ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

1945年8月14日の大阪大空襲

 69年前、1945年の8月14日は、大阪で最後の大空襲があった日です。翌15日の終戦まで、あと1日を生き延びることを許されなかった人々のことを、3年前に大阪に赴任して知りました。大阪で2年前に書いたブログ記事が検索で読まれているようで、今日(14日)はいつもよりブログのアクセスが伸びています。

※「『あと1日』を許さなかった8月14日の大阪大空襲(再び)」2012年8月15日
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20120815/1344985658

 この記事でわたしは、空襲で市民が犠牲になったJR京橋駅を訪ねた時のことを以下のように書きました。

 1945年当時、ここは砲兵工廠の北端に隣接していました。現地に立ってみて「あと1日生き延びていれば」と思わずにはいられませんでした。そして、その「あと1日」を許さなかった戦争のむごさをあらためて感じました。犠牲になった人たちの多くは、あの日あの時刻、この場所にいたのは偶然だったのでしょう。個人の意志や力ではどうしようもできないまま、一方的に命が奪われていく。だから戦争は人権侵害の最たるものだと考えています。

 「個人の意志や力ではどうしようもできないまま、一方的に命が奪われていく。だから戦争は人権侵害の最たるもの」との考えは、今も変わっていません。

 1945年8月14日の大阪大空襲に遭遇した方に、作家の故小田実さんがいます。わたしは新聞労連委員長当時の2006年5月、朝日新聞労組主催の集会で、小田さんのこの空襲の経験談を聞く機会がありました。当時、わたしが運営していたブログ「ニュース・ワーカー」のエントリーから、小田さんの発言を記録した関連部分を引用します。

▽戦争体験を継承するためには、あの戦争をもっと調べる必要がある。わたしは1945年8月14日の大阪大空襲を体験した。200メートル先に1トン爆弾が落ちた。米軍は日本語のビラも撒いた。それには「戦争は終わった」と書かれていた。翌日、本当に戦争は終わった。終戦について通説はこうだ。8月6日広島、8月9日長崎に原爆が投下され、ソ連も参戦した。ようやく日本はポツダム宣言受諾の用意に乗り出す。一点だけ「国体護持」の条件をつけたが、連合国から返事はない。最後に聖断がくだった、と、通説になっている。しかし真っ赤なウソだ。米国へ行って調べたら、米国では8月11日の新聞に「戦争は終わった」と出ている。「天皇制は維持されるだろう」と書いてある。翌日の新聞では「維持する」となっている。新聞報道はスイス経由で日本に届く。米国は日本に通告していたのだ。しかし、日本政府は(終戦に)腰を上げず、業を煮やして米国は8月14日に空襲を再開した。政府がグズグズしている間に、死ぬのはわれわれだったのだ。戦争の真実はまだ隠されている。ヤマとある。

※ブログ「ニュース・ワーカー」2006年5月4日:「小田実さんは『憲法9条は今こそ旬』と繰り返し指摘した〜朝日新聞労組『5・3集会』より」
http://newsworker.exblog.jp/3865011

 この小田さんの講演のことは、3年前にもこのブログで紹介しました。そのときに書いた以下のことも、今もわたしの考えとして変わっていません。
※「『あと1日』を許さなかった8月14日の大阪大空襲」2011年8月14日
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20110814/1313282333

 大阪での少年時の空襲体験をもとに、戦争の悲惨さ、愚かしさの本質を突いた小田さんの指摘でした。66年前に日本の敗戦で終結した戦争は、アジア各地におびただしい犠牲を強いた上、沖縄の地上戦、広島、長崎への原爆投下のほか、日本中の主だった都市が空襲を受けて多くの住民が犠牲になりました。それぞれの地に、それぞれに戦争の記録と記憶があります。その体験が継承されていくことで、戦争を認めるわけにはいかないとの不変の意思も受け継がれていくのだと、小田さんの言葉を今読み返して思います。

【写真説明】大阪市・JR京橋駅そばにある1945年8月14日の大空襲犠牲者の慰霊碑(2012年8月撮影)