読書:「ジャーナリズムの可能性」(原寿雄 岩波新書)

ジャーナリズムの可能性 (岩波新書)

ジャーナリズムの可能性 (岩波新書)

 著者の原さんは1925年生まれの今年84歳。元共同通信社編集主幹、元(株)共同通信社(社団法人である共同通信の100%出資で事業、出版などの営利部門に特化した株式会社)社長を務め、新聞産業で記者から経営者までの経験を持っています。記者としては社会部、次いで外信部へ。若い頃には新聞労連の副委員長も経験しており、記者と労働組合運動と、2つの意味でわたしにとっては大先輩に当たります。「小和田次郎」のペンネームで知られる「デスク日記」は、わたしを含めて一定の世代の新聞記者にとっては様々に影響を受けた1冊でしょう。本書で言う「ジャーナリズム」は主として新聞・放送メディアの組織ジャーナリズムであり、その存在意義は「権力監視」にあるという以前から変わらない原さんの観点で貫かれています。
 序章「問われるジャーナリズムの権力観」として、まず取り上げているのは政治報道の現状です。原さんと同世代の新聞人であり、権力に対するスタンスでは対極に立つ「ネベツネナベツネ」こと読売新聞グループ本社会長の渡邉恒雄氏が、衆参両院のねじれ現象の中で仕掛けた2007年の与野党大連立工作に対し、(1)現役の新聞人による政治活動でありジャーナリズムの倫理の基本にもとること(2)その倫理違反が日本新聞協会会長という日本のジャーナリズムを代表する経歴を持つ人物によって行われたこと(3)にもかかわらず、読売以外の新聞・放送メディアが厳しく批判しなかったこと―を指摘し、批判しています。この問題については原さんは本書の「はじめに」では「背景に『政界の実力者を動かすことができるようになって政治記者として一人前』というゆがんだ永田町の歴史があることを新聞・放送の読者・視聴者は知らされていない。こういう政界ジャーナリズムの権力監視には限界があることも当然と理解しながら、あるべき政治ジャーナリズムの現実像を描き出すことが、いかに難しいかを確認させられた」と書いています。
 「権力監視」のためには記者が権力機構の内部に分け入って行くことが当然に必要になりますが、政治に限らずどの分野でも監視と癒着は紙一重になる可能性があり、また監視と癒着の間を行ったり来たり、ということもありえます。原さんが政治報道において指摘している問題は、古くて新しい記者クラブ問題もあいまって、「何のために権力側に食い込むのか、食い込んで何をするのか」が問われている、という意味では政治報道に限ったことではありません。大連立工作ほど極端な例はないにせよ、経済や社会などの報道分野でも厳に今ある問題なのだとあらためて感じます。
 以下、本書は調査報道と権力監視、メディア規制の強まり、「編集の自律」「編集の自由」などをめぐるジャーナリズム組織内の問題、放送の公共性、世論とジャーナリズムの主体性など、現在の新聞・放送メディアの組織ジャーナリズムをめぐる問題を網羅しています。中でも強く印象に残っているのは第6章「ジャーナリズムは戦争を防げるか」で触れられている諸問題です。
 そもそも組織ジャーナリズムは何のためにあるのか、何を目指すのか、職業としてジャーナリズムを選ぶことの意味は何なのか、などの命題に対して、わたし自身が25年間の記者経験を経て今持っている答えは「戦争を止めること」です。自国民のみならず海外の人々にも大きな厄災をもたらし64年前に敗戦で終わった戦争の歴史を持ち、現在は戦争放棄と戦力不保持を規定した憲法9条を持つ日本の組織ジャーナリズムには、とりわけその責任は大きいと考えています。過去の歴史を知れば、何が戦争を招くのかが分かります。表現の自由が何ものに変えても大事なこと、貧困や格差が放置できない問題であること、そのために労働者の権利が保護されなければならないこと、あるいは違憲の指摘がありながら現に存在している自衛隊には文民統制が貫かれていなければならないこと、さらには沖縄をはじめとする米軍の駐留の是非とそのことによって生じる住民被害の意味を考えることなど、そのすべては突き詰めていけば「戦争を止めること」に行き着くと考えています。しかし今のマスメディアの組織ジャーナリズムがその役割をどこまで担えるかとなると、楽観はしていません。
 この点について、原さんは本書でこう書きます。

 人間がとめることのできる最大の惨事は戦争である。戦争は最悪の人災である。その戦争をジャーナリズムは防ぐことができるのか?というのが、この世界へ入ってからずっと消えない私の疑問だった。今でも「防ぐことができる」と言い切れない。日本の政治は平和憲法を形骸化させて戦争のできる「普通の大国」への道を進み、日米軍事同盟の強化で自衛隊イラク派遣や、武力攻撃事態法など有事諸法が整備されてきた。
 しかもこれらの動きを読売新聞や産経新聞のような一部の新聞が推進している。9・11テロ後の米軍によるアフガニスタン爆撃や有事諸法には、朝日新聞毎日新聞も反対しなかった。日本のジャーナリズム状況は、一九三一年の満州事変で戦争翼賛に足並みを揃え、十五年戦争の出発点となった昭和初期に近づいている面があるのを、否定できそうもない。 

 この現状を乗り越えるための課題を、原さんは「九条ジャーナリズム」「国益論」「国策協力」「戦時の『知る権利』」「国籍・国民ジャーナリズム」などいくつかのキーワードを挙げて説明しています。その中で、もっとも強くわたしの印象に残っているのは「ペンはパンより強いか」の「ペンかパンか」の問題です。
 原さんは読売新聞の連載「検証・戦争責任」や朝日新聞の連載「新聞と戦争」を引用しながら、戦前、満州事変の時点で新聞が結束して軍を批判していれば、あるいはその後の歴史は変わり得たかもしれないこと、それができなかったのは会社の解散、つまり従業員が生活の糧を失うことを覚悟してまで軍を敵に回すことができなかったためだったことを指摘し、個人の覚悟から出発するほかペンの力がパン(生活)の圧力に勝つ反戦ジャーナリズムの道はない、と説いて、この章を以下のように締めくくります。

 日本ではジャーナリストも企業内労組に属し、一般職を含む労組はパンを優先しがちである。第二次世界大戦以前とは違う新憲法下の労組の存在に、反戦への期待をどこまでかけることができるだろうか。正直言って覚束ない。労組が反戦を貫くことができるためにも、まず職業人としてのジャーナリズムに覚悟が求められよう。ジャーナリストという職業にとって究極の課題は戦争をなくすことであり、ジャーナリストとは時に覚悟の要る社会的ポジションであることの確認が不可欠である。

