「展示再開」も論点に~「表現の不自由展」中止 新聞各紙の社説・論説の記録 ※追記:実行委対応にも疑問提示 追記2:読売新聞「主催する側にも甘さがあった」

 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題に対して、いくつかの新聞が社説・論説で取り上げています。ネット上のサイトで確認できたものを記録しておきます。
 企画展の中止が発表されたのは8月3日でした。わたしが確認した限りですが、もっとも早い社説は5日付の京都新聞、沖縄タイムス、琉球新報の地方紙3紙でした。うち2紙が沖縄の新聞だったことは特筆されていいように思います。京都新聞の社説は、「表現の自由」が侵害されたことで、対になる「知る権利」も奪われたと明瞭に指摘しています。
 次いで6日付で全国紙の朝日、毎日両紙と信濃毎日新聞が掲載。いずれも展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長らの政治介入を批判しています。その一方で表現に違いはありますが、展示内容を考えれば抗議は予想できたのに主催者側の備えは十分だったのか、との疑問も提示している点も共通しています。
 7日付では確認できた範囲で9紙が掲載しました。このうち佐賀新聞は共同通信が配信した論説を署名入りで掲載。東奥日報、茨城新聞も同内容です(ほか6紙は産経新聞、北海道新聞、山梨日日=見出しのみ確認、新潟日報、中日新聞・東京新聞、高知新聞)。
 ここにきて「実行委は中止の判断に至る経緯を検証した上で、企画展を再開する道を探ってもらいたい」(北海道新聞)、「今回の件で表現活動を萎縮させないため、再展示も含め何ができるか考えてみる必要がある」(東奥日報、茨城新聞、佐賀新聞)と展示再開に言及した社説・論説が出てきました。このブログの一つ前の記事でも触れましたが、どうやったら展示を再開できるのか、という議論は、具体的に表現の自由をどう守るのか、という意味では核心的といってもいい論点だとわたしは考えています。
 おおむね各紙とも、展示作品の内容の是非には触れていません。その中で、産経新聞は一線を画しました。「企画展の在り方には大きな問題があった。『日本国の象徴であり日本国民の統合』である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった」「今回の展示のようなヘイト行為が『表現の自由』の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい」と、展示と企画展への批判を前面に出し、そもそも「表現の自由」として保護される対象ではないと言い切っているのが目を引きます。

 以下に、各紙の社説・論説の一部を引用して書きとめておきます。一定期間、ネット上の各紙のサイトで全文を読むことができるものはリンクも張りました。

【8月5日付】
▼京都新聞「少女像展示中止  悪い前例にならないか」
 https://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20190805_4.html

 実際に会場に足を運んでみると、入場制限が行われるほど観客が訪れていた。少女像には賛否両論あるが、展示が多くの人の関心を集めたのは事実だ。
 それだけに、暴力を示唆する抗議で中止に追い込まれたのは極めて残念だ。悪い前例になりかねない。強く懸念する。
 (中略)
 観客やスタッフを危険にさらさない、という判断は理解できる。しかし電話をした人の中に、会場で展示を見た人がどれほどいたのだろうか。ネットを通じて不正確で断片的な情報が広がったのが、実際ではないか。
 展示を見ていない人の声で、これから見学しようという人たちの知る権利や学ぶ権利が奪われた、ともいえる。
 河村たかし名古屋市長や菅義偉官房長官の対応にも疑問が残る。
 河村氏は「行政の立場を超えた展示」として中止を大村知事に求めた。菅氏は補助金交付を慎重にする考えを示した。
 両氏に従えば、憲法が禁じる検閲になりかねない。そもそも、政府や行政のトップは憲法を守る立場から脅迫的な抗議に苦言を呈すべきではなかったか。
 京都アニメーション放火殺人事件を示唆するファクスなどは、極めて不謹慎な脅迫だ。警察は厳しく取り締まってほしい。

▼沖縄タイムス「[愛知芸術祭 企画展中止]脅迫こそ批判すべきだ」
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/454271

