マスメディアに「準有事」の自覚あるか~北朝鮮ミサイル報道巡るいくつかの懸念

 北朝鮮が8月29日早朝、弾道ミサイル1発を発射しました。

 備忘として書きとめておくと、午前5時58分に発射され、北海道・襟裳岬付近の上を高度約550キロで通過して、襟裳岬の東約1180キロの太平洋上に午前6時12分に落下したと伝えられています。飛行距離は約2700キロ。日本政府は全国瞬時警報システム(Jアラート)で北海道、東北、北関東、新潟、長野の計12道県の住民に避難を呼びかけましたが、被害はありませんでした。1回目のJアラート伝達は6時2分で、ミサイルが発射された模様との内容。2回目は6時14分で、ミサイルが日本を通過した模様との内容でした。

 北朝鮮のミサイルが日本の上を通過したのは5回目。2012年12月と16年2月の最近2回は、南西諸島と先島諸島の上でした。今回、北朝鮮から事前の通告や注意喚起はありませんでした。安倍晋三首相は29日午前、記者団のぶら下がり取材で、事前通告なしの発射を「暴挙」として「これまでにない深刻かつ重大な脅威だ」と非難し「ミサイルの動きは発射直後から完全に把握しており、国民の生命を守るために万全の態勢を取った」と語ったと報じられています。

 東京発行の新聞各紙も29日夕刊、30日付け朝刊でそろって1面トップで大きく報じました。29日午前中には号外を発行した新聞もあります。これらの報道ぶりに対しては、個人的に思うところが多々あります。今回の弾道ミサイル発射と日本政府の対応、マスメディアの報道について現時点で思うことを書きとめておきます。

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【写真】東京発行新聞各紙の8月29日付夕刊1面

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【写真】東京発行新聞各紙の8月30日付朝刊1面

▼「有事体制」に組み込まれている放送メディア

 今回の北朝鮮ミサイルの「日本越え」を巡るマスメディアの報道は、社会の関心が高いテーマでもあり、大きな扱いになるのは仕方がないと思います。「騒ぎ過ぎ」との批判を受ける余地があるとすれば、政府発表や政府の意向を忖度するかのような情報のみを大量に報じる場合でしょう。その意味で私がもっとも気になるのは、今回のマスメディアの報道に「準有事」と呼んでもいいような側面があるのに、そのことをマスメディア自身がどこまで自覚しているのか、ということです。

 例えばテレビです。NHK、民放各局とも6時2分にJアラートが伝達されるや、画面が赤と黒のJアラート画面の「国民保護に関する情報」に切り替わりました。ここに、マスメディアが戦争を想定した「有事体制」に組み込まれていることの一端が表れているのですが、多少なりともそのことに記事で触れたのは、目についた限りでは毎日新聞のみです。毎日新聞の29日付夕刊社会面「Jアラート TVで一斉に」の記事は、NHKでは国民保護法施行を受けて2006年2月に「国民保護業務計画」を制定し、その中で「総務大臣から、警報またはその解除の通知を受けたときは、速やかに、その内容を、原則として全国向けに放送する」としていることを紹介しました。

 大規模災害時などには意味のある仕組みかもしれません。しかしこの仕組みは有事法制の整備の中で進みました。他国の武力攻撃を受けても、それ以前の国内法では戦車1台自由に走らせることができない、防御陣地も自由に作れない、それでは国民を守れない、といった議論から始まった立法作業でした。その中でテレビ局は指定公共機関の指定を受け、有事の際には国民保護のための放送を行う責務を負いました。この有事法制が整備される過程では、戦時中の「大本営発表報道」への反省から、有事法制が発動されると、政府が指定する内容しか伝えられなくなるのではないか、自由な報道ができなくなる恐れはないか、との問題意識がマスメディアの間にも濃厚にあったと記憶しています。

 この問題意識は折に触れ、マスメディアは確認し、その中で働く者の間で共有しておくべきだと思うのですが、北朝鮮がミサイル発射と核実験を繰り返し強行する中で、「危機」が強調され、それに慣らされ、感覚が鈍くなってはいないか、ということを感じています。

 北朝鮮のミサイル実験は「有事」なのかと言えば、攻撃を受けているわけではないので「有事」とは言い難いでしょう。しかし、有事法制に基づく「指定公共機関」の枠組みが発動している状況は「準有事」ととらえてもいいように思います。なのに、マスメディア自身がその自覚を欠いてしまえば、公権力による情報統制・操作はいともたやすく行われてしまうのではないか。そういう懸念を持っています。

