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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「想定外」は教訓になっているか〜川内原発再稼働容認の司法判断に対する各紙社説の記録

 かなり日がたってしまいましたが、マスメディアの報道、論調の記録として重要だと思いますので、書きとめておきます。
 鹿児島県薩摩川内市にある九州電力川内原発の再稼働差し止めを住民らが求めた仮処分申請で、鹿児島地裁は4月22日、却下する決定を出しました。このブログでも以前に2回記事を書いたように(「読売『偏った判断』産経『奇矯感濃厚』朝日・毎日『司法の警告』〜高浜原発・福井地裁決定の在京紙報道の記録」=4月17日、「地方紙・ブロック紙は『警告』『警鐘』と受け止め〜高浜原発の福井地裁仮処分」=4月19日)、約1週間前には福井地裁が関西電力高浜原発の再稼働を認めない決定を出していました。
※「川内原発の再稼働差し止め認めず 関電高浜と判断分かれる」47news=共同通信、2015年4月22日
 http://www.47news.jp/CN/201504/CN2015042201001014.html

 九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県薩摩川内市)の地震対策は不十分として、周辺住民らが再稼働の差し止めを求めた仮処分申し立てで、鹿児島地裁(前田郁勝裁判長)は22日、却下する決定をした。再稼働に向けた審査のための新規制基準に不合理な点は認められないと判断した。関西電力高浜原発3、4号機をめぐる同様の仮処分申し立てでは、福井地裁が14日、再稼働を認めない決定を出しており、判断が分かれた。
 夏に1号機の発電を開始する九電の計画は、再稼働を差し止めないこの日の決定によって現実味を帯びる。川内原発が再稼働に向け一歩進んだ形で、政府の原発政策には追い風になりそう。

 この相反する二つの司法判断に対して、新聞各紙が社説・論説でどのように取り上げているか、分かる範囲で目を通してみました。もとよりすべての新聞を対象にした網羅的な調査ではありませんし、今回は時間もたっているので見落としも少なからずあると思います。あくまで、わたしの目にとまった範囲での論考です。
 当然といえば当然ですが、福井地裁決定に批判的だった読売新聞、産経新聞鹿児島地裁決定を評価しており、地方紙では北國新聞が同じ論調です。読売、産経両紙は福井地裁決定に対しては「偏った判断であり、事実に基づく公正性が欠かせない司法への信頼を損ないかねない」(読売)「奇矯感の濃厚な判断」(産経)などと、表現も相当に厳しかったのですが、鹿児島地裁決定に対しては、読売は「妥当な司法判断」と評価し、産経は見出しにも「説得力ある理性的判断だ」と掲げました。読売新聞と北國新聞の社説に共通しているのは、鹿児島地裁が技術論の詳細な判断に踏み込むことを控えた点を評価していることです。「最高裁は、1992年の四国電力伊方原発訴訟で、行政の専門的判断を重視するとの判決を言い渡している。今回の決定は、司法の役割を抑制的に捉えた最高裁判例に沿ったものと言える」(読売)というわけです。
 一方、ほかの新聞の社説も鹿児島地裁決定と福井地裁決定を並べて論じるところが大半ながら、鹿児島地裁決定に対して懐疑的な論調が目に付きます。読売や北國と異なるのは、1992年の最高裁判決のとらえ方そのものに懐疑の目を向けている点です。東京電力福島第一原発の過酷な事故が起こってしまった今となっては、行政の専門的判断を重視するとの発想は楽観に過ぎるのではないか、ということです。
 この最高裁判決については、原発の安全性は設置を認めた時点での知見ではなく、その後に明らかになっていった事柄も含めて、「今」の時点での知見に基づいて判断するべきだ、との見解を示しているとの解説があります。それに従えば、司法が今、原発の安全性を判断するには、福島第一原発事故で明らかになったことをも踏まえた判断が必要となります。その新たに明らかになったことの中に、技術論については長らく専門家の判断を尊重するという姿勢のままでいて、結果的に福島の事故が起きたのだから、今後はそういう考え方は取らない、という考え方の転換が含まれることもあるのではないかと思います。新たな知見には当たらないのかもしれませんが、理念としては、考え方や発想の転換を踏まえて最新の判断を示す、ということはありうるのではないかと思います。考え方や解釈の違いによるのでしょうが、そうした考え方に立てば、司法が自ら詳細な技術論に踏み込んで判断していくことも、実は1992年の最高裁判決と矛盾はないようにも思えます。
 私見ですが、1992年の最高裁判決に照らして鹿児島地裁決定を肯定的に評価するのか否かは、福島第一原発事故の教訓として「想定外のことが起こった」という事実を謙虚に受け入れ、「想定外のことは今後も起こり得る」と考えるかどうかの違いのように思えます。


