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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「強制の追認でいいのか」(朝日)、「行政の裁量広げすぎでは」(毎日)~君が代訴訟の各紙社説 ※追記 「最高裁は起立斉唱を尊重した」(読売)

 君が代不起立で処分を受け、退職後の再雇用を拒否された東京都立高の元教諭22人が都に損害賠償を求めた訴訟で、元教諭ら勝訴の2審判決を破棄し請求を棄却した19日の最高裁第1小法廷(山口厚裁判長)の判決について、いくつかの新聞が社説で取り上げているのが目に止まりました。
 朝日新聞、毎日新聞、北海道新聞、中日新聞(東京新聞)は判決に批判的です。日の丸や君が代を巡る職務命令自体には既に最高裁が合憲の判断を示しています。また別の判決では、思想・良心の自由の問題と密接に絡むことから、最高裁は重い処分には慎重さが必要との判断を示していました。そうしたことを踏まえて、定年後の人生設計への影響があまりにも大きい再雇用の拒否を容認した今回の最高裁の判断を批判しています。毎日新聞は「規律違反と不採用という結果の均衡が取れているのか」と疑問を示し、北海道新聞は「今回の判決は従来の枠組みから大きく後退している」と指摘しています。
 判決を支持しているのは産経新聞で、「国旗と国歌を尊重するのは国際常識であり、強制とは言わない」「それほど国歌が嫌いなら公教育を担う教職につかないのも選択肢だ」としています。
 以下に、それぞれの社説の見出しと、本文の一部を引用して書きとめておきます。

▼朝日新聞「君が代判決 強制の追認でいいのか」=7月20日
 https://www.asahi.com/articles/DA3S13595828.html?ref=editorial_backnumber 

 原告たちが長年働いてきた教育現場から追われたのと同じ時期に、都教委は、別の理由で減給や停職などの重い処分を受けた教職員を再雇用した。さらに年金制度の変更に伴い、希望者を原則として受け入れるようになった13年度からは、君が代のときに起立斉唱せず処分された人も採用している。
 都教委が一時期、教職員を服従させる手段として、再雇用制度を使っていたことを示す話ではないか。そんな都教委のやり方を、きのうの判決は結果として追認したことになる。
 最高裁は11年から12年にかけて、日の丸・君が代訴訟で相次いで判決を言い渡している。起立斉唱の職務命令自体は憲法に反しないとしつつ、「思想・良心の自由の間接的な制約となる面がある」と述べ、戒告を超えて減給や停職などの処分を科すことには慎重な姿勢を示した。再雇用をめぐる訴訟でも、教委側の行きすぎをチェックする立場を貫いて欲しかった。 

▼毎日新聞「君が代『再雇用拒否』判決 行政の裁量広げすぎでは」=7月22日
 https://mainichi.jp/articles/20180722/ddm/005/070/046000c 

 君が代斉唱をめぐる処分の可否については決着がついている。最高裁は12年、「戒告より重い減給以上の処分を選択するには、慎重な考慮が必要だ」との判断を示した。この時は停職や減給の処分が一部取り消された。懲戒権者の処分に「行き過ぎ」がないよう一定の線引きをした。
 さらに最高裁は別の判決で「君が代の起立・斉唱行為には、思想・良心の自由に対する間接的な制約になる面がある」とも述べている。
 再雇用は定年後の人生設計を左右する。9割超が再雇用されていた実態もあった。規律違反と不採用という結果の均衡が取れているのか。今回の最高裁判決には疑問が残る。
 日の丸・君が代との向き合い方は人それぞれだ。戦前の軍国主義と結びつける人もいれば、国旗・国歌として自然に受け入れる人もいる。ただし、一方の考え方を力で抑え込めば、最高裁が指摘したように、憲法が保障する思想・良心の自由に抵触しかねない。
 国旗・国歌法が成立したのは1999年だ。当時の小渕恵三首相は国会で、「国旗掲揚や国歌斉唱の義務づけは考えていない」と答弁し、個々人に強制しないと強調した。
 その精神は今後も尊重すべきであり、行政の慎重な対応が必要だ。 

▼産経新聞(「主張」)「『不起立教員』敗訴 国旗国歌の尊重は当然だ」=7月23日
 http://www.sankei.com/column/news/180723/clm1807230001-n1.html 