 自由な表現活動を抗議や脅迫から守るのが本来の行政や政治家の責務である。
 逆に会長代行の河村たかし名古屋市長は企画展の視察後、大村知事に抗議文を出し、少女像などの展示中止を求めた。政治的圧力である。
 芸術祭は文化庁の補助事業で、菅義偉官房長官は慎重に判断する考えを示した。憲法の「検閲は、これをしてはならない」に反しかねない。菅氏はテロ予告や抗議に対してこそ強く批判すべきである。
 (中略)
 「表現の不自由展・その後」は15年に東京で開かれた小規模な展覧会「表現の不自由展」が原形である。日本の「言論と表現の自由」が脅かされているのではないか、との危機感から始まった。
 今回の企画展は、その続編の位置付けだ。中止になったことで不自由展がまた一つ重ねられ、日本における表現の自由の後退が国際社会に示されたと言わざるを得ない。
 主義主張は違っても、作品によって喚起される問題を自由闊達(かったつ)に議論すること。これこそが健全で民主的な社会だ。表現の自由を萎縮(いしゅく)させ、奪う社会は極めて危険だ。

▼琉球新報「愛知芸術祭展示中止 『表現の自由』守る努力を」
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-966044.html

 指摘しなければならないのは、政治家たちの振る舞いだ。実行委会長代行でもある河村たかし名古屋市長は「行政の立場を超えた展示が行われている」として大村知事に抗議文を出し少女像などの展示中止を求めた。松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)は、事前に展示は問題だと河村氏に伝えていた。芸術祭は文化庁の補助事業だが、菅義偉官房長官は補助金交付を慎重に判断する考えを示した。
 自由な創作や表現活動を守るべき立場にある行政の責任者らのこうした言動は理解に苦しむ。日本ペンクラブは「政治的圧力そのもので、憲法21条2項が禁じる『検閲』にもつながる」と指摘している。
 日本は戦後、言論・表現の自由が封殺され道を誤った戦前の反省に立ち民主主義の歩みを続けてきたが、その基盤は決して強固ではない。展示中止の経緯を検証し、議論を深めなければならない。

【8月6日付】
▼朝日新聞「あいち企画展 中止招いた社会の病理」
 https://www.asahi.com/articles/DA3S14128795.html?iref=editorial_backnumber

 市長が独自の考えに基づいて作品の是非を判断し、圧力を加える。それは権力の乱用に他ならない。憲法が表現の自由を保障している趣旨を理解しない行いで、到底正当化できない。
 菅官房長官や柴山昌彦文部科学相も、芸術祭への助成の見直しを示唆する発言をした。共通するのは「公的施設を使い、公金を受け取るのであれば、行政の意に沿わぬ表現をするべきではない」という発想である。
 明らかな間違いだ。税金は今の政治や社会のあり方に疑問を抱いている人も納める。そうした層も含む様々なニーズをくみ取り、社会の土台を整備・運営するために使われるものだ。
 まして問題とされたのは、多数決で当否を論じることのできない表現活動である。行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。その逆をゆく市長らの言動は、萎縮を招き、社会の活力を失わせるだけだ。
 主催者側にも顧みるべき点があるだろう。予想される抗議活動への備えは十分だったか。中止に至るまでの経緯や関係者への説明に不備はなかったか。丁寧に検証して、今後への教訓とすることが欠かせない。

▼毎日新聞「『表現の不自由展』中止 許されない暴力的脅しだ」
 https://mainichi.jp/articles/20190806/ddm/005/070/088000c

 自分たちと意見を異にする言論や表現を、テロまがいの暴力で排除しようというのは許されない行為だ。こういった風潮が社会にはびこっていることに強い危機感を覚える。
 政治家の対応にも問題がある。少女像を視察した河村たかし・名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる行為」などとして、展示の中止を求めた。
 また、菅義偉官房長官は、文化庁の補助金交付の是非について検討する考えを示した。
 暴力によって中止に追い込もうとした側が、政治家の発言を受けて勢いづいた可能性がある。
 作品の経緯からして、反発の声が上がることは十分予測できた。悪化する日韓関係も原因の一つと考えられる。
 津田さんは「想定が甘かったという批判は甘んじて受ける」と語る。万が一のリスクを回避しなければならないという考え方は理解できる。
 一方で、脅せば気に入らない催しをやめさせることができるという前例になったとすれば、残した禍根は小さくない。

▼信濃毎日新聞「表現の不自由展 自粛を広げないために」
 https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190806/KT190805ETI090004000.php