 以下に、まず、鹿児島地裁決定を評価する読売、産経、北國各紙の論説の一部を引用して書きとめておきます。

▼読売新聞「川内原発仮処分 再稼働を後押しする地裁判断」4月23日

 東京電力福島第一原発事故を教訓に、原子力規制委員会が策定した新規制基準を尊重する妥当な司法判断である。
 決定は、新基準について、「最新の調査・研究を踏まえ、専門的知見を有する規制委が定めた。不合理な点はない」と認定した。
 九電は、新基準が求める多重防護の考え方に基づき、耐震性の強化や火山対策などを講じているとも判断し、再稼働により、「住民の人格権が侵害される恐れはない」と結論付けた。
 決定で重要なのは、詳細な技術論に踏み込まず、「裁判所の判断は、規制委の審査の過程に不合理な点があるか否かとの観点で行うべきだ」と指摘したことだ。
 最高裁は、1992年の四国電力伊方原発訴訟で、行政の専門的判断を重視するとの判決を言い渡している。今回の決定は、司法の役割を抑制的に捉えた最高裁判例に沿ったものと言える。
(中略)
 今回の決定は、福井地裁による14日の仮処分の特異性を浮き彫りにした。新基準を「緩やかに過ぎ、安全性は確保されない」と断じ、関西電力高浜原発3、4号機の再稼働を差し止めたものだ。
 ゼロリスクを求める非科学的な主張である。規制委の田中俊一委員長も、「(新基準は)世界で最も厳しいレベルにある。多くの事実誤認がある」と論評した。
 関電は決定を不服として福井地裁に異議を申し立てた。異議審では現実的な判断を求めたい。

 
産経新聞「川内差し止め却下 説得力ある理性的判断だ」4月23日
 http://www.sankei.com/column/news/150423/clm1504230002-n1.html

 鹿児島地方裁判所は、九州電力川内原子力発電所1、2号機(鹿児島県薩摩川内市)の運転差し止めを求めて、周辺住民から出されていた仮処分の申請を却下した。
 原子力規制委員会が定めた原発安全のための新規制基準にも、またそれに照らして適合性が認められた川内原発の安全対策にも不合理な点はないという理由に基づく決定だ。再稼働を大きく近づけた。
 具体的な争点となっていた基準地震動や火山活動、避難計画のいずれについても鹿児島地裁は、住民らの主張を退けた。
 その上で、運転差し止めを求めた住民らの「人格権が侵害され又はそのおそれがあると認めることはできない」と述べている。
 極めて当然で理性的な決定である。現在、規制委による審査の最終段階に当たる使用前検査中の1号機は、順調に進めば、7月上旬の再稼働、8月の営業運転開始が可能になろう。

 この産経の社説(「主張」)は鹿児島地裁決定がなぜ「理性的」だと言いうるのかが、よく分かりません。福井地裁決定と鹿児島地裁決定の判断の差異を具体的な論点で比較、検証する形になっていないのがその一因のようにも思えます。

