子規の死に至る壮絶な日々

 11月26、27両日、愛媛大学で開かれた日本NIE学会第13回愛媛大会に参加するため、愛媛県松山市を訪ねました。松山は10年ほど前、新聞労連の専従役員だった当時に2回訪れたほか、勤務先の業務などを含めて今回が6回目の訪問でした。時間に多少の余裕があったので、これまで行かないままになっていた「子規記念博物館」に寄りました。
 ※松山市立 子規記念博物館 http://sikihaku.lesp.co.jp/

 伊予鉄道松山市内線路面電車道後温泉駅に着き、そこから徒歩で5分弱。ここは、松山市出身の正岡子規の生涯を詳しくたどることができる展示があります。これまで私は、正岡子規の名前を近代俳句の確立者として、また短歌の革新を唱えた歌人としては知っていましたが、子規がほかにも様々な分野で活動していたことを知りました。新聞「日本」の記者として、日清戦争に従軍したジャーナリストの一面も持っていたことなどもその一例です。俳句の分野でも、それまでは画家として評価が高かった江戸時代の与謝蕪村の俳句に光を当て、俳人として再評価したことなどは知りませんでした。
 しかし、何よりも深く印象に残ったのは、病に伏しながら旺盛な創作を続け、ついには死に至った壮絶な日々のことです。それまでの知識では、30代半ばくらいで若くして死んだこと、晩年は結核で病床にあったことぐらいが漠然とした知識として頭にあっただけでした。
 実際の子規は1889年、21歳の時に肺結核の診断を受けていたようです。1892年、帝国大学国文科を中退して日本新聞社に入社した後、1895年に日清戦争に従軍した帰路、船中で大量の喀血に見舞われ、神戸で入院生活を送りました。回復後、いったん松山に帰郷。夏目漱石の下宿に同居していました。その年のうちに東京に戻りましたが、腰の痛みを訴えるようになり、脊椎カリエスの診断を受けました。結核菌が脊椎を冒す病気です。激痛で歩くこともできず、床に伏す日が多くなりました。何度か手術を受けたものの好転せず、臀部や背中に穴があき、膿が流れるようになりました。
 やがて、東京・根岸の自宅「子規庵」で寝たきりの生活になりました。しかし、激痛に見舞われながら、俳句や短歌などの創作を続け、原稿を新聞社に送っていました。また病床を訪れた高浜虚子河東碧梧桐らの指導も続けていました。亡くなったのは1902年9月19日。翌10月14日に35歳になるところで、34年と11カ月余の生涯でした。自宅では母親と妹が看病と身の回りの世話をしていました。母親は息を引き取った息子に幼名の「升(のぼる)」で語り掛け「のぼさん、もう一度、痛いと言ってみ」と言って涙を流したとのことです。
 子規がせめてもう10年でも20年でも生を永らえていたとしたら、日本の近代文学はまた違った様相を見せていたかもしれません。あるいは新聞に関わり続け、近代的な新聞発行のありようにも何か影響を与えたかもしれません。しかし、強烈に印象に残ったのは、死の床にありながら創作や後進への指導が衰えることがなかった、その生の凄まじさです。子規の生涯を追った詳細な展示を見終わってしばらくは、圧倒され、打ちのめされるような思いでした。

【写真】松山市道後温泉街の一角にある正岡子規銅像は野球のユニフォーム姿でした


 今回の松山訪問では、懐かしい再会もありました。
 伊予鉄道の郊外線を走る3000系電車は、以前は東京の京王井の頭線を走っていました。わたしは1979年4月に北九州市から上京し大学に入学。最初の2年間は井の頭線沿線に住みました。当時、毎日乗っていたのがこの3000系電車でした。ステンレス製の車体で先頭車の前面だけ強化プラスチック。井の頭線当時はこの部分が編成ごとに7色に色分けされていて、おしゃれでした。この色分けは現在の井の頭線車両にも引き継がれています。
 東京から松山に移った車両は1983年以後に製造された最終グループのようです。わたしは1983年4月に通信社に就職して記者職となり、東京を離れました。正確に言えば、伊予鉄道を走っている車両はわたしが実際に乗っていたのとは違うかもしれません。それでも十分に懐かしく、短い距離ですが乗って揺られながら、当時のことにしばし思いをはせました。世の中には、自分の知らないことがたくさんあることを知った日々でした。自分で知ったことを世の中に伝えたいと思って記者の仕事を志望しました。そんな人生の軌跡が交差する電車です。

【写真】伊予鉄道の3000系=松山市駅