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「共謀罪」成立、作家高村薫さん「悪いのはぜんぶ私たち」(京都新聞)

 6月15日に「共謀罪」(政府呼称「テロ等準備罪」)法が参院で可決、成立されたことに対して、京都新聞が作家の高村薫さんのインタビューを掲載しました。私が読んだのは同紙のサイトに15日夜にアップされた記事です。「共謀罪」が私たちの社会に生まれ落ちたことの意味をあれこれと考えてきましたが、今の私の気分にもっとも近い指摘だと感じています。高村さんの指摘を一部引用して紹介します。

※「共謀罪」成立、作家高村薫さん「悪いのはぜんぶ私たち」=京都新聞2017年6月15日 22時47分
 http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20170615000152

 しかし、悪いのはぜんぶ私たちですよ。政権のウソを見抜くことができず、高い支持率を与え、好き勝手にさせてしまったのだから。
 「テロ対策」というのはまやかし。再三の指摘にもかかわらず適用範囲はあいまいなままで、対象となる罪もテロとは無関係なものが多数含まれている。他方で、都合の悪い異論を封じ込めるに、これほど便利な法律はない。今は、政府の方針に堂々と言論で反対することができるけれど、共謀罪があれば、そうした行為と、処罰対象となる「反政府運動」とを結び付けるのは簡単。ほんの一歩、あるいは半歩ほどの違いしかない。
(中略)
 では、なぜ政府のウソを見抜けなかったのか。高い支持率を与えてしまったのか。それは考えることを放棄してしまったから。今の日本は情報が多すぎて「何が最善なのか」「何が本当なのか」が見えにくい。分かるのは「結局、世の中難しいね」っていうことだけ。そこで、自分で決断することに限界を感じ、ある種威勢の良い言葉で現状をスパッと切ってくれる政治家に飛びついてしまう。
(中略)
 繰り返しになるけれど、悪いのは私たち。ある意味、平和や民主主義が保障されてきた戦後社会に慣れすぎていた。安心感を覚え、権力に対する警戒心が失われていた。そう、この70年、権力は「優しい顔」をしていたんですよ。よく注視すると本当は違うけれど、市民感覚として権力は怖くなくなっていた。いつ権力が私たちに牙をむくか分からないのに。共謀罪はまさにそういう法律だったのです。私たちは本当に取り返しのつかないことをした、今は、そのことを肝に銘じることしかできない。

 今振り返ってみれば、「テロ対策」を持ち出してきた安倍晋三政権に対して、そうまでして「共謀罪」をなぜ入れたがるのかを社会全体でもっと深く考えるべきだったのだろうと思います。
 そもそも、安倍首相が言うように「共謀罪」がなければ「2020年の東京五輪は開催できないと言っても過言ではない」というのが本当ならば、日本は世界中をだまして五輪を誘致したも同然ということになります。共謀罪が過去3回、国会に提案されたときには、このようにテロ対策が前面に出ることはありませんでした。なぜ今回は「テロ対策」が強調されたのか。それは、3回も廃案になった共謀罪とは別の呼び方にすることに目的があり、意味があったのだろうと推察します。そしてその後の推移は、「テロ対策」がそのこと自体には社会の関心が極めて高いこともあって、安倍政権の思った通りだったのではないでしょうか。賛成意見が圧倒的に多い、とはなりませんでしたが、反対の声が賛成を圧倒することもありませんでした。
 しかし、それでもまだ、ここで絶望してはいけないのだと思います。「私たちは本当に取り返しのつかないことをした、今は、そのことを肝に銘じることしかできない」。そうだとしても、取り返しのつかないことになった、ということを肝に銘じて、その上でどうするのか、どうすればいいのかがより重要なのだと考えています「共謀罪」の乱用をどう防ぐのか、盗聴、私信や電子メールのチェックなどの野放図な拡大にどう歯止めをかけるのか、権力による監視をだれが監視するのかなど、社会的な議論が必要な課題が数多くあります。もちろん「テロ防止」も重要です。それらの議論の一つ一つで論点がかみ合い、議論が担保されるために、今後マスメディアが果たす役割もあるのだろうと思います。