あらためて東京大空襲の「大本営発表」報道

 第2次大戦末期の1945年3月10日未明、東京の下町地区は300機以上の米軍B29爆撃機の空襲を受けました。この「東京大空襲」の死者は戦後の調査では10万人以上とされます。64年たったことしの3月10日、東京・浅草では国に損害賠償を求める訴訟の高齢の原告らが集会を開き、「空襲で被害を受けた民間人を放置してきた国の不公正で不条理な政策を改めさせたい」と訴訟に取り組む思いを語ったことが報道で紹介されています。 http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009031001000985.html(47news)

 わたし自身にとって「東京大空襲」には、戦争体験の継承という意味に加えて、もう一つ大きな個人的な思いがあります。既にこのブログでも書いていますが、新聞労連で専従役員のころ、東京大空襲を調べていたときに当時の新聞の記事に行き当たりました。知識としては知っていた「大本営発表」とそれを元にした新聞記事を実際に目にしたのはそのときが初めての経験でした。
「東京大空襲の『大本営発表』報道」(ニュース・ワーカー2エキサイト版 2008年4月25日)
 現場に立てばそこで何が起きたかは明らかなのに、発表では人的被害には全く触れず、具体的な被害と言えばただ宮内省の厩が焼けたことだけ。発表に続く記事では、ひたすら戦意高揚が強調される。今日では想像もつかない報道ぶりですが、それがわずか64年前の日本の社会でした。まさに「戦争で最初に犠牲になるのは真実」という言葉の通りです。
 リンク先のエキサイト版のエントリーにも載せていますが、1945年3月11日付朝日新聞の記事をあらためて載せておきます。読み返すにつけ、社会に「表現の自由」が担保されていることはそれ自体の価値を超えて、ひいては戦争を防ぐ、止めるために決定的に重要だということを強く感じます。ジャーナリズムの究極の役割は戦争を止めることにこそある、ということを深く胸に刻みたいと思います。

B29約百三十機、昨暁
帝都市街を盲爆
約五十機に損害 十五機を撃墜す
大本営発表」(昭和二十年三月十日十二時)本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり
現在迄に判明せる戦果次の如し
 撃墜 十五機 損害を与へたるもの 約五十機

単機各所から低空侵入
 敵機の夜間来襲が激化しつつあったことは敵の企図する帝都の夜間大空襲の前兆として既に予期されていたことであったが、敵はついに主力をもって帝都を、一部をもって千葉、宮城、福島、岩手の各県に本格的夜間大空襲を敢行し来たった。
 まず房総東方海上に出現した敵先導機は本土に近接するや、少数機を極めて多角的に使用しつつわが電波探知を妨害して単機ごとに各所より最も低いのは千メートル、大体三千メートル乃至四千メートルをもって帝都に侵入し来たり帝都市街を盲爆する一方、各十機内外は千葉県をはじめ宮城、福島、岩手県下に焼夷弾攻撃を行った。
 帝都各所に火災発生したが、軍官民は不適な敵の盲爆に一体となって対処したため、帝都上空を焦がした火災も朝の八時ごろまでにはほとんど鎮火させた。また右各県では盛岡、平に若干の被害があったのみで他はほとんど被害はなかった。
 この敵の夜間大空襲を邀(よう)撃してわが空地制空部隊は帝都上空および周辺上空において壮烈な邀撃戦を敢行して大規模な初の夜間戦闘において撃墜十五機、損害五十機の赫々たる戦果を収めた。
 現下の防御態勢においてかくのごとき敵空襲は避けがたく敵は本土決戦に備えて全国土を要塞化しつつあるわが戦力の破壊を企図して来襲し来ったものと見られる、しかし、わが本土決戦への戦力蓄積はかかる敵の空襲によって阻止せられるものではなく、かえって敵のこの攻撃に対し邀撃の戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう。