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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

公共財のジャーナリズムの役割―NIE学会分科会「ジャーナリズムとNIE」に参加

 教育界と新聞界が協力して進めているNIE(エヌ・アイ・イー)=Newspaper in Educationという取り組みがあります。学校など教育現場で教材に新聞を使って、子どもたちに情報活用の能力を身につけさせることを目指します。そのNIEに携わる大学の研究者や、教育現場の先生らでつくるNIE学会の第13回大会が11月26、27両日、愛媛県松山市愛媛大学で開催され、私も個人の立場で初めて参加しました。NIEという言葉は知っていましたが、このような形で本格的に触れたのは初めての経験で、たくさんの刺激をいただきました。
 初日は「主権者育成とNIEの検証」と題したシンポジウムに続いて、四つの研究分科会がありました。私はそのうちの一つ「ジャーナリズムとNIE」で「話題提供者」を務めました。
 この分科会の主眼は、歴史の証言者として日々の出来事を正確に記録し批評もするジャーナリズムとしての新聞を重視する点にあります。具体的には、今年7月に神奈川県相模原市知的障害者施設で19人が殺害された事件を取り上げ、発生当初から論議を呼んだ被害者の匿名報道の問題を中心に、NIEとして新聞報道をどう生かすのか、あるいはNIEで扱うことは難しいのかを探ります。新聞というマスメディアの中で「ジャーナリズム」をキーワードにNIEを考える試みはほぼ初めてとのことだったようです。

 進行はまず、報道する側の立場から私が報告しました。手元で保管していた事件発生当日の夕刊と翌日朝刊の東京発行各紙の紙面を、教室の黒板に掲示して、その日、どんな紙面が作られたか、から話を始めました。
 現状は、神奈川県警は今も被害者を匿名でしか発表しておらず、新聞各紙は独自の取材で被害者を割り出し、家族から話を聞く努力を続けています。実名で報道することを了解した家族は少ないのですが、記事の真実性を担保し、後世への記録として残すためにも実名報道は必要であり、記者たちの取材の努力は続いています。
 家族が実名を明かすことを拒否するのは、この施設に行き着くまでに、知的障害者であることに対して、様々な差別と偏見にさらされてきたためです。この事件は、容疑者がとりわけ重度の知的障害者に対し、生きる価値のない命と言ってはばからず、その考えを実行に移したとみられる点に特徴がありますが、わたしたちの社会には程度の差こそあれ、容疑者の思考に通じる「優生思想」が受け入れられる余地があり、そのことを被害者の家族らは感じ取っているのだと思います。
 そのような状況で、報道する側としては、やはり当事者の了解なしには実名を報道することはできませんし、現に報道されていません。仮に警察が実名を報道発表したとしても、少なくとも私個人の考えとしては、記者が一人一人の家族に当たって、意向を確認する作業が不可欠だと考えています。
 ここは重要な点の一つなのですが、被害者を匿名にしたままの報道が続いているのは、神奈川県警が実名を公表しないためばかりではありません。言い方を変えれば、警察が報道機関に実名を発表するかどうかと、報道機関が実名で報道するかどうかは、本来は別の問題です。公的機関の恣意的な情報操作を許さない、という観点からも、報道機関は実名発表を求めます。しかし、実名で報じるか、匿名にするのかは報道機関が自らの責任において決めることです。

 一方で、実名での取材・報道を受け容れた家族は、取材を重ねるにつれ、取材に応じるに至った心情も話すようになっています。例えば毎日新聞は8月26日付朝刊の記事で、息子が重傷を負った両親(記事中では実名です)に取材し「自分たちにとって、息子がどれだけ大切な存在なのかを知ってほしい」という言葉を紹介しています。父親は、親族からの中傷や、近所の冷たい視線にさらされた経験があり、ほかの遺族が名前を公表したくない気持ちはよく分かるとした上で、だからこそ現状を変えるために、勇気を出さなければいけないと考えている、と取材に答えています。
 容疑者は現在、精神鑑定中で、この事件の捜査や、起訴された場合は公判は長期にわたると思われます。その間にも事件を巡っていろいろなことが明らかになっていくでしょうし、今は名前を明かしていない遺族や被害者の中に、社会に対して訴えたいと思うようになる方が出てくるかもしれません。そのときに、マスメディアのジャーナリズムがその受け皿でありたいと私は考えています。
 相模原の事件とは直接は関係ないのですが、「なぜ実名報道なのか」の答えの一つとして、共同通信記者の澤康臣さんの著書「英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか」のことも紹介しました。「同僚市民」を伝え「歴史の第一稿」を報じるために実名で、という考え方であり、私は共感しています。このブログでも以前に紹介していますので、関心のある方はお読みください。