北國新聞「川内差し止め却下 最高裁の判断に沿う決定」4月23日

 鹿児島地裁と福井地裁の決定は、原発の新規制基準が合理的であるかどうかで判断が食い違っている。新基準が福井地裁の決定で指摘されたように合理的でないとすれば、原発の規制行政の根幹が揺らぐ事態になる。北陸電力志賀原発の再稼働審査の信頼性にも関わる問題になるが、福井地裁の仮処分決定に対しては原子力規制委員会が事実誤認を指摘した。
 原発の安全性をめぐる判断では高度に科学的、技術的な知見を必要とする。それなのに裁判所が規制基準の合理性や施設の耐震性に踏み込んで判断することには無理があったのではないだろうか。
 四国電力伊方原発をめぐる行政訴訟最高裁は1992年に、専門家の意見を尊重した国の裁量を認め、重大な欠陥がない限り違法でないとする判決を出している。
 鹿児島地裁の前田郁勝裁判長は新基準について「専門的な知見を持った原子力規制委員会が審議を重ねて定めた」として合理的と判断し、差し止めを認めなかった。最高裁の判断の枠組みに沿う決定は妥当と言えるのではないか。


 以下は、わたしが目にしたそのほかの各紙の社説です。それぞれ一部を引用して書きとめておきます。


【4月23日付】
朝日新聞「川内の仮処分 専門知に委ねていいか」

 鹿児島地裁の判断は、従来の最高裁判決を踏襲している。行政について、専門的な知識をもつ人たちが十分に審議した過程を重視し、見過ごせない落ち度がない限り、司法はあえて踏み込まない、という考え方だ。
 だが、福島での事故は、専門家に安全を委ねる中で起きた。ひとたび過酷事故が起きれば深刻な放射線漏れが起きて、周辺住民の生活を直撃し、収束のめどが立たない事態が続く。
 原発の運転は、二度と過酷事故を起こさないことが原点である。過去、基準地震動を超える地震が5回起きた事実は重い。「想定外」に備えるためにも、厳しい規制基準を構えるべきである。特に、原発の運転には、国民の理解が不可欠であることを考えれば、規制基準についても、国民の納得がいる。これらの点を踏まえれば、福井地裁判断に説得力がある。
 鹿児島地裁は「地震や火山活動等の自然現象も十分に解明されているものではない」「今後、原子炉施設について更に厳しい安全性を求めるという社会的合意が形成されたと認められる場合、そうした安全性のレベルを基に判断すべきことになる」とも述べている。
 世論調査では依然として原発再稼働に厳しい視線が注がれている。政府も電力会社も鹿児島地裁の決定を受けて「これでお墨付きを得た」と受けとめるべきではない。

毎日新聞「割れた司法判断 丁寧な原発論議が要る」

 新基準に適合すれば重大事故のリスクは許容できるほど小さいと考えるのか、事故のリスクが少しでもあれば許容できないとするのかの違いといえる。判断の難しい問題で、これは再稼働を巡る国民の意見の違いにも通じる。
 福井地裁の裁判長は昨年5月、関電大飯原発3、4号機についても運転差し止めを命じている。
 これを極論として排すべきではない。大津地裁は昨年11月、高浜・大飯両原発の再稼働を巡る仮処分決定で、差し止めは却下したものの、避難計画の策定が進まなければ再稼働はあり得ないとしている。3・11後の司法判断はより厳しくなっているのではないか。
 規制基準を厳格にしても事故の発生確率はゼロにならない。ゼロリスクを求めるだけでは、現実的な議論になっていかない。
 政府は「新規制基準に合格した原発の再稼働を進める」と繰り返しているが、それでは、国民の理解にはつながらない。再稼働を進めたいのであれば、脱原発の道筋をきちんと示す必要がある。

