ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

誤りを修正できなかったことに危機の深刻さを見る〜週刊新潮の誤報

 1987年5月3日、兵庫県西宮市の朝日新聞社阪神支局が散弾銃を持った男に襲われ記者2人が殺傷された事件をめぐって、週刊新潮がことし1月末(2月5日号)から4回にわたり「実行犯」を名乗る男の手記を掲載した問題は、今月16日発売号に週刊新潮が「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」とのタイトルで早川清編集長(当時)の署名記事を掲載し、誤報だったことを認めました。既に新聞各紙も大きく報じ、週刊新潮を批判しています。
 この誤報が深刻だとわたしが思うのは、連載が始まった直後から手記の信ぴょう性にいくつも疑問が示されていたのに、連載を休止するわけでもなく、また朝日新聞が4月1日付け紙面に反証記事を掲載した後もなお誤報とは認めなかった点です。人間である以上、ミスを犯すことはあります。しかし、ミスだと気付くチャンスが何回もありながらかたくなにミスと認めることを拒み、挙句の果てに手記を寄せた男が前言を翻すに至って「だまされていました」では、いったい週刊新潮の「裏付け取材」とは何なのか、ということになります。
 同誌の信頼が大きく損なわれ、取材、編集の基本的な方針が大きく問われる事態であるにもかかわらず、編集長の署名記事には前述のようなタイトルがつき、記者会見もなく編集長が新聞などの個別インタビューに応じただけでした。発行元としての新潮社の認識も公式には表明がなく、再発防止をどう考えるのかも明らかにしていません。「新潮」というジャーナリズム・ブランドの危機的状況に対する危機感が伝わってこないことこそが、もっとも深刻な事態だという気がしてきます。
 早川氏の署名記事はこんなくだりで締めくくられています。

 今回のことが雑誌ジャーナリズムへの信頼を大きく傷つけてしまったことは慙愧に耐えない。しかし、これから考えるべきことは、今回の誤報を反省し、得た教訓をいかに生かすかということにある。
 週刊新潮は次々号から編集長が交代する。新しい編集長のもとで心機一転し、今回のことにひるむことなく、取材を徹底させて今後ますます積極的に報道することを期待している。それこそが読者の信頼を回復する最善の道であると確信している。

 また、早川氏は15日の共同通信とのインタビューでは以下のようなことも話しています。
週刊新潮編集長との一問一答(47news)
http://www.47news.jp/CN/200904/CN2009041501000984.html

「積極的に『間違いない』と判断したというよりも、間違いとの確たる証拠を挙げることができなかった。彼が実名で証言したことに重きを置きすぎてしまった。金銭の要求はなく、売名行為とも考えられない。うそをつく説明がつかない。百パーセント間違いないと思ったわけではないが、かなり本物なのではないかと信じた」

 −確実ではないのに記事にしたのはなぜか。

 「100パーセント確証がなければ報じないということだと、新聞と同じになる。問題提起する意味もあると考えた」

 「今回の誤報を反省し、得た教訓をいかに生かすかということにある」と書きながら、その筋道は編集部も発行元も何も示しておらず、「100パーセント確証がなければ報じないということだと、新聞と同じになる」という発想が今後も続くのだとしたら「また誤報をやるのではないか」という疑念は消えません。
 さて、この誤報問題は新聞各紙もそれぞれ特集記事、検証記事で大きく取り上げ、多かれ少なかれ「雑誌ジャーナリズムの危機」を指摘する論調が共通しているのですが、それは「新聞の情報は信頼度が高い」「新聞ではこのような誤報は起こりえない」との自意識の裏返しなのかもしれないと思います。しかし、もはや「新聞」対「雑誌」といった大雑把なくくりでジャーナリズムの質を論じることに、読者から見ればあまり意味はないのではないかと考えています。
 東京新聞は17日付朝刊の特報面の検証記事で主要週刊誌5誌の編集長のコメントを掲載しました。わたしは週刊文春編集長の「週刊新潮誤報は雑誌ジャーナリズム全体にかかわることではなく、週刊新潮の問題」とのコメントがいちばん印象に残っています。新聞でも雑誌でも、あるいは他メディアでも、重要なのは1本1本の記事の信頼性であり、その集積としてのジャーナリズム・ブランドの信頼性だと思います。
 マスメディアに身を置くわたし自身の自戒も込めて言えば、今回の誤報は週刊誌だから起きたこと(新聞では起こりえない)ととらえるか、媒体を問わずジャーナリズムの質が問われている事態ととらえるかによって、得る教訓も、その教訓の生かし方も変わってくると考えています。