追悼 齋藤三雄さん

 悲しく、残念な知らせが届きました。
 フリーランス・ジャーナリストで、元内外タイムス労働組合委員長の齋藤三雄さんが11月26日、逝去されました。59歳の若さでした。つつしんで哀悼の意を表します。

 内外タイムスはかつて、東京で発行されていた夕刊紙です。日刊ゲンダイ、夕刊フジ、東京スポーツと並んで、首都圏の駅売店の新聞売り場の一角を占めていました。一般紙とは一線を画した紙面で、ギャンブルや芸能、スポーツなどの大衆娯楽路線に力を入れ、マニアックな風俗広告でも知られていました。
 発行する内外タイムス社は1990年代から経営危機が続き、オーナーの交代も繰り返されました。社員でつくる内外タイムス労働組合と加盟する新聞労連にとっても、同社の経営と新聞発行の安定は大きな課題でした。2006年には印刷代金の滞納などから休刊の危機を迎えますが、新聞労連が内外タイムス労組に貸し付けた資金を印刷代金の一部として、新聞発行は継続されました。しかし2009年11月、同社が自己破産を申請して新聞発行は終焉を迎えました。

 わたしが齋藤さんと初めてお目にかかったのは2001年、わたしが所属する通信社の企業内労組の委員長として、新聞労連に出入りするようになったころでした。そのころ、齋藤さんは内外タイムス労組の委員長を長らく務められており、新聞労連の大会や中央委員会などの場では、必ず経営再建を求める取り組みについて報告をされていました。会社の経営も社員が置かれた状況も予断を許さない厳しい状況だったはずなのですが、齋藤さんはいつも明るく朗らか。怪しい人脈も登場する経営の内幕を分かりやすく説明し、労働者と労組にとっては何が重要か、ポイントを外すことなく報告されていました。
 懇談の場でも、様々なことを一緒に話しました。どんなに厳しい状況でも、むしろ厳しい状況だからこそ、元気を出して明るく朗らかに、前を向いて進むことが大事―。そのことを齋藤さんに教わりました。内外タイムス労組の機関紙の題号が「ど根性」だったことも、強く印象に残っています。
 その後2004年7月から2年間、わたしは新聞労連の委員長を務めました。その職に就くと決まったとき、わたしの頭の中には、お手本にしようと思った労働組合運動の先人、先輩の名前が何人かありました。そのうちのお一人が齋藤さんでした。当時の新聞労連の加盟組合員は約2万8千人。その先頭に立って進むべきわたしは、困難なときこそ、明るく朗らかでいようと心に決めました。2年間の任期中、そのことを実践できたかは心もとありませんが。
 齋藤さんはその後、経営再建のために労組を離れて経営に携わるようになり、やがて、内外タイムスを離れました。わたしが新聞労連委員長に就任した当時には、フリーランス・ジャーナリストとして活動されていたと記憶しています。
 2006年に迎えた内外タイムスの危機は、わたしの新聞労連委員長退任と後任の委員長への引き継ぎの時期にかかっていました。後任の委員長を中心に新聞労連と内外タイムス労組が大きな決断をして、内外タイムスの発行が継続されるに至りましたが、わたしも、当時の内外タイムス労組の執行部の皆さんも、齋藤さんら先人が守ってこられた新聞のともしびを絶やしてはならない、との思いを共有していたと思います。

 2006年の危機から09年の終焉まで、苦労をともにした内外タイムス労組の元組合員と、新聞労連の歴代執行部有志とが2年前に集まり、旧交をあたためる機会がありました。わたしたちの当時の取り組みと連帯の意義を再確認しながら、次回は齋藤さんにも来ていただきたい、久しぶりにお会いしてお話ししたいと思っていました。残念ながら、その機会は永遠になくなってしまいました。

 先日、東京都内で執り行われた齋藤さんの通夜に参列しました。寒空の下、式場の外まで、大勢の参列者が焼香の列をつくりました。取材先からも、だれからも愛され、信用された齋藤さんの人柄がしのばれました。
 齋藤さん、ありがとうございました。安らかにお眠りください。苦しいときこそ、明るく、朗らかに、という齋藤さんに学んだ生き方を、わたしはがんばって貫いていこうと思います。

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