 加えて見過ごせないのは、政治の介入だ。河村たかし名古屋市長は慰安婦問題が「事実でなかった可能性がある」として展示中止を要求していた。菅義偉官房長官は文化庁の補助金交付を慎重に判断する考えを示した。
 憲法が保障する表現の自由への理解を欠いている。政治家が国民の対立をあおるような振る舞いをしたという点でも問題だ。
 (中略)
 津田氏自身「抗議の殺到で中止せざるを得なくなることも予想していた」とする。日韓関係が悪化した時期に重なった事情はあるにせよ、事前の検討は十分になされたのか。展示が憎悪の感情をあおり、結果的に政治の介入を招いたとすれば責任は重い。
 今回の一件が表現活動を萎縮させたり、展示の自粛につながったりすることは避けなくてはならない。表現の自由について議論する格好の機会でもある。中止に至るまでの経緯と問題点を検証し、公表するよう実行委に求めたい。

【8月7日付】
▼産経新聞「愛知の企画展中止 ヘイトは『表現の自由』か」
 https://www.sankei.com/column/news/190807/clm1908070002-n1.html

 暴力や脅迫が決して許されないのは当然である。
 一方で、企画展の在り方には大きな問題があった。「日本国の象徴であり日本国民の統合」である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった。
 バーナーで昭和天皇の写真を燃え上がらせる映像を展示した。昭和天皇とみられる人物の顔が剥落した銅版画の題は「焼かれるべき絵」で、作品解説には「戦争責任を天皇という特定の人物だけでなく、日本人一般に広げる意味合いが生まれる」とあった。
 「慰安婦像」として知られる少女像も展示され、作品説明の英文に「Sexual Slavery」(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である。
 (中略)
 憲法第12条は国民に「表現の自由」などの憲法上の権利を濫用してはならないとし、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と記している。今回の展示のようなヘイト行為が「表現の自由」の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい。大村氏は開催を反省し、謝罪すべきだろう。県や名古屋市、文化庁の公金支出は論外である。
 芸術祭の津田大介芸術監督は表現の自由を議論する場としたかったと語ったが、世間を騒がせ、対立をあおる「炎上商法」のようにしかみえない。
 左右どちらの陣営であれ、ヘイト行為は「表現の自由」に含まれず、許されない。当然の常識を弁(わきま)えるべきである。

▼北海道新聞「芸術祭展示中止 憲法違反の疑いが強い」
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/332702?rct=c_editorial

 表現の自由は、憲法が最大限に保障する民主主義の根幹である。想定を超えた事態とはいえ、圧力に屈する形になったのは残念だ。
 さらに問題なのは、企画展に対する政治家の介入だ。憲法の禁じる検閲にあたる疑いが強い。
 実行委は中止の判断に至る経緯を検証した上で、企画展を再開する道を探ってもらいたい。
 (中略)
 大村氏としても、警備を強化するなど、展示続行の努力がもっとあってもよかったのではないか。
 憲法は同時に、自由権の乱用を禁じている。企画展は特定の人々を傷つける意図はなく、作品撤去の事実を示したにすぎない。乱用には当たらないと考える。
 芸術祭は文化庁の補助事業だ。菅義偉官房長官は補助金交付の是非を検討するとしたが、表現の自由の擁護に努めてほしい。
 気になるのは、芸術監督の津田大介氏が「表現の自由が後退する前例を作った責任を重く受け止めている」と述べたことだ。
 これを前例にしてはならない。芸術祭の出品作家やさまざまな文化団体から、政治家の介入や展示中止への抗議が相次いでいる。
 憲法に基づき、作品に対する自由な意見交換の場をつくるべく、環境を整えて出直すのが筋だ。

▼東奥日報「表現の自由確保に努力を/慰安婦少女像の展示中止」※共同通信
 https://www.toonippo.co.jp/articles/-/230067
▼茨城新聞「少女像展示中止 表現の自由が傷ついた」※共同通信

▼山梨日日新聞「[少女像の展示中止]表現の不自由 前例にするな」

▼新潟日報「表現の不自由展 中止が招く萎縮を憂える」
 https://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20190807487437.html

