追悼 井戸秀明さん

 悲しい知らせに接しました。
 民放労連の前副委員長、元書記長の井戸秀明さんが10月20日、永眠されました。享年65歳。かねてより闘病中でした。
 井戸さんは、わたしが新聞労連委員長として2004年10月、新聞労連や民放労連、出版労連、全印総連などマスメディアや映画演劇、音楽、情報関連の産別組合でつくる日本マスコミ文化情報労組会議(略称・MIC=ミック)議長に就いた際、民放労連書記長としてMICの事務局長を兼任していらっしゃいました。2006年9月にわたしがMIC議長を退任するまでの2年間、議長―事務局長の関係で様々にお付き合いいただき、多くのことを教えていただきました。

 小泉純一郎政権の時代でした。雇用面の大幅な規制緩和で非正規雇用が一気に拡大に向かい、経営者から見れば安価で使い勝手がいい、つまりは低賃金で、「期間満了」を理由にコマ切れに雇い止めができる派遣社員などの不安定な雇用が社会問題になろうかという時期でした。「ワーキングプア」という言葉が生まれてもいました。既存の労働組合は「抵抗勢力」のレッテルを貼られました。マスメディア産業では、伝統的に正社員による企業別組合が、どう対応していくかが問われ始めていた時期でもありました。ただ、一般にはまだまだそんな意識は広がっておらず「働き方は、個人の選択の問題でしょ」との自己責任論が幅を利かせていました。
 そんな中で、井戸さんに教えていただいたことで、今も忘れず、変わらずに胸に刻んでいるのは、労働組合はいまそこにいる労働組合員だけのための存在ではない、ということです。労働組合は働く者の団結権を具現化したものです。一人一人は弱い存在なので、団結することで経営者と対等の立場に立ち、働き方、働かされ方について交渉できるようにすることを保障するものです。しかし、実際にはその権利を手にしようにもできない人たちが大勢います。権利を主張した途端に、仕事を失うからです。そうした人たちが権利を行使できるように、労働組合を作る、加入することを実現させられるのは、今、その権利を具現化している労働組合と、その権利を手にしている労働組合員をおいて他にない、ということです。そのことを2年間、様々な活動、運動に取り組む中で様々に教えていただきました。わたしは今は労働組合に所属していませんが、労働組合のその社会的な意義への理解は今もまったく変わりがありません。仮に労組が企業の殻に閉じこもり、あるいは企業内でも隣りで働く非正規雇用の方々と向き合うことがなければ、今日は手にしている「労働組合」という権利が明日も同じように手の中にあるかどうかは分からないでしょう。

 争議こそ、何をおいても労働組合が取り組むべきものだ、ということも教えていただきました。井戸さんは京都市に本社を置く京都放送(KBS)労組の出身でした。京都放送は1980年代から90年代にかけて、経営陣の内紛や、戦後最大の経済事件と呼んでもよいイトマン事件にも登場する人物たちの暗躍にさらされ、大揺れに揺れます。その中で労組が労働債権の確保を理由として裁判所に会社更生法適用を申請。民放局の初の倒産事例となりましたが、放送は継続され、免許停止や廃局の危機は免れました。労組主導による自主管理・経営再建の試みであり、労組が職場と仕事を、ひいては放送を守った戦い、争議だったのだと思います。
 そうしたすさまじい経験を経て、民間放送の産業別組合である民放労連の専従職に就かれた井戸さんでしたから、労働組合活動への姿勢にはいささかの揺らぎもありませんでした。しかしそれでありながら決して大言壮語はなく、語り口はいつも穏やか。時に、ピリリとユーモアを利かせた皮肉で場をなごませる、そんな情景も懐かしく思い出されます。

 わたしのMIC議長の任期中に、戦後60年を迎えました。その年、2005年の8月はMICと韓国のマスメディア労組の交流事業として、日韓の言論シンポジウムをソウルで開催しました。中心になって準備を進めていただいたのが井戸さんでした。8月15日は、井戸さんやMICの仲間、韓国の仲間とソウルで過ごしました。昼に夜に、日韓のメディア労働者同士が連帯と交流を深めました。翌年は、韓国の仲間が8月6日に広島に来てくれました。意義深い連帯と交流の活動でした。
 戦争は社会不安と貧困の帰結でもあります。だから戦争を未然に防ぐには、貧困をなくし社会を安定させなければなりません。そのためには労働者の地位の向上と待遇の改善は必須です。そのためにこそ、労働者の権利は保護されなければなりません。だから労働組合とは、本来的に平和勢力です。MICは毎年8月、隔年で広島と長崎で交互に地元のマスメディア労組の共闘会議と反核フォーラムを開くなど、 平和の問題にも積極的に取り組みました。その中で沖縄のマスコミ労協との交流が深まり、5月の平和行進にもMICからの参加者が増えていきました。そうした活動を踏まえて、井戸さんと相談しながら、沖縄のマスコミ労組との連帯をMICの正規の活動に位置付けたのは、今でもわたしがささやかながら誇りとすることの一つです。井戸さんはまた、三線(さんしん)で沖縄民謡を奏でるほど、沖縄の文化に精通した方でした。

 井戸さんが病に見舞われたのは5年前でした。当時、わたしは勤務先の都合で大阪にいました。関西に里帰りした井戸さんと、大阪でも何度かお会いしました。3年前にわたしが東京に戻ってからも、時折、気のおけない仲間で食事会を開いたりしていました。いつも前向きで病と向き合っていらっしゃったように思います。最後にお会いしたのは今年の夏の終わりでした。いつもの食事会の皆さんと病室にお見舞いにうかがいました。口調はいつもと変わらず、悲壮感とかそういったものはみじんも感じられませんでした。「じゃあ、また来ますね」。まだ時間はあるだろうと勝手に思い込んで、いつもの集まりのお開きの時のようなつもりで病室を後にしました。

 わたしが新聞労連委員長、MIC議長を務めた2年間は、今もわたしにとって何物にも代えがたい宝物のような時間です。「平和と正義」は当時のMICの合い言葉でした。今なお胸に刻む、様々の貴重な経験と教訓を得ました。井戸さんとは時にデモで並んで歩き、争議支援では一緒にシュプレヒコールを上げました。ともに過ごした時間と、井戸さんに教えていただいたことどもは、今後もわたしにとっては、とりわけ困難に行き当たった時には、進むべき道を示してくれる道しるべであり続けるだろうと思います。
 最後に献花いたします。奈良・長谷寺に咲いていたアジサイです。井戸さん、ありがとうございました。安らかにお眠りください。

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以下は、井戸さんとともに過ごしたMIC議長2年間の思い出の一部です。

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沖縄・平和大行進=2006年5月

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争議支援総行動=2005年11月

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夜の銀座デモ=2005年11月