者の権利として団結権、交渉権、行動権が認められています。この労働者の権利を裁判官は擁護する立場のはずですが、京品ホテルのケースでは、どこまで裁判官にその自覚があったのか。もし、労働組合潰しのための偽装倒産のケースが目の前に出てきても、この裁判官では見破ることはできず、いとも簡単にだまされるのではないか、あるいは面倒は避けてあえて気付かないふりをして、「経営権は万能」の判断を示してさっさと片付けようとするのではないかと考えてしまいます。
 結果的に、警官隊を動員しての実力行使で労働者が職場から排除される事態を招いた東京地裁の裁判官の判断は、まさに鎌田さんが指摘するように人権感覚が疑われるものだと思います。
 ブログ「京品ホテルの労働者は闘いつづける」(「京品ホテル、自主営業中!」から改題したようです)に、全国ユニオンと東京ユニオンの1月25日付の声明がアップされています。労働争議は裁判だけが舞台ではありません。働く者が納得できる形で最終的に決着するためには、この争議が広く社会に知られていくことも重要です。仮に同じことが自分の身に起こったら?。そう考える人が一人でも増えれば、その分だけ社会は変わるからです。その社会の変革こそが、争議の解決に向けた追い風になります。強制執行は新聞や放送の各マスメディアも大きく取り上げました。今後も腰を据えた取材、報道を続けるべきだと思います。

※ブログ「京品ホテルの労働者は闘いつづける」には、1月25日の強制執行の様子を撮影した動画のリストが整理されています。
強制執行の映像

太陽のない街

太陽のない街