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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

読書:「新しい労働社会―雇用システムの再構築へ」(濱口桂一郎 岩波新書)

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)

 労働組合の専従役員を務めた計3年間を振り返って思うことがあります。3年もやれば、さすがに自分の所属する企業や産業にとどまらず日本社会の雇用全般の問題に関心も深まり、知識も増えるのですが、労力はどうしてもその時々に直面している緊急性の高い産業内の課題に向かっていました。習得した知識を系統立てて整理し、過去を踏まえて現在に対処し未来を見据える、といった確固とした労働観を自分自身の中に作り上げるまでには至りませんでした。恥ずかしながら、短期的な視野しか持っていなかったと思います。労働運動に身を置いていたあの3年の間にもっと勉強しておけばよかった、というのが今の正直な気持ちです。例えばこの本をあの当時に読んでいれば―。本書を通読して、そんなことを考えました。
 著者の濱口さんは旧労働省出身の研究者。欧州の労働・雇用状況に詳しく、ブログ「EU労働法政策雑記帳」も労働問題を考える上で参考になります。
 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

 本書の価値は著者が「はじめに」で次のように触れている点に集約されていると思います。

 現代社会では、多くの人々が労働に基づいて生活を成り立たせています。これを「労働社会」と呼ぶことができるでしょう。それは、どの部分も他の部分と深く関わり合い、一つの「雇用システム」をなしています。部分部分の改善は全体像を常に意識しながら行われなければなりません。また、雇用システムは法的、政治的、経済的、社会的などのさまざまな側面が一体となった社会システムであり、法解釈や理論経済学など特定の学問的ディシプリンに過度にとらわれることは、議論としては美しいが現実には適合しない処方箋を量産するだけに終わりがちです。
 わたしは、労働問題に限らず広く社会問題を論ずる際に、その全体としての現実適合性を担保してくれるものは、国際比較の観点と歴史的パースペクティブであると考えています。少なくとも、普通の社会人、職業人にとっては、空間的および時間的な広がりの中で現代日本の労働社会をとらえることで、常識外れの議論に陥らずにすみます。
 本書は、日本の労働社会全体をうまく機能させるためには、どこをどのように変えていくべきかについて、過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向を示そうとしたものです。それがどの程度成功しているか、興味を持たれたらぜひページをめくっていただければ幸いです。

 「格差社会」という呼び方が社会に定着し、「派遣切り」など非正規雇用の不安定さが社会問題として注目される中で、働き方、働かせ方をどうするのか。「過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向」に関心のある方は、ぜひ本書を手にすることをお奨めします。特に、労働組合の執行部に身を置く方には、具体的な運動をどう組み立てていくのかを考える上でも、様々な示唆に富んでいると思います。
 ここでは章立ての紹介にとどめておきます(※は引用者注)。

序章  問題の根源はどこにあるか−日本型雇用システムを考える
 ※キーワードは「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」の3つです。
第1章 働きすぎの正社員にワークライフバランス
 ※ホワイトカラーエグゼンプションをめぐる議論が「長時間労働」よりも「残業不払い」に集中したことの問題点などを解説しています。
第2章 非正規労働者の本当の問題は何か?
 ※請負や派遣など、使用者と被雇用者の1対1の関係ではない働き方の類型を整理しています。正社員と非正規労働者の均等待遇がなぜ日本で実現できないのかも分かります。
第3章 賃金と社会保障のベストミックス−働くことが得になる社会へ
 ※働くよりも生活保護を受けた方が得というワーキングプアの状態は解消されるべきです。
第4章 職場からの産業民主主義の再構築
※職場の労働者の意思を代表しうるのはどんな組織かの考察を示しています。企業内組合の今日的な可能性の指摘には、説得力を感じます。

