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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

故佐木隆三さんが「復讐するは我にあり」改訂新版で果たしたこと

 作家の故佐木隆三さんが昨年死去されたときに書いた記事の続きになります。
 ※「故佐木隆三さんの裁判コメント」=2015年11月2日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20151102/1446395189
 佐木さんが1975年に刊行した代表作の「復讐するは我にあり」を全面改訂し、「改訂新版」を2007年に刊行していたことを、死去の後に知りました。
 オリジナルをわたしが読んだのはずいぶんと昔、20代のころだったと思います。講談社文庫に上下2冊で入っていました。そのあとがきだったか、別のところで読んだ文章だったか、強く印象に残っていた一節があります。この作品を通じて主要な関係地として登場する福岡県の街の名前を「筑橋市」と仮名にした、ということでした。今も事件の関係者が住んでいるので配慮が必要だ、どうしても実名にはできなかった、という理由です。後年、徹底した裁判の傍聴を基に、いくつものノンフィクションを発表していた佐木さんにして、やはり実名で記すことに抵抗を覚えることもあるのかと、事件事故の新聞記事で実名か匿名か、の判断に悩むことがたびたびだったわたしは、ある種の感銘とともにその文章を読んだ記憶があります。
 先日、文春文庫に収められている「改訂新版」を買い求め読んでみました。

復讐するは我にあり (文春文庫)

復讐するは我にあり (文春文庫)

 「筑橋市」は、書き出しの1行目から実名の「行橋市」に変わっていました。

 第一の死体発見者は、福岡県行橋(ゆくはし)市に隣接する京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町の六十二歳の主婦だった。日豊本線行橋駅から二つ小倉寄りの苅田駅裏に、彼女の畑がある。十年ほど前に一町八村が合併し、人口五万の行橋市が発足しており、山間部から周防灘に面した海岸まで細長く伸びた地形で、石灰石を資源とするセメント工業が中心の苅田町は、臨海工業用地を造成中であり、死体が遺棄されていたのは、苅田駅裏台地のダイコン畑だった。

 時は1963(昭和38)年10月。ちなみに、わたしは当時3歳で、文中に記述がある小倉の隣りの八幡に住んでいました。この年の2月に、小倉、八幡、門司、戸畑、若松の5市が合併して北九州市が発足しています。
 オリジナルが手元で見つからず、実際に比較対照したわけではありませんが、同じ文庫本でありながら、上下2冊だったのが1冊になってしまったのですから、内容も大幅に変わったのではないかと思います。「筑橋市」を「行橋市」と実名にしたことを含めて、佐木さんは「改訂新版」の「あとがき」では以下のように記しています。少し長くなりますが引用します。

 この作品は、一九七五(昭和五十)年十一月、講談社から書き下ろしのノンフィクション・ノベルとして、上下巻で刊行したものです。七六年一月、第七十四回(昭和五十年下期)の直木賞に選ばれ、二月に授賞式が行われました。当時三十八歳のわたしにとって、記念すべき出来事で、文筆生活のありようも一変しております。ひとことで言えば、突如として多忙になり、自分を見失うような日々でした。そのさなかに作中の事実誤認に気づきながら、「そのうち訂正しよう」と先送りし、七八年十二月に講談社文庫化したとき、本格的な手入れもしておりません。まったく弁解の余地もなく、恥ずかしい限りですが、いったん世に出した以上は、仕方のないことだと思っておりました。
 しかし、歳月を重ねるにつれて、このままではいけないと、改訂新版を出すことにしました。そうしてパソコンに向かい、四百字詰め原稿用紙で八百枚の作品を、最初から買き直したのです。むろん単行本、講談社文庫本が底本であり、ストーリーは逸脱しておりませんが、最初に事件が起きた場所を「筑橋市」としていたのを、本来の地名の「行橋市」に戻すなどしました。モデルが存在する事件なので、それなりに関係者に配慮したものを、今となっては不自然に思えて、このようなかたちにしたのです。
 わたし自身の文体も、昔と今では変わっています。そうであれば、やはりいじりたくなります。それは許されるだろうと考えて、わかりやすい表現にするなど、あれこれ推敲しました。この点についても、ご批判はあるでしょうが、我が儘をとおしました。過去の作品をすべて改訂することはできませんが、この「復讐するは我にあり」への愛着がそうさせたのだと、自分では理解しています。
 一九六四(昭和三十九)年七月、八幡製鐵(現在は新日本製鐵)を二十七歳で退職してから、職業作家として生きてきました。四十数年の作家生活をつづけ、気がついてみたら四月に七十歳です。杜甫の詩に「人生七十古来稀なり」とあるから「古稀」だそうですが、我ながら長生きしたものです。このごろは「人生九十年」ともいわれ、そこまで頑張るつもりはなくとも、生きている限りは書きつづけるつもりでいます。しかし、こうして改訂新版にこぎつけて、「もはや思い残すことはない」というのも、偽らざる心境です。

 佐木さんは「行橋市」を「筑橋市」と書いたことに対して、いずれかの時期から我慢のならないほどの後悔の念にかられるようになったのかもしれません。現に生きている人への配慮は必要ですが、ノンフィクションは事実を努めてありのままに記すことで、時の経過に耐えて記録としての価値を増すのだと、このあとがきを読んであらためて思いました。それはジャーナリズムにとっても同じだと感じます。