 大村知事は5日の会見で公権力こそ表現の自由を守るべきだとし、「公権力を行使する人が内容にいい悪いと言うことは憲法が禁じる検閲ととられても仕方ない」と述べた。
 これに対し、河村市長は「最低限の規制は必要」「(少女像は)日本人の心を踏みにじるものだ」などと反論した。
 自らの信条に基づくような一方的な物言いには、表現の自由の本質を理解しているのか疑問を抱かざるを得ない。
 菅義偉官房長官も芸術祭開幕翌日の2日の記者会見で、補助金交付を慎重に判断する考えを示していた。
 旧憲法の下では政府による検閲や言論弾圧が横行し、戦争に反対できない風潮を生んだ。その反省から、現憲法には表現の自由を保障し、検閲を禁じる21条が盛り込まれた。
 自らの主張を自由に唱える一方で、他者の考えもきちんと尊重する。こうした態度こそ、私たちが享受する表現の自由の基礎となるものだ。
 芸術祭の芸術監督を務めるジャーナリストの津田大介氏は会見で「表現の自由を後退させてしまった」と語ったが、これまでも表現の自由は安泰だったわけではない。
 今回の中止を、表現の自由を守るためにこれからどう生かすのか。そこを考えることが、課せられた責任だろう。

▼中日新聞・東京新聞「『不自由展』中止 社会の自由への脅迫だ」
 https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019080702000121.html

 参加した芸術家から「作品を見る機会を人々から奪う」などとして、中止を批判する声があるのはもっともだ。だが、スタッフや来場者の安全を考えた上での苦渋の決断だったろう。この上は速やかで徹底的な捜査を求めたい。
 芸術監督のジャーナリスト・津田大介さんは「表現の自由が後退する事例をつくってしまった」と悔やむ。しかしこの国の表現の自由を巡る現状や「意に沿わない意見や活動は圧殺する」という風潮を白日の下にさらしただけでも、開催の意義はあったといえよう。
 河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として少女像などの撤去を要請。菅義偉官房長官も、国の補助金交付について慎重に検討する考えを示した。これは、日本ペンクラブが声明で「憲法が禁じる『検閲』にもつながる」と厳しく批判したように、明らかな政治による圧力だ。
 政治や行政のトップは多様な意見や表現を尊び、暴力的行為を戒める立場にある。美術家の活動よりもテロ予告をこそ強く非難するべきだろう。
 国の内外を問わず、政治家による排他的な発言が「お墨付き」となり、ヘイト犯罪など昨今の極端な言動の下地になっているとすれば、憂慮すべき事態だ。
 現代のアートは、単に花鳥風月をめでるものではない。世界に存在する対立や危機、圧政や苦難を見る者の反発も覚悟で広く伝え、対話や解決の糸口を生んでいる。
 それを理解せずに「美術展を政治プロパガンダの場にするな」などと非難しても筋違いだろう。芸術家や美術館の関係者は、決して萎縮してはならない。

▼高知新聞「【表現の不自由展】中止は社会のゆがみ映す」
 https://www.kochinews.co.jp/article/298982/

 行政が主体の実行委が早々に圧力に屈したことも衝撃だ。防犯面などで関係機関との連携はできなかったのか。中止という最終手段しかなかったのだろうか。
 不自由展の実施団体は、実行委から一方的に中止を通告されたと非難している。事実であれば、これも禍根を残しかねない対応だ。
 実行委の会長代行である名古屋市の河村たかし市長の対応にも疑問を呈したい。河村市長は少女像などの撤去を求める抗議文を実行委会長の大村秀章県知事に出した。
 展示が「日本人の心を踏みにじるものだ」と指摘。県市、国の資金が活用されていることから「展示すべきではない」とも述べた。
 大村知事は、市長が「内容にいい悪いと言うことは憲法が禁じる検閲ととられても仕方ない」と強く批判している。当然だ。
 河村市長は従軍慰安婦問題が「事実でなかった可能性がある」との歴史認識に立つ。個人的にどのような見解を持とうが自由だが、市長として中止を求めれば、表現への弾圧ととられても仕方があるまい。
 まして税金は政治家や行政のものではなく国民のものだ。価値観が合わない人には使わせないという発想は許されない。