 以下はわたしなりの本書の読み方、感想です。
 このブログでもたびたび書いていることですが、わたしはマスメディアのジャーナリズムのありようと、マスメディアの企業内記者の働き方に関心を持っています。
 日本ではジャーナリズムの分野でも労働運動は企業内組合が基本です。新聞社やテレビ局、出版社ごとに労働組合が組織され、メンバーは正社員が中心です。正確に言えば、正社員だけをメンバーとする組合が圧倒的に多く、ごく少数の組合だけが非正社員もメンバーに受け入れています。個人加盟労組はあっても例外的な存在の色彩が強く、全体状況としては労組のあり方の基本が企業内労組にあることに変わりはありません。わたしは、今やこうしたありようには無視できない問題が出てきていると考えています。
 ジャーナリズムの面から見た最大の問題は、もともと企業メディア内では個々の記者や編集者の良心が「企業」の制約に埋没しかねないのに、労働組合がそれをはねのける担保に必ずしもなりえなくなっていることです。企業による個人への制約には、広告主やスポンサーへの配慮、公権力との間合いなど様々な局面があります。このブログでも触れてきましたが、日本新聞協会には、編集権は経営者の専権事項であることを明記した「編集権声明」(1948年)があります。記者や編集者の個々の良心と経営者が編集権の行使として発する業務命令とが正面から衝突した場合、記者や編集者は個人で抗うしかないとすれば、過酷に過ぎると思います。個々の倫理や良心と、所属企業が発する業務命令の対立をどう調整し、解消するか(場合によっては争議に持ち込むか)は労働組合の本来の役割だと思いますが、それがうまく機能しなくなっています。
 マスメディアの労組が企業内組合であること自体が必ずしも問題なのではないかもしれません。しかし、一方で、欧米のように「ジャーナリスト」という職業が社会的に認知されている場合は、一つの職種の企業横断労組であるジャーナリスト・ユニオンが成り立ちうることになります。個々人の職業倫理と所属企業の業務命令とが対立した場合には、ジャーナリストという働き方全般に関わる問題として、企業横断的にユニオンが解決に努めるような、そういう労働運動のありようも可能でしょう。また、企業が運営するメディアに継続的に、あるいは一定の頻度で作品を発表していれば、メディア企業の正社員か否かは労働者性の観点からはさしたる違いもなく、フリーランスでもユニオンのメンバーシップを得ることができるでしょう。そうしたジャーナリスト・ユニオンが日本でも成り立てば、そのユニオンのメンバーであることがジャーナリストであることの証明の一つにもなるでしょう。
 また、現状では記者や編集者の教育は、日本では新聞社や放送局による「社員教育」の色彩が極めて強いままです。ジャーナリスト・ユニオンが成り立つなら、個々の企業利益からは距離を置いたジャーナリスト教育を可能にする環境整備にもつながり、ひいては社会で「ジャーナリスト」という職業が認知されることも期待できると思います。
 つまり以上のようなことを考えながら、わたしとしては日本でのジャーナリスト・ユニオンの可能性に期待を持っているわけですが、そうした発想を持ちながら本書に接してみて感じたのは、企業内組合という組織形態をいちがいに否定することなく、そのありようをあらためて点検し、再評価することも必要ではないか、ということです。現実にメディア企業の企業内組合が厳として存在し、その連合体である新聞労連民放労連もまた厳として存在しています。こうした運動組織体が内包しているパワーと可能性を生かしながら、よりよい未来を模索するべきなのかもしれません。職能別の労組としてジャーナリスト・ユニオンを指向するとしても、現に企業内組合が存在していることと矛盾・対立しない、「企業内組合か、個人加盟組合か」の二者択一に陥らないやり方がありそうだ、ということに思い至りました。著者の言葉を借りるなら「過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向」です。
 
 ※ここでは、わたし自身の考察、関心ということで、記者、編集者という職種に限定して言及しました。メディアは企業活動としてみれば、ほかにもさまざまな職種・仕事の人たちが働いています。新聞なら販売店の労働現場もありますし、放送は何層もの下請け構造があり、非正規労働者も数多く働いています。メディアの労働問題が新聞の発行本社や放送局の問題にとどまらないことは自明です。

 ※日本新聞協会の「編集権声明」やマスメディアの「内部的自由」については、以下の過去エントリーも参照ください。
 「BPO意見書が指摘するメディアの『内部的自由』の重要性」(2009年5月5日)
 http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20090505/1241528411

 【追記】2009年9月29日午前9時
 このエントリーに対し、著者の濱口さんにご自身のブログでコメントしていただきました。
 「『ニュース・ワーカー2』の美浦克教さんの拙著書評」
 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/2-74d5.html

美浦さんはマスメディアのジャーナリズムのありようと、マスメディアの企業内記者の働き方という観点から、論を進めて行かれます。とても面白いので、是非リンク先をお読みください。

 ありがとうございます。