ヘルマン・ゲーリングの言葉と伊丹万作の警句「だまされることの罪」〜今年1年、希望を見失わないために

 新しい年、2016年になりました。
 日本の敗戦から70年であり、第2次世界大戦の終結から70年だった昨年、一つの言葉を知りました。ナチス・ドイツの大立者の一人であり、第1次大戦ではドイツ空軍のエースパイロット、第2次大戦ではドイツ軍国家元帥だったヘルマン・ゲーリングが、被告として臨んでいた戦後のニュルンベルグ軍事裁判の間に、アメリカ軍の心理分析官に語ったという言葉です。日本で入手可能な確実な出典を探して手にしたのは、ジョセフ・E・パーシコ(Joseph.E.Persico)というアメリカの伝記作家の「ニュルンベルク軍事裁判」上・下(白幡憲之訳、2003年原書房刊)という本でした。その下巻の171ページに、以下のくだりがあります。引用します。

 「もちろん、国民は戦争を望みませんよ」ゲーリングが言った。「運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を懸けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも、同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるよう仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ」

ニュルンベルク軍事裁判〈下〉

ニュルンベルク軍事裁判〈下〉

※ウイキペディア ヘルマン・ゲーリング


 ▼「平和主義者は愛国心が欠けている」
 ネットで調べる限りですが、邦訳にはいくつかのバージョンがあるようです。しかし核心部分は同じで、要は、一国の指導者が国民を戦争に駆り立てるのはいとも簡単なことで、攻撃されつつあると国民をあおり、平和主義者に対して「愛国心が欠けている」と非難すればよい、ということです。
 ゲーリングニュルンベルグ軍事裁判では、ヒトラー不在の法廷で本来はヒトラーに向けられるべきだった訴追を一身に受け、ナチスドイツの正当性を果断に論じ、絞首刑の判決を受けた後は、刑の執行を待つことなく、恐らくは密かに持ち込んでいたのであろう青酸化合物によって自殺を遂げたとされています。
 ゲーリングのこの言葉は、ネットでの引用によっては、ニュルンベルク軍事裁判の法廷で発せられたように紹介している例もありますが、パーシコの上記著書「ニュルンベルグ軍事裁判」によるとそうではなく、ゲーリングの独房を訪ねた米軍の心理分析官との会話の中で発せられた言葉とのことです。1946年4月18日、復活祭の休暇に入る前日のことでした。この心理分析官(グスタフ・ギルバート大尉)は裁判の全被告の独房に立ち入る許可を得ており、被告たちと接したその体験を著書として発表する計画を抱いていたということです。会話は密室で行われていることもあって、ゲーリングのこの言葉は、心理分析官の創作である可能性も皆無とは言えないかもしれません。しかし、仮にそうだとしても、政府の指導者が「攻撃を受けつつある」とあおり、平和主義者を「愛国心が欠けている」と非難すれば、意のままに国民を戦争に向かわせることができるというこの言説に、時代を超えて今に通じるリアリティを感じずにはいられません。
 そう感じずにはいられない一例が昨年12月にありました。パリ同時多発テロ後、過激派組織「イスラム国」壊滅のため軍事行動を強めたフランスに連帯を示し、英国もシリア空爆に踏み切りました。その際にキャメロン英首相は「やつらが攻撃してくるのを座して待つのか」と訴え、 空爆反対派を 「テロリストの共鳴者だ」と決めつけた、との報道を目にしました(共同通信の12月3日配信の「表層深層」の一節。4日付の地方紙などに掲載されています)。
 目を日本社会に転じても、昨年は安全保障関連法案をめぐって、国際環境の変化ということが盛んに政府、安倍晋三政権の側から言われました。主に意識されているのは中国だと思います。さすがに安倍政権も、中国から攻撃を受ける、とまでは言いませんでしたが、しかし尖閣諸島の領有権などで緊張関係にあるのは事実です。そうした状況で「愛国心」という言葉に社会全体が過剰に敏感になる日が来ることはないのか。そんなことも考えてしまいます。