東京新聞中日新聞川内原発仮処分 疑問は一層深まった」

 全体的に、約二十年前に、最高裁四国電力伊方原発訴訟(設置許可処分取り消し)で示した「安全基準の是非は、専門家と政治判断に委ねる」という3・11以前の司法の流れに回帰した感がある。
 だがそれは、もう過去のことであるはずだ。
 原発安全神話は崩れ、福島は救済されていない。核廃棄物の行き場もない。3・11は、科学に対する国民の意識も変えた。
 多くの人は、原発地震、火山の科学に信頼よりも、不信を抱いている。
 新規制基準は、地震国日本でどれほど頼れるものなのか。それに「適合」するというだけで、再稼働を認めてしまっていいものか。避難計画が不完全なままでいいのだろうか。
 司法判断が分かれた以上、規制委や政府は国民の視点に立って、その不信と不安をぬぐい去るよう、より一層、説明に努めるべきではないのだろうか。

北海道新聞「『川内』申請却下 不安に向き合ったのか」

 だが簡単にはうなずけない。
 まず避難計画の評価だ。避難計画をめぐってはバスの確保が不備などの指摘が住民の間にある。
 しかし鹿児島地裁は「現時点で一応の合理性、実効性を備えている」とした。これでは住民の不安は解消できまい。より慎重に検討すべきでなかったか。
 決定は、地理的状況から心配される火山噴火による危険性についても「学者の間で具体的な指摘は見当たらない」と九電側の主張を認めた。警鐘を鳴らす一部の専門家はこれで納得できるだろうか。
 福島第1原発事故以前、原発訴訟といえば高度な科学技術を要するため、行政など専門家に任せるとの判断が一般的だった。
 それは、1992年の四国電力伊方原発愛媛県)訴訟の最高裁判決を踏襲していた。
 その流れは福井地裁が昨春、関西電力大飯原発3、4号機(福井県)の運転差し止めを命じた判決から変わった。
 続く高浜原発などをめぐって差し止めを却下した昨秋の大津地裁の判断の中にも、再稼働に注文を付ける姿勢が読み取れた。

▼デーリー東北「川内原発仮処分決定 安全性を高める教訓に」

 原発差し止めの仮処分は繰り返し請求されてきたが、裁判所の壁は厚かった。だが、福島第1原発事故の後、反原発の世論が後押し、裁判官は原発訴訟に厳しい姿勢で臨むようになった。
 その中で、福井地裁の樋口英明裁判長が昨年5月に安全対策の欠陥を理由に関西電力大飯原発の差し止めの判決を出し、高浜原発の仮処分でも初の差し止めを決定した。
 しかし、この福井地裁の判決と決定は絶対安全論に立って、「結論ありき」のやや心情的な判断が目立つ。一部で事実誤認も専門家から指摘されていた。
 原発の規制も福島の事故を踏まえて大きく転換した。新基準は「世界で最も厳しい」と国際的に認知されている。その評価で両決定は分かれた。事故の発生確率が新基準の適用で下がったとはいえ、完全にゼロではない。その原発を受け入れられるかどうかは社会や経済、文化など多様な要素が複雑に絡む。
 この難問への司法の関与は難しい。「重大な欠陥がない限り認める」との立場の踏襲だけでよいのか。下級審で判断が食い違う以上、最高裁が新判例を示す必要がある。
 川内原発には住民避難計画や巨大噴火対策など課題がまだ残る。疑問に耳を傾けるのは重要で、安全議論に終わりはない。今回の仮処分決定に慢心せず、安全を高めるよう九州電力に求めたい。

