ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

3月10日「東京大空襲」の再現紙面~伏せられていた被害の実相

 3月10日は第2次世界大戦末期の1945年、東京の下町地域が未明に米軍のB29爆撃機の大空襲を受け、一夜で10万人以上が犠牲になったとされる東京大空襲から73年の日でした。戦争体験の風化の指摘も目にする中で、東京発行の新聞各紙がどのように報じるのか、毎年紙面を見ています。今年は東京新聞の10日付朝刊の特集記事が目を引きました。
 他紙ではラジオ・テレビ番組欄になっている最終面全面を使い「東京大空襲 10万人死亡」の大きな横見出し。「東京新聞」の題号の下に「1945年3月10日(土)」の日付け。その下に「現在の視点で編集しました」として「この紙面は東京大空襲当日の様子を、現在の視点で取材、編集したものです。当時、被害の実相は隠されていました」との説明が載っています。いわば今日の視点で作った再現紙面です。

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 もう13年も前のことになりますが、わたしも新聞労連の委員長当時、同じような発想の再現紙面を組合員の皆さんと一緒に作りました。当時は日本の敗戦から60年の年。何か新聞労連の記念事業を、と考えた末に「新聞労連なのだから新聞を作ろう」と思い付いたのが「しんけん平和新聞」でした。当時運営していたブログ「ニュース・ワーカー」にも簡単な紹介記事を書いています。

※ニュース・ワーカー「しんけん平和新聞」=2005年8月3日
 https://newsworker.exblog.jp/2422562/

 1面トップは日本のポツダム宣言受諾=無条件降伏でした。日本各地の住民被害の再現記事の一つに1945年3月10日の東京大空襲があり、わたしが担当しました。再現記事を書くためにいろいろ資料を調べ、当時の新聞の縮刷版も目にしました。それが「大本営発表報道」の記事を目にした初めての経験でした。被害の実相を伏せた記事がどんなものだったか、その内容は当時、ブログ記事の中で書きとめています。

※ニュース・ワーカー「東京大空襲と『大本営発表報道』」=2006年3月10日
 https://newsworker.exblog.jp/3637903/

 「しんけん平和新聞」の発想の元の一つは、広島市に本社を置く中国新聞社の労組、中国新聞労組が敗戦50年の1995年に制作した「ヒロシマ新聞」でした。1945年8月6日の広島市への原爆投下で中国新聞社本社も被災し、翌7日付の紙面を発行できませんでした。その空白を50年後、労組が再現新聞という形で埋めました。新聞労連の「しんけん平和新聞」制作にも中国新聞労組は参加し、「ヒロシマ新聞」の中の2ページをバージョンアップして提供しました。
 「しんけん平和新聞」が参考にしたもう一つの例は、当時、琉球新報が続けていた「沖縄戦新聞」の取り組みでした。60年前の1945年の沖縄地上戦を、同じ日付で再現して毎週、再現新聞として紙面化する試みでした。
 わたしの新聞労連委員長2年目の2006年には、「しんけん平和新聞」第2号を発行しました。日本国憲法の施行がテーマでした。以後も毎年1回、10号まで発行は続きました。この新聞を全国の新聞の労組が共同作業として制作し発行することが第1の運動であり、出来上がった新聞を広く読んでもらうことが第2の運動だと位置付けていました。少なくない意義があったのではないかと今も思っています。

 73年前の敗戦まで、日本は戦争をする国でした。その戦争の実相は、大本営発表報道によって国民に知らされていなかったことに十分に留意する必要があります。戦争の実相が社会に広まれば、戦意高揚は望めません。反戦的な言論が自由に社会に流れることも同じです。治安維持法などによって、表現の自由を始めとした市民的な権利が大きく抑圧された社会だったことは、まさに戦争をする社会だったがためのことでした。
 東京新聞が今日の視点で東京大空襲の再現紙面を制作したことは、当時、表現の自由や報道の自由が大きく抑圧されていた社会だったことを思い起こし、戦争をする社会とはどんな社会なのかを考える、そういった意味で意義は大きいと思います。

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※写真は1945年3月10日の東京大空襲を報じた12日付の朝日新聞紙面