 ▼むき出しの憎悪や悪意
 日本の社会でもう一つ気になるのは、自分とは異なる立場の人たちへのむき出しの憎悪や悪意がそのまま言語となって公の場に投げつけられるような例が目に付くようになってきたことです。それも特定の主義主張に基づく団体によるヘイトスピーチなどに限ったことではなく、公職の立場の人たちからのものさえ少なくありません。
 神奈川県海老名市議ツイッターに「同性愛は異常なのだ」「異常人間の行動を正当化した報道はするな」などと書き込んだケースがありました。岐阜県職員はやはりツイッターに「同性愛は異常」と書き、米軍普天間飛行場の移設問題をめぐっては「馬鹿な沖縄県民は黙ってろ。我々は粛々と辺野古移設を進める」と書いたほか、「朝日新聞の連中はもう一回、赤報隊に襲われてしまえと本気で思う」との書き込みもありました。この職員について県議会で審議が行われた際に、県議が「同性愛は異常だ」とヤジを飛ばす、という出来事までありました。普天間飛行場移設問題では、兵庫県洲本市議が沖縄タイムスフェイスブックに、新基地に反対する市民を「けとばせばいい」と書き込んだ例もありました。
 むき出しの憎悪や悪意とは性格が異なるのかもしれませんが、茨城県では教育委員が障害児出産を「茨城県では減らしていける方向になったらいい」と発言し、その後批判を受けて辞職しました。「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」「意識改革しないと。技術で(障害の有無が)わかれば一番いい。生まれてきてからじゃ本当に大変」などと発言したと報じられています。批判を受けるまで本人は発言内容の重大性に気付かず、その意味では無知だったのかもしれませんが、この発想は優生思想に通じます。ナチスホロコースト以前に、医師の関わりの下に政策として障害者を殺害していました。
 日本社会のこうしたありようを見るにつけ、ゲーリングが言ったように、国民に向かって「われわれは攻撃されかかっているのだ」とあおり、戦争に反対する人たちに対しては「愛国心が欠けている」と非難する政治指導者が仮に日本社会に出てきた際には、わたしたちのこの社会は容易に戦争へと突き進むのかもしれない、と考えてしまいます。そして、意識しておくべきなのは、そうした政治指導者、為政者が現れるおそれもさることながら、社会がいともたやすく戦争へ向かうかもしれない、たやすく戦争へ、という意味でのわたしたち自身の社会の脆弱さのようなものではないか、とも感じています。


 ▼「だまされることの罪」
 ここであらためて紹介しておきたいのは、伊丹万作の「戦争責任者の問題」という論考です。このブログで最初に紹介したのは3年前でした。当時は安倍晋三首相が憲法96条を改正して、改憲のハードルを下げたいということを盛んに言っていた時期でした。この過去記事は今もアクセスがあり、多くの方に読んでいただけているようです。
 ※参考過去記事
伊丹万作『戦争責任者の問題』と憲法96条〜『だまされる罪』と立憲主義」=2013年5月7日
 http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20130507/1367881891

 伊丹万作は戦前に活躍した映画監督、脚本家で1946年9月に亡くなりました。やはり映画監督や俳優として活躍した伊丹十三さんの父親です。「戦争責任者の問題」は46年8月に発表されました。内容から察するに、映画界で戦争遂行に協力した責任者を指弾し、追放することを主張していた団体に名前を使われた伊丹が、自分の考え方を明らかにして、当該の団体に自分の名前を削除するよう申し入れたことを公にした文章です。
 ここで伊丹が言っているのは「だまされることの罪」です。戦争が終わって、みな「自分はだまされていた」と言うけれども、だまされた人間も実は別の人間をだましていたこと、そうやって日本中がだましだまされ合っていた、ということです。少し長くなりますが、3年前のこのブログの記事でも引用した部分を再度、以下に引用して紹介します。

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 ゲーリングが言うような、国民をあおり、平和主義者を非難する政治指導者が出現したとしても、伊丹万作が看破したように「だまされることの罪」を社会の側が自覚しているならば、戦争への道は決してゲーリングの言うように「どこの国でも有効」とはならない、そう言う意味で、希望は失わずに済むのではないかと思います。また、その「だまされることの罪」を、戦後70年の昨年、ジャーナリズムも一翼を担ったさまざまな歴史の掘り起こしを通じて、わがこととして追体験した人たちもこの社会には少なからずいます。そのこと自体も、希望ととらえたいと思います。
 マスメディアのジャーナリズムを職業として選び取って、間もなく33年になります。40代にさしかかったころから、ジャーナリズムの使命は第一に戦争を防ぐこと、起きてしまった戦争は一刻も早く終わらせることにあると信じてきました。マスメディアの一角で、組織人として働く時間は残り少なくなってきましたが、この確信が揺らぐことはありません。これからの1年もゲーリングの言葉と伊丹万作の警句を常に思いながら、希望を見失わずにいたいと思います。
 本年も、よろしくお願いいたします。


 「戦争責任者の問題」は著作権保護期間を過ぎた作品を集めたネット上の図書館「青空文庫」に収録されていて、だれでも自由にアクセスできます。全文で7000字ほどです。
 ※伊丹万作「戦争責任者の問題」
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html