ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

日米密約と東京大空襲に共通するもの(再録・大本営発表報道)

 日付が変わって3月11日です。65年前のきのう、ということになりますが1945年3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大空襲を受け、一夜にして10万人以上が犠牲になりました。東京大空襲です。8月の敗戦まで、後述する当時の「大本営発表報道」によって戦争の実相は国民に知らされないままでした。「民(たみ)に知らしめるべからず」−。かつての戦争に対して抱いているこの強い印象が、同じようにそのまま当てはまるニュースが、きのう3月10日付の新聞朝刊各紙に1面トップで掲載されました。日米間の密約をめぐる外務省有識者委員会の報告と岡田克也外相の記者会見です。
 米国を敵にして日本が直接戦った戦争と、平和憲法下で日米安全保障条約の陰にあった密約と、性格も異なり時間を隔てていながらも、わたしがこの2つの出来事から共通して思い起こすのは「戦争で最初に犠牲になるのは真実」という有名な言葉です。日米間の密約をめぐる調査結果については、ここで詳細に紹介するまでもないと思います。戦争をする国である米国との関係の中で、日本では戦後も為政者の側が民衆を真実から遠ざけようとしていました。核を積んだ艦艇の入港にせよ、沖縄返還にせよ、在日米軍基地をめぐって外務省も歴代の政権も、主権者たる国民に「知らしめるべからず」の姿勢で臨んでいたことが明白になりました。
 米国は戦後も一貫して戦争をする国であり、在日米軍基地は朝鮮戦争でもベトナム戦争でも重要な役割を果たしました。イラク戦争を見れば分かるように、現在もその役割は変わりません。仮に在日米軍基地が日本の安全保障に不可欠だとしても、またこれらの戦争が日本と日本人が直接戦った戦争ではないとしても、米軍基地を置き続けることで結果的に日本は戦争に無関係ではいられなかった、とわたしは考えています。特にイラク戦争では、米国の先制攻撃による開戦の直後、当時の小泉政権がいち早く鮮明に支持を表明したことは忘れてはならないと思います。米軍基地が日本に存在し続けるが故の密約だったとするならば、やはり戦争のために真実が犠牲になっていたのだと思います。
 ただ、65年前の当時と今日とで異なっているのは、戦後は大本営発表のようには報道が統制されなかったことです。当時との比較では、曲がりなりにも報道の自由は保たれてきました。政府自身による密約の真相解明が動き出した最大の要因は昨年の政権交代ですが、その前から、マスメディアの個々の報道によって元外務省次官らによる密約の存在の証言が公になっていました。さかのぼれば、1970年代から密約の存在は指摘され、大きな潮流ではなかったかもしれませんが報道も続いていました。国民も、政府のウソを信じていなかったのだと思います。
 今日では、マスメディアを押さえれば後は口コミしかないという社会ではなく、マスメディアが報じないこともソーシャルメディアを通じて様々に社会に流れています。こうしたメディア事情の変化は、政権交代を実現させた大きな要因の一つにもなっていると思います。マスであろうとソーシャルであろうと、多様なメディアがそれぞれの持ち味を生かし、自由な情報と多様な意見が社会に流通する状況が広がっていくことは、民主主義にとって重要だと思います。
 折しも、沖縄の米軍普天間飛行場の移転先をめぐる論議が続いています。密約問題を教訓として生かすにはどうすればいいのか、社会に議論の高まりが必要だろうと思いますし、そのためにマスメディアが果たせる役割は何か、マスメディアの内部で働くわたし自身の課題として考えていきたいと思います。

 新聞労連の専従役員時代に運営していた旧ブログ(ニュース・ワーカー)を含めて、わたしはブログで東京大空襲に触れるたびに、当時の大本営発表報道がどういうものだったか、当時の新聞記事を紹介してきました。マスメディアで働く者としての戦争体験の継承の意味も込めて、ことしも再掲しておきます。1945年3月11日付の朝日新聞の記事です。昨年のエントリーに書いたことの繰り返しになりますが、読み返すにつけ、社会に「表現の自由」と自由な情報の流れが担保されていることはそれ自体の価値を超えて、ひいては戦争を防ぐ、止めるために決定的に重要だということを強く感じます。ジャーナリズムの究極の役割は戦争を止めることにこそある、ということを、あらためて胸に刻みたいと思います。

B29約百三十機、昨暁
帝都市街を盲爆
約五十機に損害 十五機を撃墜す

 見出しは上記の通りです。続いて大本営発表の本文です。

大本営発表」(昭和二十年三月十日十二時)本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり
現在迄に判明せる戦果次の如し
 撃墜 十五機 損害を与へたるもの 約五十機

 人的被害には一切触れず、具体的な被害と言えば、宮内省の厩が焼けたが朝までに鎮火したとあるだけです。
 この後、発表を受けて朝日の記者が書いたとみられる記事が続きます。もちろん検閲を受けていました。

単機各所から低空侵入

 敵機の夜間来襲が激化しつつあったことは敵の企図する帝都の夜間大空襲の前兆として既に予期されていたことであったが、敵はついに主力をもって帝都を、一部をもって千葉、宮城、福島、岩手の各県に本格的夜間大空襲を敢行し来たった。

 まず房総東方海上に出現した敵先導機は本土に近接するや、少数機を極めて多角的に使用しつつわが電波探知を妨害して単機ごとに各所より最も低いのは千メートル、大体三千メートル乃至四千メートルをもって帝都に侵入し来たり帝都市街を盲爆する一方、各十機内外は千葉県をはじめ宮城、福島、岩手県下に焼夷弾攻撃を行った。

 帝都各所に火災発生したが、軍官民は不適な敵の盲爆に一体となって対処したため、帝都上空を焦がした火災も朝の八時ごろまでにはほとんど鎮火させた。また右各県では盛岡、平に若干の被害があったのみで他はほとんど被害はなかった。

 この敵の夜間大空襲を邀(よう)撃してわが空地制空部隊は帝都上空および周辺上空において壮烈な邀撃戦を敢行して大規模な初の夜間戦闘において撃墜十五機、損害五十機の赫々たる戦果を収めた。

 現下の防御態勢においてかくのごとき敵空襲は避けがたく敵は本土決戦に備えて全国土を要塞化しつつあるわが戦力の破壊を企図して来襲し来ったものと見られる、しかし、わが本土決戦への戦力蓄積はかかる敵の空襲によって阻止せられるものではなく、かえって敵のこの攻撃に対し邀撃の戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう。

※関連過去エントリー
「あらためて東京大空襲の『大本営発表』報道」(2009年3月10日)
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20090310/1236694754

東京大空襲の『大本営発表』報道」(2008年4月25日)
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20080425/1262048340

東京大空襲と『大本営発表報道』」(2006年3月10日)=旧ブログ「ニュース・ワーカー」
http://newsworker.exblog.jp/3637903