ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

新聞を鉄道で運んでいた時代

 13日のJRダイヤ改正で、上野と金沢を結ぶ寝台特急ブルートレイン「北陸」とボンネット型車両で運行する急行「能登」が廃止されました。12日夜の上野駅金沢駅には、最近話題の「撮り鉄」と呼ばれるカメラを手にした鉄道ファンが詰め掛けたことがニュースになりました。13日付の新聞朝刊でも報じられていることと思います。この日、ラストランを迎えた列車がほかにもあります。東京の両国駅から千葉方面へ新聞夕刊を運んだ「新聞輸送列車」です。全国で唯一残っていた新聞輸送専用の列車車両です。
※「新聞専用列車、3月で幕 経費削減『時代の流れ』」(47news=共同通信、2010年2月9日)
 http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020901000115.html

 新聞はテレビの登場後もなおしばらく、インターネットが登場するまでは、テキスト系では唯一と言っていい速報メディアでした。最近、全国紙が印刷を地方紙に委託するケースが相次ぎ話題になっていますが、かつては全国紙は東京や大阪、北九州の発行本社の工場で印刷し、遠隔地へは鉄道で運んでいました。輸送には時間がかかるため、その分、紙面の締め切りは早くなります。地域によっては、朝刊にはプロ野球のナイターの結果は間に合わず、途中経過しか載っていませんでした。1970年代からは、全国紙各紙は本社工場のほかに遠隔地に自前の工場を持つようになり、締め切りも遅くなってプロ野球も試合結果が載るようになりました。「現地印刷」と呼びます。同時に鉄道による長距離の新聞輸送もなくなっていったのだと思います。
 わたしは1983年に新聞記者になり、その年の5月に赴任した最初の任地が青森でした。朝日、読売、毎日の全国紙はいずれも1975年ごろに青森に現地印刷工場を作っており、原稿の締め切り時間は青森市に本社を置く東奥日報八戸市のデーリー東北など地元紙とさほど遜色がありませんでした。全国紙の場合、今でも東京本社発行の朝刊最終版の締め切りは午前1時15分ごろですが、青森で配る紙面も午後11時ぐらいまで、場合によっては午前零時ごろのニュースも掲載していたと思います。
 現地印刷が始まる前は、そうではありませんでした。その当時のことを先輩記者らから時折、聞かされました。東京の本社で紙面を組んで印刷して上野駅に持ち込み、夜行列車で青森まで運びます。新幹線もなかった当時、上野から青森までは特急でも9時間はかかっていました。逆算すると、原稿の締め切りは夕方です。その日の締め切りが過ぎると、青森で記者たちはやることがなくなり、仮に夜間に事件が起きても、記事を送るのは翌日の午後から夕方だったそうです。青森では今もそうですが、全国紙の夕刊はありませんでした。
 青森に限ったことではありませんが、全国紙が現地印刷に乗り出すことで、それまで地元紙の独壇場だった販売面で競争が激しくなります。それが結果的には新聞全体の販売部数の伸びにつながった面もあったのでしょう。1980年代、新聞はまだまだ右肩上がりの成長産業でした。当時を知らない世代の人には、想像がつかないかもしれません。
 インターネットだけが理由ではないと思いますが、新聞の部数は減少傾向に転じ、全国紙が各地に自前の印刷工場を持つことは経営的に困難になっています。そこで増えてきているのが地方紙との提携です。地方紙にとっても、印刷受託の収入があり、工場の輪転機を効率よく稼動させることができます。実は新聞の輪転機には汎用性がなく、刷れるのは新聞か新聞の形をした例えば選挙公報などに限られています。かつては激しい販売競争を繰り広げた地域もあった全国紙と地方紙ですが、今や委託印刷に双方のメリットがある、そういう時代になりました。
 この先も、紙の新聞でニュースを読みたいとのニーズが社会にある限り、部数は減っても新聞が消えてなくなることはないと思います。しかし新聞社が個々に自前の輪転機を持つのではなく、複数の新聞社が共有するような形態へ進むのかもしれません。

※追記 2010年3月13日午前11時05分
 12日の新聞輸送列車のラストランを朝日新聞の13日付朝刊が取り上げています。「北陸」や「能登」ほどの人気ではなかったようですが、約430人の鉄道ファンが両国駅で発車を見送ったそうです。