▼佐賀新聞「少女像展示中止 表現の自由が傷ついた」※共同通信
 https://www.saga-s.co.jp/articles/-/410410 

展示内容から実行委も一定の反発は想定していたが、それを超える抗議が押し寄せた。「ガソリン携行缶を持って美術館に行く」と京都アニメーション放火殺人事件を連想させる内容のファクスまであった。ただ、それ以上に想定外だったのは河村氏の抗議だろう。
 中止発表後に改めて記者会見した大村氏は河村氏が展示中止を求めたことを「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と批判。「検閲ととられても仕方ない」とした。これに対し、河村氏は「検閲ではない」と強調。少女像展示を巡り「数十万人に強制したという韓国側の主張を認めたことになる」「事実でなかった可能性がある」などと反論している。
 河村氏はかつて「南京大虐殺」はなかったのではないかと発言、南京市と名古屋市の交流停止に発展したことがある。今回の発言も不用意というほかない。行政が展示内容に口を挟むことが、どのような影響をもたらすかということには全く考えが及ばないようだ。
 今回の件で表現活動を萎縮させないため、再展示も含め何ができるか考えてみる必要がある。

 

※追記 2019年8月8日21時15分

 8月8日付新聞にも関連の社説、論説が掲載されました。ネット上で確認できたところでは8紙です。「実行委側に事前対応をはじめ準備不足や不備があったのは否めない」(中国新聞)、「事務局の対応も検証する必要がある。一定の反発を予測し人員を確保していたというが、結果的に足りなかった」(徳島新聞)、「警察との事前打ち合わせや、展示意図を丁寧に伝える姿勢は十分だったか。実行委に検証を求めたい」(西日本新聞)などと、実行委側の対応にも疑問を投げ掛ける内容が目立ちます。

【8月8日付】
▼神戸新聞「表現の不自由展/中止をあしき前例とせず」
 https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201908/0012588447.shtml

 脅迫は犯罪である。違法行為は厳しく罪に問う。賠償も課する。それが法治国家の姿だ。
 愛知県はきのう被害届を出したが、警察はその前に「一線を越えれば取り締まる」と強い姿勢を示すべきだった。会場警備を厳重にする責任もあった。
 実際は事務局が過激な抗議の矢面に立ち、職員らが追い詰められたという。苦渋の選択だが、脅迫に屈した形になった。
 (中略)
 河村たかし名古屋市長が少女像の撤去を求めるなど、政治家の発言も問題を複雑にした。
 内容への賛否はあるだろう。だが「気に入らない」と首長や閣僚、議員らが口を挟むようでは戦前のような検閲国家になりかねない。見る機会を保障した上で議論を深めるのが筋だ。
 河村市長の要請に対し、大村知事は「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが濃厚」と指摘した。公費で補助する場合も、行政の規制は施設管理などにとどめるべきである。

▼中国新聞「「表現の不自由展」中止 卑劣な脅し、許されない」
 https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=560323&comment_sub_id=0&category_id=142

 一方で、実行委側に事前対応をはじめ準備不足や不備があったのは否めない。折しも日韓関係が悪化し、「嫌韓」の世論が高まるタイミングでもあった。
 表現の自由について議論が深まることを企図しながら、脅迫行為に表現の自由が屈する―という前例をつくってしまったことが悔やまれる。
 しかも国際芸術祭が舞台である。日本では、表現の自由に対し、暴力的な言葉や行為が横行していることを海外に広める結果になった。それも公権力が介入しているのだから、イメージの悪化は避けられまい。
 今回の一件で、この国の内実が浮き彫りになった。根深い分断が存在する社会であり、暴力をちらつかせて相手の考えをつぶそうとする不寛容の風潮である。
 意見を異にする相手でもその考えに耳を傾け、話し合い、互いに尊重し合う―。それが多様性を認める寛容な社会の姿だ。だからこそ表現の自由が封じられた今回の件を深く憂慮する。脅迫や暴力の支配を許さぬために、この国の現状を見つめ直し議論すべきときである。

▼山陰中央新報「少女像展示中止/表現の自由が傷ついた」
 http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1565232128235/index.html

▼徳島新聞「不自由展中止 表現の自由への攻撃だ」
 https://www.topics.or.jp/articles/-/240730

 テロ予告や脅迫は犯罪であり、断じて許してはならない。警察は発信元を特定し、厳重に対処すべきだ。
 事務局の対応も検証する必要がある。一定の反発を予測し人員を確保していたというが、結果的に足りなかった。
 芸術祭の芸術監督を担うジャーナリストの津田大介氏は「展示を拒否された作品を見てもらい、表現の自由について考えてもらう趣旨だった」と語っている。
 作品の受け止め方は人それぞれ違って当然であり、意見を交わすことで理解が深まる。そうした議論自体を許容しない「表現の不自由」の現状を可視化しようとした試みは、意義があったと言える。
 実行委は開催意図の丁寧な説明や市民の安全確保など、中止を決める前にやるべきことがあったのではないか。