▼政府の責任を見えにくくする「自己責任」

 北朝鮮のミサイル発射に対しては、政府の要請で各地で避難訓練が実施されています。また報道でも、Jアラートなどでミサイル発射の緊急速報が流れたらどんな行動をとるべきかをマニュアル風にまとめた記事もありました。例えば読売新聞は30日付朝刊の社会面に「ミサイル発射の警報が出された時に取るべき行動」の表と記事を掲載。内閣官房国民保護ポータルサイトの記載を基に「屋外にいる場合 頑丈な建物や地下街などに避難する」「建物がない場合 物陰に身を隠すか、地面に伏せて頭部を守る」「屋内にいる場合 窓から離れるか、窓のない部屋に移動する」と紹介しています。

 確かに、仮にミサイルが落下してきた場合、こうした行動によって命が助かることもあるでしょうし、訓練もまったく無意味とまでは思いません。しかし気になるのは、「いざという時に備えて、日ごろが大事」との主張に「自己責任論」が見え隠れしていることです。例えば読売新聞は29日付夕刊2面に危機管理が専門の研究者のコメントを掲載しました。そこでは「肝心なのは、Jアラートで情報を得た住民が、どう自分の身を守るかだ。各地で避難訓練を実施しているが、万一の事態が起きたときに、本当にどうすれば命を守ることができるか、政府はもっと情報発信に努め、住民とともに実効性の高い訓練を行う必要がある」とされています。

 巨大地震や台風ならまさに「どう自分の身を守るか」が問われるのかもしれません。しかし、ミサイルの着弾は自然災害と同じような人智ではいかんともしがたい厄災でしょうか。そうではなくて、ミサイルが日本に着弾する事態とは、外交や安全保障の失敗、つまりは失政の結果です。本来は、政府が「国民の命を守る」と言うのなら、何よりもミサイルを撃たせないことが必要です。様々な要因があるにせよ、政治の評価は結果においてなされるものとすれば、北朝鮮がミサイルを撃ち続け、ついには日本政府が着弾に備えた警報まで出すに至った事態は、本来はそれ自体が政治の失策とみなされても仕方がないのではないかと思います。

 そうなのに、そこで「自己責任」がまぶされると、「撃たせない」という政治の責任が見えにくくなってしまうのではないか。本当に国民を守ると言うなら(守るべきは国民だけではなく、日本に暮らす、滞在するすべての人々なのですが)、北朝鮮にミサイルを撃たせないようにするしかないのに、その展望を見いだせていない現状では、政府は責務を果たしていません。しかしJアラートの精度を上げるとか、訓練をもっとやるとか、国民自身の意識が大事とか、そんな話ばかりしていると、政府の責任の問題がどんどんかすんでいきます。政府の無責任を容認してしまうことを危惧しています。

▼既に踏み出している軍拡競争の道

 国民を守るためには、根本的には北朝鮮にミサイルを撃たせないことが必要ですが、その方法論については、必ずしも外交的、政治的アプローチばかりではないようです。一部のマスメディアでも取り上げられることが増えてきた「敵基地先制攻撃」論です。北朝鮮がミサイルを日本に向けて撃つ前に、先制自衛権の行使として発射基地・拠点を軍事力でたたく、そのための装備を日本も持つべきだ、という考えで、日米同盟の共同作戦のほか、日米同盟を見直して日本単独で、というバリエーションもあるようです。しかし、撃ち漏らしがあった場合は全面戦争になる可能性があり、そうなると日本の側が仕掛けた戦争という評価は免れえないように思います。憲法9条との整合性は到底、取れないように思います。

 別の観点から思うのは、果てしない軍拡競争につながるのではないかということです。仮に日本が敵地攻撃力を持てば、北朝鮮に限らず仮想敵国は防御力を増したり、ミサイル発射拠点の分散化を図るでしょう。そうなると、またそれに合わせて日本は攻撃力を増強しなければなりません。

 実は現状でも、日本は果てしない軍拡競争に踏み出しているのではないかと考えています。しばらく前から自衛隊はイージス艦やPAC3など、米軍と相互に補完するミサイル防衛システムを整備してきました。しかし、北朝鮮が複数の弾道ミサイルを同時に発射する能力を誇示すると、現状では迎撃しきれないとして、地上配備のイージスシステムの整備を決めました。しかし、仮想敵国がさらに同時攻撃能力を高めればどうなるのでしょうか。「防衛」と言えば必要不可欠の最低限の軍備のように聞こえるかもしれませんが、そこには際限のない軍拡競争が待っているように思えてなりません。

 第2次世界大戦当時の英国首相チャーチルが、太平洋戦争開戦直後、2カ月余でマレー半島全域を日本軍に占領されシンガポールも陥落したことを巡って「あなたは『日本兵が10人来てもイギリス兵1人で十分だ』と言っていたではないか」と言われて「日本兵が11人で来たんだ」と答えたとの小話を耳にしたことがあります。出典を調べてもよく分からないので、あるいは作り話かもしれませんが、その内容自体は、軍事の根本原理を示しているように思います。

 「敵基地攻撃論」も「ミサイル防衛システム」の強化にしても、その果てに何があるのかとの観点からも議論は必要だと感じます。そもそも、日本全土を射程に収めた北朝鮮の弾道ミサイルは実戦配備に就いているとされます。ミサイルが日本越えで飛んで行ったのも初めてではありません。日本の国土と住民の安全の確保の観点からは、何も新しい段階に進んだわけではないように思います。「新たな脅威」をことさらに強調すればするほど、政府の責任がどんどん見えづらくなるように思います。

▼核廃絶の視点

 北朝鮮がミサイル開発に熱心なのは、核兵器の運搬手段だからです。その意味では、「核」の問題です。ことし7月、国連で核兵器禁止条約が採択されましたが、核兵器保有国は不参加。米国の核の傘に入っている日本も不参加でした。北朝鮮の核開発を擁護するつもりは全くありませんが、一方で「核」に依存する国々が 決して少なくなく、なおかつそうした国々が北朝鮮に核開発の放棄を迫る状況は、矛盾と言えば言えるのではないかと思います。そういった大きな視点からの社会的議論も必要ではないかと思います。

 核に関連してもう一つ思うのは原子力発電所です。Jアラートによって電車は止まりますが、原子力発電所は動いています。万が一の備えを言うのなら、停止させればそれだけ不安は減少するのではないでしょうか。

▼桐生悠々の「関東防空大演習を嗤う」

 一方で、9月1日までの報道を見て、当初の疑問が一定程度、解消したものもあります。例えばミサイルの動きを完全に把握と言いながら、Jアラートはミサイルの飛行コースと離れた長野県や北関東でも鳴らされたのはなぜか、疑問を感じていました。これについては、ミサイルの飛行コースの見極めには一定の時間がかかる上、飛行コースの直下だけでなく、隣接地域も警報の対象になる設定になっていること、今回はJアラートの発出時点で予想コースを「東北地方」としていたため、北海道や南は長野県まで含まれた、との共同通信の記事などがありました。

 しかし、やはり日ごろの訓練が大事、ということばかりが強調されるとしたら違和感があります。あらためて思い起こすのは戦前、「抵抗の新聞人」として知られた桐生悠々が残した論説「関東防空大演習を嗤う」のことです。このブログでも、以下の2009年4月3日の記事「ミサイル防衛を嗤う」を始め、何度か取り上げてきました。

news-worker.hatenablog.com

  「関東防空大演習を嗤う」は1933(昭和8)年8月11日、折から東京を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して、当時主筆を務めていた長野県の信濃毎日新聞に掲載した社説です。現在は著作権が切れているため、ネット上でも無料の青空文庫で読むことができます

http://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files/4621_15669.html

 戦前の文体で少し読みづらいのですが、要するに「東京に敵機が飛来するようでは戦争に負けるのは必至だ」と喝破していました。敵機が東京に接近する以前に撃墜しなければならないのだから、都市の防空訓練は意味がない、というわけです。決して反戦ではないかもしれません。しかし、後年の敗戦の惨状を言い当てていました。

 翻って今日、ミサイル防衛やJアラートを始めとした警報態勢、さらには訓練の奨励と、状況は当時と似ている面が決して少なくないように思います。ミサイルの撃墜は確実とは言い切れない、警報発出までに時間がかかる、安全性が高い避難場所は十分とは言えない―。万が一、ミサイルが日本に落下すれば、そして仮に核が搭載されていれば、どんな惨状になるかは、広島、長崎の被爆者の方々が語り伝えている通りです。

 今、マスメディアが努めるべきは、ひたすら危機を強調して軍事的対応の議論を高めるのではなく(その議論を完全否定はしませんが)、国際社会と連携した外交的、平和的解決のための議論に資する情報伝達や意見の紹介だろうと思います。

 桐生悠々が「関東防空大演習を嗤う」を世に問うたのは、満州事変から2年後のことでした。当時としては執筆に相当の覚悟が要る「反軍」の言説です。卓見もさることながら、この点にこそ悠々のすごさがあると、80余年後の今日、同じ新聞の仕事に就きながら思います。