福井新聞川内原発差し止め認めず 司法判断の困難性が露呈」

 今回の決定では、申し立てで提起された危険性や問題点について、地道に丁寧に検討を加えている。ただ新基準の根拠に科学的専門性を持って独自に深く踏み込んだものではない。これは司法として、専門家の意見を尊重した国に広い裁量を与えた伊方原発愛媛県行政訴訟最高裁判決(1992年)を踏襲する姿勢に沿った判断である。
 規制委の専門性、科学的知見を是認した上で、住民側の主張する「人格権」を侵害する重大な欠陥がない限り違法とは認めないとして枠組みを外さなかった。
 しかし、この判断が再稼働の「お墨付き」を与えたとするには、懸念材料が多すぎる。住民側が問題視した巨大噴火に関する知見は学会の学者によっても見解が分かれ、決定内容を「事実誤認」と指摘する意見もある。緊急時の住民避難計画が「一応の合理性、実効性を備えている」との判断はあまりに「楽観的」だ。
 こうした樋口、前田両裁判長の真っ向食い違う判断は、住民側に立って「危険性」を重視するか、国の「方針」に従うか二つの流れがあることを示す。特に再稼働を認めない2件の司法判断を下した樋口裁判長は地震国における原発を全否定するような観点から国富論や文明論にまで及んだ。
 数多い原発訴訟に対処すべく、最高裁は研修を実施しているが、判断が下級審同士や上級審でころころ変わるなら、司法への信頼は遠くなる。「想定外は起こり得る」―これが福島の教訓である。九電は7月にも再稼働させる計画だが、新基準を超える安全性を求める声が強まるのは必至だ。

京都新聞「川内仮処分却下  安全に不安拭えぬ決定」

 原告の住民側は、原発の耐震設計の目安となる地震の揺れ(基準地震動)が「過去の地震の平均像に基づいており、より大きな地震で重大事故が起こり得る」と訴えた。決定は、新基準を「専門家の審議で定められた」と是認した上で、「基準地震動は地域的な特性や自然現象の不確かさを考慮し、設計上も十分な余裕が確保されている」と九電側の主張を認めた。
 この考え方は、原発の安全審査は高度な科学的判断を要し、専門家の意見を尊重した国に広い裁量を認めるとした1992年の伊方原発訴訟の最高裁判決に沿ったものだ。だが、福島第1原発事故を受け、司法として従来の行政追従の姿勢に反省が聞かれ、国民にも原発の安全性に根強い不安が残る中、踏み込んだ独自判断を避けて専門家任せの「安全神話」に逆戻りした感が拭えない。
 さらに火山の影響判断では、可能性が低いとする九電の評価を認め、大規模噴火の恐れを主張する学者は多数派でないと切り捨てた。だが日本火山学会の委員会は昨秋、予知の限界や曖昧さを踏まえ審査基準を見直すよう規制委に提言しており、事実誤認と批判が出ている。東日本大震災前に巨大津波の発生を警告する学者の声を無視した反省が生かされていない。

西日本新聞「川内仮処分却下 福島事故を踏まえたのか」

 過去の原発関連訴訟で司法は、高度な専門性などを理由に行政や電力会社の裁量を追認しがちだった。原発のあり方を問い直す判断が出始めたのは福島原発事故が起きたからだ。甚大な被害やいまだに収束しない現状に照らせば当然の流れといえるのではないか。
 その意味で鹿児島地裁の決定は、原発事故前の司法判断に立ち戻ったかのような印象を否めない。あの「3・11」の教訓をどこまで踏まえたのかという疑問が残る。
 新規制基準について政府は「世界で最も厳しい」と繰り返す。「適合すれば再稼働」も決まり文句だ。しかし、規制委は原発の安全性を担保するものではないという。では、誰が最終的に再稼働を判断し、事故に対して責任を負うのか。その曖昧さは拭えない。
 九電は鹿児島地裁の判断を「妥当な決定」としている。だが、これで再稼働に対する住民の不安や疑問が解消したわけではない。安全対策の徹底とともに、住民への丁寧な説明を尽くすべきだ。

