続・伊丹万作「戦争責任者の問題」

 このところ、昨年5月にこのブログに書いた過去記事がぽつぽつと読まれているようです。戦前に活躍し1946年9月に亡くなった映画監督、脚本家の伊丹万作が、46年8月に発表した「戦争責任者の問題」という文章のことを書いた記事です。伊丹は、やはり映画監督や俳優として活躍した伊丹十三さんの父親です。

伊丹万作「戦争責任者の問題」と憲法96条〜「だまされる罪」と立憲主義(2013年5月7日)
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20130507/1367881891

 「戦争責任者の問題」は著作権保護期間を過ぎた作品を集めたネット上の図書館「青空文庫」に収録されていて、だれでも自由にアクセスできます。全文で7000字ほどです。
伊丹万作「戦争責任者の問題」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html


 「戦争責任者の問題」で伊丹は、日本の敗戦後に多くの人が「今度の戦争でだまされていた」と言っていることを挙げ、「多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである」と指摘します。「一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」というわけです。そして以下のように指摘しています。

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 敗戦から1年の時点で伊丹は「つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである」と看破していました。
 それから今年は68年。7月1日に安倍晋三政権が、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更を閣議決定しました。その後のマスメディア各社の世論調査で、内閣支持率は下落の傾向がみられましたが、それでも40%台の半ばから後半という支持率は、わたしには依然として高い支持が続いているように思えます。
 昨年5月に伊丹の「戦争責任者の問題」のことを書いた当時は、憲法96条で定められた憲法改正の発議要件の改正が論議されていました。批判が強かったためか、安倍首相は96条改正のことはその後、口にしなくなり、代わって憲法解釈の変更が前面に出てきました。そしてあれよあれよという間に閣議決定に進みました。昨年5月と状況は変わりましたが、伊丹が遺した「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」という言葉は、考えようによってはかえって現在の状況への直接的な警句のように思えます。「戦争責任者の問題」への関心がわずかずつでも増えていることは、伊丹の警句が今日的な命脈を持ち始めたことを示しているのかもしれない―そんなことも考えています。