「あと1日」を許さなかった8月14日の大阪大空襲(再び)

 大阪に来て2度目の8月15日です。昨年は8月14日に同じタイトルでエントリーをアップしました。別のタイトルが浮かばず、「再び」を付けてのアップです。
 大阪では67年前の8月14日、つまり終戦の前日に、米軍B29爆撃機140機余による8回目の大空襲がありました。当時、大阪城の東側一帯に陸軍砲兵工廠が広がっていました。現在のJR大阪環状線京橋駅から大阪城公園駅、森ノ宮駅まで続くその敷地は広大でした。B29の爆撃目標はこの大軍需工場でしたが、京橋駅にも直撃弾がありました。電車を降りて空襲が終わるのをホームで待っていた多くの乗客が犠牲になりました。工廠と合わせ、犠牲者は数百人に上るとされます。京橋駅の惨禍から、この終戦前日の大空襲は「京橋空襲」「京橋駅空襲」とも呼ばれています。
 京橋駅には犠牲者の慰霊碑があります。14日は空襲の体験者や遺族らが参列して慰霊祭がありました。在阪の新聞、テレビも取材し、それぞれに伝えています。
 ※MBS毎日放送のニュース
 http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE120814114800599304.shtml
 終戦前日に大阪で大空襲があったことは、知識としては以前から知っていました。昨年2月に大阪に転居して以降は、現に自分が生活し、働いている土地で実際に起こった出来事として、それまでにはなかったリアリティをもって受け止めるようになりました。

 ことしの8月14日に先立って先日、現地に足を運び、慰霊碑に手を合わせてきました。大阪環状線なら下車してホームのいちばん天王寺寄り、片町線学研都市線)ホームに近い南口を出て右手すぐの場所に慰霊碑はあります。1945年当時、ここは砲兵工廠の北端に隣接していました。現地に立ってみて「あと1日生き延びていれば」と思わずにはいられませんでした。そして、その「あと1日」を許さなかった戦争のむごさをあらためて感じました。犠牲になった人たちの多くは、あの日あの時刻、この場所にいたのは偶然だったのでしょう。個人の意志や力ではどうしようもできないまま、一方的に命が奪われていく。だから戦争は人権侵害の最たるものだと考えています。
 京橋駅に戻って再び環状線に乗り、二つ先の森ノ宮駅で降りました。西へ少し歩いた先に、大阪国際平和センター「ピースおおさか」があります。大阪府大阪市が出資する財団法人「大阪国際平和センター」が運営する施設です。1945年3月から8月まで8回にわたった大阪大空襲の全容を、映像や写真、当時の地図、体験者の証言集など各種資料で分かりやすく展示しています。
 以前のエントリーでも紹介しましたが、ピースおおさかが編集した冊子「写真で見る大阪」の資料編によると、太平洋戦争で大阪では1944年12月に最初の小規模の空襲がありました。1945年3月13日深夜から14日未明にかけて、一気に274機ものB29が来襲。焼夷弾1733トンを大阪市浪速区や西区、南区など中央部に投下しました。死者3987人、不明678人、重軽傷8500人。一夜で10万人以上が犠牲になったとされる3月10日の東京大空襲の直後のことでした。それからしばらくは空襲は散発的でしたが、6月になると激化し、繰り返し400機以上のB29が来襲。そして最後の大空襲が8月14日でした。空襲は計58回としています。被害について、大阪府警察局「大阪府空襲被害状況」(1945年10月)を引用し、死者計12620人、行方不明計2173人、重軽傷計31088人、被災家屋計34万4240戸、被災者計122万4533人の数字を紹介していますが、同時に空襲の回数、被害地域と被害状況を精査する必要があると指摘しています。
 ピースおおさかの展示を順に見ていて、ハッとなったことがあります。「大阪空襲死没者名簿」です。ピース大阪の展示やネット上のサイトの説明によると、1999年に「大阪戦災障害者・遺族の会」が調査した約6000人分の名簿がピースおおさかに寄託されました。ピースおおさかでは、この名簿などをもとに、大阪府の委託を受け、2002年10月より大阪大空襲による死没者の本格的調査を全国的に実施。当時の行政資料や遺族の申し出などから、8816人の氏名などが判明。その後も遺族の申し出を受け付けており、2009年3月現在で8980人の氏名などが判明しているそうです。上記のように空襲の犠牲者は行方不明を合わせて約14800人とのデータがあります。「ハッとなった」のは、どこのだれが空襲の犠牲になったのか、9千人近い人たちの身元は特定されても、なお身元が特定されていない人が多数いるという点でした。考えてみれば当たり前のことです。家族全員が犠牲になり、どこのだれと身元を証言する人がだれもいない、というケースもあっただろうことは容易に想像できます。
 戦争被害について、ひと口に死者は何千人、何万人と口にすることが少なくありません。しかし、例えば大阪空襲なら「約14800人の死」という一つの事実としてではなく、約14800人の一人ひとりにそれぞれの生があった、ととらえたいと考えています。そしてその人たちのすべての身元、その人たち一人ひとりの人生を記録にとどめておきたいと思います。そうすることが、社会の戦争体験の風化を食い止める一助になるのではないかと思うからです。
 ピース大阪は敷地内の中庭「刻の庭(ときのにわ)」にドームを設け「大阪空襲死没者名簿」を収納するとともに、内壁の銅板に名簿をもとに空襲犠牲者の氏名を刻んでいます。今後もここに名前が刻まれ、後世に伝えられる人が一人でも多く増えていくことを願っています。


※写真はピースおおさかエントランスと「刻の庭」のドーム
※「ピースおおさか大阪国際平和センター」ホーム
 http://www.peace-osaka.or.jp/
※参考過去エントリー:8月14日の大空襲を体験した故小田実さんの話を収録しています。参照いただければうれしいです。
 「『あと1日』を許さなかった8月14日の大阪大空襲」2011年8月14日
 http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20110814/1313282333