サイパンの戦いとB29初空襲〜1944年6月の出来事

 先週の週末に目にした二つの記事を紹介します。いずれも70年前の1944年6月の出来事です。
※47news=共同通信サイパンの戦いから70年 日米双方出席し式典」2014年6月15日
http://www.47news.jp/CN/201406/CN2014061501001704.html

サイパン共同】北マリアナ諸島(米国自治領)のサイパン島で15日、太平洋戦争での日本敗戦を決定付けた「サイパンの戦い」から70年の記念式典が開かれた。戦闘に参加した日米双方の元軍人も出席して激戦の犠牲者を追悼し、平和への思いを新たにした。
 元海軍兵の井手口義雄さん(88)=栃木県那須塩原市=は「戦友たちは『おっかあ万歳』と、母親や家族の名前を呼んで死んでいった。『天皇陛下万歳』などと叫んでいた者など知らない」と、あふれ出る涙を拭いながら戦死した仲間をしのんだ。「自分だけ一人生き残って申し訳なかった」と慰霊訪問を続け、今回で30回目。

西日本新聞「八幡空襲、風化に危機感 国内初のB29大規模攻撃、16日で70年 」2014年6月15日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_kitakyushu_keichiku/article/95030

 太平洋戦争において米軍の大型爆撃機B29による国内最初の大空襲とされ、今の北九州市域が爆撃された「八幡空襲」から、16日で70年になる。死者・行方不明者は300人を超えるが、戦争末期の大空襲に比べると地元でも関心は高くない。「あの空襲の意味を問い直したい」。憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認を政府が目指し、戦後日本の安保政策が岐路に立つ中、悲劇を知る遺族は、遠のく戦争の記憶に危機感を強めている。
 1944年6月16日未明。同市八幡東区の起定二男(おきさだつぎお)さん(80)は、あの恐怖を今も思い出す。旧八幡市の自宅の防空壕(ごう)で息を潜めていたら、突然ドドーンとごう音が響いた。300メートルほど離れた料亭が直撃された。「ラジオは日本の連戦連勝を伝え、大人たちも日本は必ず勝つと言っていた。空襲を受けるなんて考えもしなかった」と振り返る。

 共同通信は「サイパンの戦い70年」について新聞向けには、サイド記事も含めて複数の長文の記事を配信しています。その中で、第2次世界大戦ではサイパン島の陥落後、日本本土の各都市はサイパン島から飛来する米軍の29爆撃機の空襲を受けるようになり、日本の敗戦を決定付けるに至った歴史を紹介しています。サイパン島が米軍の手に渡れば日本にとって戦況が苦しくなることは目に見えていたにもかかわらず、その後も1年以上にわたって戦争は続き、沖縄の地上戦や広島、長崎への原爆投下で、おびただしい住民(非戦闘員)が犠牲になりました。仮にサイパン島の戦いでの敗北を機に、当時の日本政府、戦争指導部が戦争終結を決断していたなら、と考えずにはいられません。
 そのB29が初めて日本本土に飛来したのが福岡県八幡市(現北九州市)だったことは、知識としては知っていましたが、その日が、サイパン島に米軍が上陸した1944年6月15日の翌日だったことに、西日本新聞の記事であらためて気付かされました。このB29の日本初空襲のことは、柳田邦夫さんの「ゼロ戦燃ゆ」で知りました。米軍の最新兵器であり、日本も早くからその存在はキャッチしていたようです。八幡への空襲は、中国内陸部の四川省成都の基地を拠点に行われました。機体は事前にインドを経由して中国に空輸。八幡が目的地になったのは、軍需工場でもある八幡製鉄所があったことと、成都を発進して往復できるギリギリの距離だったことが理由だったようです。
 米軍にとっては、B29で東京を直接攻撃できる拠点として、サイパン島は重要でした。日本政府や日本軍指導部としても、サイパン島で激戦が展開されているころには、既に八幡空襲でB29の脅威を実地に知っていたはずでした(一般の国民には戦争の実相が知らされなかったことにも留意しておきたいと思います)。
 歴史に「もしも」はどこまで意味があるのかはともかく、教訓は生かすべきです。敗戦の教訓から生まれたのが、戦争放棄と戦力不保持を定めた9条を含む日本国憲法だったと、わたしは受け止めています。西日本新聞の記事の「憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認を政府が目指し、戦後日本の安保政策が岐路に立つ中、悲劇を知る遺族は、遠のく戦争の記憶に危機感を強めている」との指摘を読むにつけ、戦争体験の継承は今日的に大きな意味を持っていると感じます。来年は日本の敗戦から70年です。戦争で何があったか、事実を伝え続けることはマスメディアの大きな責務だと考えています。