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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

故佐木隆三さんの裁判コメント

 作家の佐木隆三さんが亡くなられました。
※47news=共同通信直木賞作家の佐木隆三氏死去 『復讐するは我にあり』」2015年11月1日
 http://www.47news.jp/CN/201511/CN2015110101001039.html

 刑事事件やその裁判を題材にしたノンフィクション小説で知られる直木賞作家、佐木隆三(さき・りゅうぞう、本名小先良三=こさき・りょうぞう)氏が10月31日午前8時40分、下咽頭がんのため、北九州市の病院で死去した。78歳だった。
(中略)
 朝鮮半島生まれ。現在の北九州市の高校を卒業後、八幡製鉄(現新日鉄住金)に入社し、同人誌に小説を書き始めた。
 64年に退社して文筆活動に専念。実際の連続殺人事件をテーマにした「復讐するは我にあり」で76年に直木賞を受賞した。

 それほど多くの作品を読んでいるわけではありませんが、佐木さんが若いころを過ごした北九州市の八幡でわたしも生まれ育っており、親近感がありました。「復讐するは我にあり」を読んだのはいつのころか、記憶は定かではありません。映画で主役の榎津巌役だった緒形拳さんの印象が強かったことに比べて、原作は淡々としたタッチだと感じた記憶があります。
 実際の事件や裁判を徹底的に取材するノンフィクションの手法で、オウム真理教事件などの裁判では、新聞記者と同じように法廷の傍聴席で審理を聞いていました。わたしは直接、会ってお話するようなことはありませんでしたが、同じ事件を同じ関心を持って同じ時期に取材していた、という意味で、佐木隆三さんを身近に感じたことがあります。
 1988(昭和63)年8月から翌89(平成元)年6月にかけ、埼玉県西部と東京で幼女4人が誘拐され殺害されました。発生当時、わたしは埼玉県の支局に配属されており、1年以上にわたって取材を続けました。その後、東京本社の社会部に異動となり、司法担当だった一時期、東京地裁に係属していた宮崎勤被告の公判の取材を担当しました。法廷内で、被告人質問に立ち検事や弁護人の質問に答える被告の姿を傍聴席から取材していました。この裁判を佐木さんも取材していました。
 当時、被告の発言には特異さが目立っていました。例えば、幼女を誘拐した後のこととして、「ねずみ人間が表れた。怖くなって何が何だか分からなくなった。気が付いたら女の子が倒れていた」などの趣旨のことを述べていました。わたしたち担当の新聞記者はみな、被告の責任能力を疑っていました。裁判官たちが責任能力を認めれば結論は死刑しか考えられず、仮に犯行時に心神耗弱の状態だったと認定されるなら無期懲役に軽減され、心神喪失なら無罪です。報道する上での焦点は、突き詰めると被告に責任能力はあるのか、死刑なのか否か、という点でした。
 東京地裁での1審判決は「死刑」でした。今回調べてみると1997年4月14日のことでした。わたしは部内の配置換えで別の分野の担当に変わっていましたが、責任能力を認めた東京地裁の判断に最初は正直なところ、意外な感じがしました。しかし判決を伝える新聞各紙の記事を読む中で、佐木隆三さんのコメントが目にとまり、納得しました。どの新聞に載ったことか、コメントかもしかしたら寄稿か、正確な文言などは覚えていませんが、趣旨としては「裁判官たちが『責任能力あり』の心証を持ったことは、自分には意外でも何でもない。わたしたちは法廷では被告の背中しか見ていない。しかし裁判官たちは、被告の正面から被告の目を見ながら、被告が話すことを聞いていた」ということでした。
 発生当初から4件すべての現場を何度も取材して回り、すべてではありませんが法廷の中の被告の言動も見ていて、この事件には相当詳しいつもりでいました。しかし考えてみれば、被告と話したこともなければ、正面から目を見たこともありませんでした。佐木隆三さんのコメントから、事実にはあくまでも謙虚に向き合う姿勢をあらためて教えられた気がしました。その後も大型の事件や裁判では、佐木隆三さんがどんな風に見ているのか、各紙に載るコメントや論評に目を通していました。わたしたちの新聞の仕事を考える上でも、参考になることが多かったノンフィクション作家の一人だったと思います。
 謹んで、哀悼の意を表します。