 ※参考過去記事「『同僚市民』を伝え『歴史の第一稿』を報じる〜『英国式事件報道〜なぜ実名にこだわるのか』(澤康臣 文芸春秋)」=2010年12月30日
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20101230/1293645175

 私の報告に次いで、分科会参加者が小学校、中学校、高校・大学の3グループに分かれ、それぞれの校種で、この事件を授業で取り上げるとすれば、どういうやり方が可能と思うか、そもそも授業で取り上げうるか、について議論しました。
 印象に残った意見をいくつか書きとめておきます。
 小学校グループの結論としては、小学生にこの事件をNIEで取り上げるのは難しい、というのが大勢でした。それはそうかもしれないと感じました。ただ、ある参加者の方は「授業で取り上げるのは難しいかもしれないが、子どもたちもこの事件のことはテレビなどを通じて見ているし、知っている。授業の場ではなくても、子どもたちから事件のことを聞かれたら、答えなければならない。だから、普段から考えておかなければならない」と話していました。
 中学校グループでは、ある方が「NIEで取り上げることはできる。だが、やる以上は中途半端ではダメで、徹底的にやらなければならない」として、試案を示しました。実名報道が必要と思うかどうかと、当事者か否かの立場によって生徒を四つの立場に分けて、パネル・ディベートを行う、との内容です。四つの立場とは「A:実名報道を望む被害者の家族の立場」「B:実名報道を望まない被害者の家族の立場」「C:実名報道にこそ、意義あると考える立場(報道者、読者)」「D:実名報道でなくとも、問題ないと考える立場(報道者、読者)」です。それぞれの立場の気持ちや考えを確認したり補強できる新聞記事を読む時間を十分に確保した上で、パネル・ディベートでは自分たちの考えを相互に発表し、同時に異なる立場からの意見を聞く中で、自分の考えを見直したり、確かなものにしたりする機会を持つことができるようにする、との授業計画でした。
 この四つの立ち場の設定は、そのまま多角的、多面的な視点、考え方や価値観を提供するジャーナリズムの基本的な役割に重なると感じました。人間はだれしも、それまで知らなかったものの見方や考え方に接した時に、自分の考えを変えることがあります。だからこそ、民主主義の社会では少数意見は尊重されなければなりませんし、そこでジャーナリズムは役割を果たさなければなりません。あらためて、そんなことを思いました。
 分科会はもとより時間が限られており、その場で何か結論を出すということではありませんでした。ただ、NIEはジャーナリズムの「公共財」としてのありようそのもののように感じました。私自身に何ができるか分かりませんが、ジャーナリズムを発信する側に身を置く一人としての立場から、今後も関わっていきたいと思います。
 学会2日目は、朝9時から正午まで、自由研究発表でした。四つの会場に分かれて、1件30分ずつ。午前中、あちこちと会場を移りながら、いずれも興味深く発表を聞きました。

 会場の愛媛大学城北キャンパスは、紅葉がとてもきれいでした。


【参考】
 NIEは、日本新聞協会のサイト「教育に新聞を」によると、以下のように説明されています。

 学校などで新聞を教材として活用することです。1930年代にアメリカで始まり、日本では85年、静岡で開かれた新聞大会で提唱されました。その後、教育界と新聞界が協力し、社会性豊かな青少年の育成や活字文化と民主主義社会の発展などを目的に掲げて、全国で展開しています。

※「NIEとは」 http://nie.jp/about/

 NIE学会のサイトの説明は以下の通りです。

 子どもたちに生涯学習の基礎となる能力の一つである「情報活用能力」を育成するために,教育界と新聞界が協力して,新聞教材の開発と活用の研究・普及を目指して行っている教育と定義されています。また,「身近な情報源であり繰り返し読める」「保存し携帯できる」「情報が詳しい」「知りたい情報を選びながら読める」「昔のことを調べられる」「ニュースの背景を考えられる」「社説や投書などでいろいろな考えを知ることができる」といった新聞の持っている特性を生かしながら,情報化社会への対応や子供の活字離れといった教育課題に応えることを目指した教育でもあります。

※日本NIE学会サイトの「NIE」とは
 http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~care/NIE/sasoi.html