▼西日本新聞「少女像展示中止 『表現の自由』は守らねば」
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/533693/

 企画展の狙いは、美術館などで展示不許可となった作品の鑑賞を通じ、表現の自由を巡る議論を促すことだった。反発が予想されたが実行委は「議論を起こすことに意義がある」と開催に踏み切った。趣旨と決断は是とするが脅迫に屈した「悪(あ)しき前例」となった事実は重い。こうした事態を想定した警察との事前打ち合わせや、展示意図を丁寧に伝える姿勢は十分だったか。実行委に検証を求めたい。
 表現の自由について議論を促すための美術展が暴力的な圧力でつぶされ、政治家もそれに関わった。前代未聞の出来事を、表現の自由や公権力との関係について、深く考える契機としなければならない。

▼熊本日日新聞「『不自由展』中止 『表現の場』脅かす事態だ」
 https://kumanichi.com/column/syasetsu/1145132/

 企画展が中止になったことを受け、出品作家を含む約70人のアーティストが抗議声明を発表。芸術祭の目的は「個々の意見や立場の違いを尊重し、すべての人びとに開かれた議論を実現するため」とし、中止によって作品を理解、読解するための議論も閉ざされてしまう、と指摘した。
 中止を決定する前に、多様な意見を交わす場を設ける試みがあっても良かったのではないか。今回の中止決定は「表現の自由」を萎縮させ、「表現の不自由」が現実にあることを図らずも印象づけてしまった。
 異なる意見を認めず、気に入らない表現活動を暴力的圧力でやめさせるような行為がまかり通ってはならない。あしき前例としないよう経緯を検証し教訓として残す努力が関係者には求められよう。

▼宮崎日日新聞「少女像展示中止 行政が表現を萎縮させるな」
 http://www.the-miyanichi.co.jp/shasetsu/_40318.html

▼南日本新聞「[少女像展示中止] 表現の自由を守らねば」
 https://373news.com/_column/syasetu.php?storyid=108813

 

※追記2 2019年8月9日22時15分
◇主催側の落ち度だけを取り上げる読売新聞
 これまで他紙に比べて扱いの小ささが目立っていた読売新聞が、9日付朝刊になって社説を掲載しました。見出しの通り、主催者側に落ち度があったとして批判する内容ですが、政治介入には言及がなく、政治介入が度を超えた抗議行動や脅迫行為を助長した疑いにも触れていません。主催者側の事前の備えは論点の一つですが、それのみを取り上げて批判する論調は、他紙と比べて特異だと感じます。一部を引用して書きとめておきます。

【8月9日付】
▼読売新聞「愛知企画展中止 主催する側にも甘さがあった」
 https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20190808-OYT1T50312/

 芸術祭は県や名古屋市が運営に関与し、予算も支出している。企画展には、少女像のほか、昭和天皇の肖像を用いた作品を燃やす映像もあった。特定の政治的メッセージを感じさせる作品だった。
 芸術作品における表現の自由は最大限、尊重されなければならない。ただ、行政が展覧会の運営に関わる以上、展示する作品やその方法について一定の責任を負うことも確かだろう。
 不特定多数の鑑賞者が想定される展覧会で、政治性の強い作品を、それを批判する側の視点を示さずに、一方的に展示すれば、行政が是認している印象を与えかねない。作品を不快に感じる人たちの反発をあおる可能性もある。
 (中略)
 大村氏は「とんがった芸術祭に」と要望し、芸術監督を務める津田大介氏に企画を委ねた。展示作品が物議を醸すことが予想されたのに、反発を感じる人への配慮や作品の見せ方の工夫について、検討が尽くされたとは言い難い。
 河村たかし名古屋市長は開幕後に少女像の展示などを批判したが、自らも実行委員会会長代行の立場にあったのではないか。
 主催者側の想定の甘さと不十分な準備が、結果的に、脅迫を受けて展覧会を中止する前例を作ったとも言える。その事実は重く受け止めなければならない。