 門出などを祝う重要な節目の行事で、一部教職員が座ったままの光景がどう映るか。生徒らを顧みず、教職員個人の政治的主張や感情を押しつけるもので、教育に値しない行為だ。
 起立・斉唱の職務命令を「強制」などと言い、相変わらず反対する声がある。しかし、国旗と国歌を尊重するのは国際常識であり、強制とは言わない。
 最高裁は別の訴訟でも、都教委の職務命令は「思想、良心を直ちに制約するものではない」などとして合憲の判断を示している。
 国旗掲揚や国歌斉唱に反対する一部教職員らに対し、校長らは大変な苦労を重ねてきた。平成11年には広島県で校長が自殺する痛ましい事件が起き、これを契機に「国旗国歌法」が制定された。
 職務命令を出すのは、指導に反対して式を混乱させる教職員がいまだにいるからだ。それほど国歌が嫌いなら公教育を担う教職につかないのも選択肢だ。 

▼北海道新聞「君が代訴訟 疑問拭えぬ最高裁判決」=7月23日
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/211224?rct=c_editorial 

 最高裁は「職務命令違反は式典の秩序や雰囲気を一定程度損なう。再雇用すれば、元教諭らが同様の違反行為に及ぶ恐れがある」と、都の対応を容認した。
 しかし、「内心の自由」は憲法が保障する権利である。思想や信条に基づく行為に不利益を課す場合、相当の理由や慎重さが求められるのは当然だ。
 一、二審判決がそうした原則を考慮し、「式の進行を妨害したわけではなく、職務命令違反を不当に重く扱うべきではない」と判断したことこそ妥当だろう。
 今回の判決は事の本質から目を背けているのではないか。
 忘れてならないのは、最高裁が過去の同種裁判で積み上げてきた慎重な判断である。
 職務命令は思想、良心の自由を保障する憲法に反するとは言えないとしながらも、間接的な制約と認め、処分は抑制的であるべきだとの考えも示している。
 行政の行き過ぎにクギを刺す狙いがうかがえる。
 今回の判決は従来の枠組みから大きく後退している。 

▼中日・東京新聞「君が代判決 強制の発想の冷たさ」=7月25日
 http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2018072502000119.html  

 今回の原告二十二人は〇七~〇九年に定年で再雇用を求めたが拒否された。現在の希望者全員が再雇用される制度の前だった。
 その点から最高裁は「希望者を原則として採用する定めがない。任命権者の裁量に委ねられる」とあっさり訴えを退けた。
 失望する。一、二審判決では「勤務成績など多種多様な要素を全く考慮せず、都教委は裁量権の逸脱、乱用をした」とした。その方が納得がいく。
 再雇用は生活に重くかかわる。君が代がすべてなのか。良心と職とをてんびんにかける冷酷な選別である。日の丸・君が代は自発的に敬愛の対象となるのが望ましいと思う。
 自然さが不可欠なのだ。高圧的な姿勢で押しつければ、君が代はややもすると「裏声」で歌われてしまう。 

 

【追記】 2018年7月30日8時10分
 読売新聞が7月30日付で社説を掲載しました。最高裁の判断を評価し「子供たちが、自国や他国の国旗・国歌に敬意を表する。その意識を育むことが、教員としての当然の務めである」としています。

▼読売新聞「君が代判決 最高裁は起立斉唱を尊重した」=7月30日
 https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20180730-OYT1T50000.html 

 再雇用した場合、元教員らが再び職務命令に反する可能性を重視した常識的な判断だ。
 1審は、都教委の対応が「裁量権の逸脱で違法」だとして賠償を命じた。2審もこれを支持したが、最高裁は覆した。不起立については、「式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうもので、生徒への影響も否定できない」と指摘した。
 入学式や卒業式は、新入生や卒業生にとって一度しかない大切な儀式だ。厳粛な式典で、教員らが調和を乱すような態度を取ることには到底、理解は得られまい。
 (中略)
 言うまでもなく、教員は児童生徒に手本を示す立場にある。小中高校の学習指導要領にも、入学式や卒業式で「国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と明記されている。
 東京五輪・パラリンピックを2年後に控える。子供たちが、自国や他国の国旗・国歌に敬意を表する。その意識を育むことが、教員としての当然の務めである。