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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

新聞記者は「血の粛清」後、プロとして残れるのか〜読書「フリーからお金を生みだす新戦略」

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

 著者のクリス・アンダーソンは「ワイアード」誌編集長で「ロングテール」という言葉を世に知らしめたことで知られます。わたしは「ロングテール」という言葉と概念は知っていましたが、著作は読んだことがありませんでした。話題の1冊であり、評判に違わず読み進めるのはとても刺激的な体験でした。ただ読む人の立場、例えばモノを作って売る立場か、商品を買う消費者の立場か、の違いで読後感は異なるのではないかと思います。わたし自身は衰退が目立つ新聞産業の編集部門に身を置く記者職(編集者)の一人です。米国の後を追うように、日本でも新聞記者の大量失業が始まったら、自分はどうするだろうか…ということを考えながら(本当は考えたくないのですが)読みました。そして読み終わった今は、ネット上で「情報もフリー(無料)」という状態が出現していることに、ただ腹を立てていても仕方がないなのだな、ということをあらためて考えています。

 以下は本書のわたしなりの読み方です。
 これまでのマスメディアにも無料モデルはありました。民放はその典型です。視聴者は放送を見る上では無料ですが、スポンサーがテレビ局に広告費を支払い、その経費は商品に上乗せされ、消費者が最終的には負担する仕組みです。印刷物でもフリーペーパーはこのモデルです。
 著書が取り上げている「フリーミアム」は、デジタル技術とインターネットによって可能になった新しいモデルです。まず無料でサービスを提供し、大勢の人たちの評判と評価を勝ち取ること。次に機能を高めたプレミアム版を用意すれば、ユーザーの何人かはそちらに移行する。一部の有料顧客が他の顧客の無料分を負担する、という仕組みです。これが可能になるのは、デジタル技術とインターネットが複製コストを限りなく下げるのと、それ故に無料ユーザー数が非常に多くなるので、うち数%でも有料に移行すれば十分な収益が見込めるからです。本書で分かりやすい例として紹介されているのは音楽です。ネット上では無料で公開し、広く知られることによって、有料のライブの観客数が増えるというわけです。このモデルでは海賊版すら宣伝の上では有用ということになります。

 このフリーミアムをジャーナリズムやマスメディア、とりわけ新聞との関連で考えるとどうなるのでしょうか。
 日本でも既にネット上では、新聞社が提供する記事が無料で流れています。新聞社が発行する紙の新聞がプレミアム版として顧客を獲得できれば、そこで得られる収益でまかなえるだけの経営は可能と、理屈の上ではそうなります。プレミアム版は紙の新聞である必要はなく(あるいは紙の新聞はプレミアム版たりえないのかもしれず)、ネット上で課金する情報サービスでもいいのかもしれません。いずれにしても、無料で提供している記事、あるいは無料で記事を提供していることそれ自体に優越している何らかのプレミアムであることが必要なのでしょう。
 そのプレミアムを新聞社は用意できるのか。用意できたとして、そこで得られる収益は、これまで通りの経営が可能なほどなのか。新聞社の記事は一本一本に、直接原価ともいうべき編集面でのコストだけを考えても、取材して原稿にする記者、それをチェックして完成させるデスクらの人件費まで含めて少なくない経費がかかっています。
 プレミアムを用意できないとして、いずれにしても、ではネットへの記事の無料提供を打ち切ることはことができるかと言えば、現実的ではないように思えます。必ず別の新聞社が提供するでしょうから。本書の帯に書かれている「あなたがどの業界にいようとも、<無料>との競争が待っている」とのフレーズは、その通りなのだろうと思います。

 本書の「結び」の一つ前、第16章ではフリーに対する反対意見を14紹介し、著者が反論を加えているのですが、その14番目がまさに新聞やジャーナリストに深く関わる論考です。少し長くなりますが引用します。

14 フリーはクオリティを犠牲にして、アマチュアの肩を持ちプロを排除する
 ニュースサイトの「ハフィントン・ポスト」が台頭して、人々がコンテンツを無料で提供するようになったことと、プロのジャーナリストが失業し、消えていっていることが同時に起きているのは偶然ではない。
―アンドリュー・キーン
 「グーグルとウィキペディアYouTubeに未来はあるのか?」の著者

