ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「ジャーナリストは戦争体験を継承する語り部であれ」〜被爆地長崎の先人の言葉を伝え継ぐ

 戦後70年のことし、8月6日の広島原爆の日は職場で、8月9日の長崎原爆の日は自宅で静かに黙祷しました。
 広島市松井一実市長は平和宣言の中で、被爆者の平均年齢が80歳を超えたことに触れ「広島市は、被爆の実相を守り、世界中に広め、次世代に伝えるための取組を強化する」と述べました。
 長崎市の田上富久市長は、戦争体験の記憶が社会から急速に失われつつあることへ、より直接的な懸念を表明し、平和宣言で以下のように訴えました。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。
 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。
 原爆や戦争を体験した日本、そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。
 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。
 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。
 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。

広島市:平和宣言【平成27年(2015年)】
 http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/index.html
長崎市平成27年長崎平和宣言(宣言文)
 http://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3020000/3020300/p027411.html


 長崎市の田上市長の平和宣言を目にして、あらためてマスメディアとジャーナリズムの役割の重さを思います。そして10年前に耳にして以来、絶対に忘れないようにしている被爆地の記者の先人の言葉をあらためてかみしています。
 ちょうど10年前の2005年8月、わたしは社会部の職場を休職し、新聞労連専従の委員長を務めていました。わたしが議長を兼ねていた日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)と、地元の長崎マスコミ共闘会議の共催で、長崎市で8月8日に反核フォーラムを開催しました。テーマは「被爆60年・平和とメディアの役割」でした。パネルディスカッションで、長崎新聞論説委員(当時)の高橋信雄さんが指摘された言葉の数々を、少し長くなりますが、当時わたしが運営していた旧ブログ「ニュース・ワーカー」から引用します。

 なかでも高橋さんの指摘にはハッとさせられた。地元紙として曲がりなりにも被爆者の声を伝え、核廃絶を求める市民の声を代弁してきたが、これまで伝えきれなかったものも大きい、という。本当に支援が必要だった被爆者が、自らの思いを語ろうにも語れないまま、沈黙するしかないまま、とうの昔に絶望のうちに皆死んでいった、との指摘だ。
 今でこそ、新聞も被爆者の被爆体験を積極的に発掘し紹介しているが、これは実は最近のことなのだという。戦後20年間、被爆者は自らの体験を口にすることができず、沈黙するしかなかった。なぜか。被爆者差別があったからだ。長崎という地域社会の中にすら、被爆者に対する差別があった。日本人はみな、戦争の被害者という立場では同じはずなのに、差別ゆえに被爆者は声を上げることができなかった。メディアもまったく動かなかった。被爆者は身体的な苦痛に加え、精神的にも苦しまなければならなかった。そして、絶望のうちに死んでいった。
 多くの被爆者がそうやって死んでいった、死んでいくしかなかったことに、メディアはようやく気付いた。被爆者たちが死んでいった、まさにその当時は気付いていなかった。そのことに高橋さんは「痛恨の思いがある」と語った。そして、同じ戦争の被害を受けた者同士の間に差別を生み出したのは何かを考え続けることが、地元メディアの責務だと話した。
 また、戦争体験の風化があるとすれば、それはジャーナリズムから始まるのではないかとも訴えた。常に、戦争体験を掘り起こし、社会に伝えていく努力をしていれば風化は起こりえない。風化が始まるとすれば、ジャーナリズムがその努力を怠るようになったときだという。記者は被爆者の被爆体験を追体験することはできないが、体験を掘り起こしていくことで、被爆者の気持ちに近づくことはできるはずであり、ジャーナリストは被爆者が亡くなった後に、現代の語り部の役を果たさなければならない、と訴えた。

※ニュース・ワーカー「長崎で考えされたこと」=2005年8月11日
 http://newsworker.exblog.jp/2478939/

 「戦争体験の風化があるとすれば、それはジャーナリズムから始まるのではないか」―。このことは被爆地であろうとどこであろうと変わりがないでしょう。この10年間、戦争体験を継承していくために、マスメディアの片隅に身を置くわたし自身は、いかほどのことをしてきたか、振り返ってみれば心もとありません。しかし、戦争体験を社会で継承していくために、マスメディアとジャーナリズムが負う役割は変わらず明らかですし、記者にできること、やらなければならないことも変わらずにあると思います。
 「記者は戦争体験者の体験を追体験することはできないが、体験を掘り起こしていくことで、戦争体験者の気持ちに近づくことはできる」「ジャーナリストは戦争体験者が亡くなった後に、現代の語り部の役を果たさなければならない」―。これからの10年間もこのことをわたし自身忘れずにいようと思います。そしてさらに、マスメディアとジャーナリズムの次世代の担い手たちにも伝えていきたいと思います。