南日本新聞「[川内原発仮処分] 再稼働の不安に応える決定だったか」

 高度な科学技術を要する原発の運転の可否は専門家に任せる、という司法の姿勢に戻った観がある。それでいいのか。
 川内原発はいま、再稼働へ向けて規制委の使用前検査を受けている。九電は7月にも再稼働したい考えだ。
 だが、再稼働の差し止めが却下されたからといって、川内原発の安全が「担保」されたとは言い切れない。
 むしろ、福島の過酷事故の教訓に照らせば、安全対策の指針とすべきは、高浜原発の再稼働を禁じた福井地裁の仮処分の決定の内容にうなずける点が多い。
 福井地裁の仮処分は、高浜と同じ型の川内原発にも通じる指摘が少なくないからだ。
(中略)
 見過ごせないのは国の責任である。
 再稼働の可否は規制委頼みの一辺倒。再稼働の同意について、関係自治体が「地元」の範囲拡大を求めると、地域へ丸投げする。そして原発の安全協定の締結は電力会社と自治体任せである。
 原発の安全にだれが責任を持つのかさえ、はっきりしない。
 「規制委の新規制基準に適合した原発は、その判断を尊重し再稼働する考えに変わりはない」
 再稼働差し止め却下を受けて菅義偉官房長官はこう述べた。
 高浜と川内で、真っ向から対立する裁判所の判断が示されたのである。原発の安全性について、国は責任の重さを自覚し、いま一度国の関与について考えるべきではないか。
 原発の運転差し止めをめぐる仮処分申し立てや訴訟は、原発の安全性論議の活性化につながるものとも言えそうだ。


【4月24日付】
河北新報「再稼働で司法二分/福島事故後の不安を原点に」

 踏襲したのは、伊方原発愛媛県)をめぐる行政訴訟最高裁が1992年に示した判断だ。「高度な科学技術を要する原発運転の可否は専門家に任せる」との姿勢で、鹿児島地裁は九電の事故対策や原子力規制委員会の適合判断を基本的に追認した。
 最高裁判断が福島第1原発事故が起きる20年近く前に出たことを考えると、事故後も依拠すべき基準かどうかは議論があるところだろう。
 原発の安全性について鹿児島地裁は「危険性ゼロは不可能。社会通念上無視できる程度に保つのが相当」と捉えたが、福井地裁は「万が一にも深刻な災害が起きない厳格さが求められる」とした。
 福井地裁は、専門家に委ねた安全がもろくも崩れ、過酷な福島事故を招いたことを踏まえれば、事故後は万が一の判断を避けることは許されない、と厳しく指摘した。
 リスクゼロは非現実的との批判が成り立つにしても、福島事故のような事態が2度と起きない確信を原点に据える判断は、説得力を持つ。
 世論調査では再稼働反対が依然過半数を占める。福井地裁と同様に多くの国民が、専門家が定めた新規制基準を安全性の担保とは受け止めていないことの証しだ。

神戸新聞原発の差し止め/専門家任せにしたくない」

 原発事故を教訓に、いささかでも危険があれば認めないのか、潜在する危険性を承知で認めるのか。専門家の「知」にどこまで信頼を寄せるか。決定に違いが出た点だろう。
 川内原発は、火山の危険性も争点になった。だが、地裁は「巨大噴火の可能性は十分に小さい」とし、監視によって前兆をつかめるとする九電などの主張をうのみにした。
 火山学会などは反発している。火山学では噴火は予知できず、前兆をつかむのは難しい。可能性は低いが、破滅的なカルデラ噴火はいつ起きてもおかしくない。川内原発への影響は大きいが、その危機感がない。
 川内の決定に事実誤認があると指摘されても仕方ないだろう。
 規制委は「司法の決定に左右されない」と言う。それは、専門家の閉じられた空間で決まり、社会の声が反映されないことを意味する。
 自然現象や科学技術は不確実性がついて回る。特に原発は事故が起きると人や環境に大きく影響し、生きる権利を根こそぎ奪いかねない。専門家だけに任せられない問題だ。
 市民が議論し、決定に参加する。その仕組みを、どうつくるか。司法判断を契機に考えるべきだ。