 そのとおりだ。フリーはプロとアマを同じ土俵にあげる。より多くの人が金銭以外の理由でコンテンツをつくるようになれば、それを職業としている人との競争が高まる(プロのジャーナリストを多く雇っている者として、私はアマとプロの共通点や違いについて、常に考えている)。それらすべては、出版事業にたずさわることがもはやプロだけの特権ではないことを意味する。けっして、出版によってお金が稼げなくなることを意味してはいない。
 プロのジャーナリストが自分たちの仕事がなくなっていくのを見るはめになるのは、彼らの雇い主が、潤沢な情報の世界で彼らに新しい役割を見つけることができないからだ。全般的に新聞はそうだと言える。おそらく新聞は音楽レーベルと同じように劇的に再構築されなければならない業界だ。『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォールストリート・ジャーナル』などの一流紙は少し規模が小さくなり、その下の各紙は激減するだろう。
 だが、血の粛清のあとには、プロのジャーナリストに新しい役割が待っているはずだ。参加資格が必要だった伝統的メディアの範囲を超えてジャーナリズムの世界で活躍できるプロは、減るどころかますます増えるだろう。それでも報酬はかなり減るので、専業ではなくなるかもしれない。職業としてのジャーナリズムが、副業としてのジャーナリズムと共存するようになるのだ。一方で、別のプロはその能力を使ってライターではなく編集者兼コーチとなり、アマチュアが自分たちのコミュニティ内で活躍できるように教育して組織していくかもしれない。そうなればフリーが広がっても、金銭以外の報酬のために記事を書くアマチュアを指導することで、プロはお金をもらえる。したがって、フリーはプロのジャーナリストの敵にはならず、むしろ救いの手になるのだ。 

 このブログでも再三、書いていますが、日本でもネット上に一次情報を提供しているのは新聞社だけではありません。新聞社はその一部です。フリーのニュースサイト、フリーの一次情報はネット空間で日本語情報圏にもあふれています。日本でも米国の後を追って「プロのジャーナリストが自分たちの仕事がなくなっていくのを見るはめに」なり、「血の粛清」へと続くのでしょうか。そうだとしても、著者が予測するように「職業としてのジャーナリズムが、副業としてのジャーナリズムと共存するようになる」のであれば、社会にジャーナリズムは残りますし、むしろ多様性は増すのかもしれません。それはそれで社会にとってはいいことですし、著者の予測通りなら、プロのジャーナリストにも、収入の多寡はともかくとしてプロとしての新しい生き方が見出せそうです。
 ただ日本について考える場合には「ジャーナリスト」という言葉に注意が必要だと思います。海外、特に欧米では「新聞記者=ジャーナリスト」とみなすことに一定の社会的な合意があります。新聞社という企業の社員である以前に、大学や専門教育機関でジャーナリストとしての訓練を受け、ジャーナリストという専門職として企業に採用されるからです(これが欧米でどこまで一般的なのかは、わたしには詳しい知識がなく未だ考察中です)。共通の職能の個人が加盟する労働組合としてのジャーナリスト・ユニオンがある場合は、ユニオンが各新聞社と共通の労働協約を締結することで、新聞社が記者を雇う場合はユニオンのメンバーに限る、という「ユニオン・ショップ」制も実現しています。
 これに対して日本では、必ずしも「新聞記者=ジャーナリスト」ではないとわたしは考えています。日本の場合、新聞記者は新聞社の社員が「記者」という職種を会社から付与されているだけの存在です。新聞社の社員であること以外には、例えば「ジャーナリスト・ユニオンのメンバーである」といったようなジャーナリストであることの属性は何もありません。スキルの面でも、ジャーナリストとしての教育は伝統的に新聞社が採用後にオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)で記者教育を行うだけです。その記者教育にしても、当たり前と言えば当たり前ですが、企業が行う社員教育の性格を色濃く持っています。
 そうした日本の新聞記者たち、プロのジャーナリストである個人と言うよりは、企業のメンバーシップを取材力の源泉として働いてきた企業内記者が「血の粛清」に直面したとき、その後の自らの役割を企業から離れて社会の中に見出すのはとても厳しいのではないかという気がしています。日本の新聞で「血の粛清」が避けられるのならそれに越したことはありません。しかし、楽観論に根拠がないのなら、プロとして生きていく術を新聞記者のだれかが今のうちから考えておくことも意味のないことではないだろうと思います。ネット上で「情報もフリー」という状況が出現して既に久しいのですから。

※追記 2010年2月13日午後3時10分
 アップして間もなくですが、一部の分かりにくい表現を手直ししました。