 このブログでも労働組合のあり方には何度も触れてきました。企業別ではなく個人加盟による産業別の職能組合の可能性についてもわずかですが、考察の一部を紹介してきました。労働組合は第一義的には労働者の経済的な地位向上が目的であり、分かりやすく言えば「パンの確保」です。しかし、一歩進んで、では何のためにパンを要求するのか、と言えば、仕事に対して負っている社会的な責任を全うするためだとわたしは考えています。ジャーナリストなら「ペンを曲げない」ということです。マスメディアの労働運動にとってはパンとペンは本来、二者択一ではなく「ペンを守るためにパンを」のはずです。
 また、職業・職種を問わず、人は一人のままでは弱い存在です。少なくとも「わたしはそうじゃない」と胸を張って言える人はそれほど多くないのではないでしょうか。ジャーナリストも例外ではなく、一人のままでは(わたし自身も、ですが)権力に対しても、あるいは自らが所属する企業の資本の論理に対しても、そう簡単に強くなれるものではありません。その弱い個人が職業人として覚悟を決め、職業上の職責を果たそうとする上で後ろ支えになるのが、同じ弱い立場の個人が社会的に保護されている権利を行使して団結する労働組合の本来の存在意義の一つでもあると考えています。
 新聞や放送に限ったことではなく、日本では戦後、労働組合は企業内労組を基本としてきました。しかし「パンとペン」に限らず、「正社員クラブ」とも揶揄される既存の労組が正社員と非正規労働者の格差問題などに対応できなくなっているのだとすれば、運動の組織論まで含めて見直す必要があるでしょう。ジャーナリストについて言えば、本書の終章「ジャーナリズム再生をめざして」で原さんは、企業に所属しながらも職業ジャーナリストとしての社会的ステータスを確立するための一助として、欧米のようなジャーナリスト・ユニオンへの組織替えを提唱しています。わたしも可能性を追求するに値するテーマだと考えています。
 終章の最後で原さんは、インターネット社会の中で産業としての新聞・放送が苦境にあることを踏まえて、営利を追求しないノンプロフィット・ジャーナリズムの可能性にごく短くですが、触れています。「ジャーナリズムは本来、非営利事業ではないかと思う」とした上で、新聞・放送は営利事業で利益を上げ、それをジャーナリズムに注ぎ込むというビジネスモデルを考えるべき時代かもしれない、と。さらには「『独立・自由』を条件に税金を投入してでも、ジャーナリズムは民主主義社会に不可欠であると考える」と書いています。
 この点について先日、メディア研究者らと原さんを囲んで直接、お話を聞く機会がありました。原さんによれば、今日のジャーナリズムの危機は、新聞・放送の広告の減少、読者・視聴者離れ、人権侵害などの批判・不信、産業としての前近代性(新聞販売の押し紙問題など)を背景として、「ジャーナリズムが営利事業として成り立たない時代」という点に収れんされます。対策としては個人、企業、業界それぞれのレベルで必要です。しかしそれでも間に合わない、となったとき、一方で「新聞や放送の組織ジャーナリズムは社会にどうしても必要だ」ということなら、原さんなりの「仮の結論」として、国の政策、つまり国の金を使ってでも社会にジャーナリズムが存在している状態を守らせる発想があってもいい、社会でそういう議論をしていってはどうか、ということでした。
 原さんが例として挙げたのは、フランスのサルコジ政権のような新成人への新聞購読料補助、あるいは新聞を消費税の対象外とすること、などです。ジャーナリズムを社会が持っている状態がどうしても必要なら、そうした制度を社会として要求していくという発想ですが、「ジャーナリズムは非営利」ということが絶対的な前提になります。メディア企業の営利のためにするのではない、今ある新聞社をもうけさせるためではないという点を原さんは強調しました。さらに「新聞はもうからない」ということになれば資本が離れていくのは当然のことで、その後のことを考えるなら新聞発行はNPO化するしかない、ということも指摘しました。そこで新聞発行を支えるのは読者とそこで働く労働者です。
 原さんの発想は日本のマスメディアの現状からすれば非常に大胆で、例えばメディア不信が解消され、ジャーナリズムの中味が変わり、前近代的な産業体質も払拭されることなど、いくつものハードルを乗り越えた先でなければ実際には困難なことだろうと思います。しかし、仮にNPO化してでも社会に組織ジャーナリズムを担保しようとするなら、直接の公金支出はともかくとして、消費税の対象外とすることなどの社会制度としての公的支援はあってもいいのかもしれないという気がしています。少なくとも、今あるマスメディア企業がどう生き残っていくのかという発想ではなく、今後の組織ジャーナリズムはどうあるべきかを考える上では、一考に値すると考えています(この点については、以前のエントリー「新聞発行への公的支援『日本でも一考に値』」にも書きました)。
 ともあれ本書は現役の新聞・放送の記者にはぜひ手にとってほしいと思います。「ジャーナリズムの可能性」のタイトルが示すように、現役のわたしたちにとっては新聞や放送の組織ジャーナリズムのよりよい未来を追求する上でいくつもの指標を示してくれています。わたし自身、原さんの指摘を真摯に受け止めたいと思います。