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昭和天皇の「戦後責任」~「拝謁記」 沖縄の新聞の視点

 戦後、初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が昭和天皇とのやり取りを書き記していた「拝謁記」をNHKが遺族から入手し、その内容を8月16日に放送しました。NHKは同19日に「拝謁記」のうち自局で放送済みの部分を公開。これを元に新聞各紙も19日夕刊から20日付朝刊にかけて大きく報じました。NHKも新聞各紙も総じて報道は、昭和天皇が戦争を後悔し、敗戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に反省の気持ちを表明したいと強く希望しながら、当時の吉田茂首相の反対でかなわなかったことや、戦前のような軍隊の復活は否定しつつ、憲法改正と再軍備を口にしていたことが中心でした。
 そうした中で、これは注目されるべきだろうと思ったのは、沖縄の琉球新報、沖縄タイムス両紙の視点です。琉球新報は20日付の記事で、昭和天皇が1953年当時、全国各地で反米軍基地闘争が起きる中で、基地の存在が国全体のためにいいのなら一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことを大きく報じました。沖縄タイムスも翌21日付の記事で、この部分をクローズアップしています。
 両紙とも21日付の社説でも取り上げ、「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3度切り捨てられている。根底にあるのは全体のためには一部の犠牲はやむを得ないという思考法だ」「こうした考え方は現在の沖縄の基地問題にも通じる」(琉球新報)、「米軍の駐留について『私ハむしろ 自国の防衛でない事ニ当る米軍ニハ 矢張り感謝し酬(むく)ゆる処なけれバならぬ位ニ思ふ』(53年6月)と語ったとの記録もあり、今につながる米国とのいびつな関係性を想起させる」(沖縄タイムス)と指摘しています。琉球新報の社説が「戦後責任も検証が必要だ」と掲げているように、昭和天皇を巡っては「戦争責任」だけではなく、「戦後責任」の問題もあるはずだと問うています。
 沖縄の両紙のような視点がなければ、昭和天皇の戦後の発言は歴史のひとコマとしての位置付けしかなされず、今日的な問題とのつながりを意識できないかもしれません。以下に両紙の報道の一部を書きとめておきます。

■琉球新報
「一部の犠牲やむを得ぬ 昭和天皇、米軍基地で言及 53年宮内庁長官『拝謁記』」=2019年8月20日
 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-974423.html

 【東京】初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が、昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した「拝謁(はいえつ)記」が19日、公開された。全国各地で反米軍基地闘争が起きる中、昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。
 専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の「天皇メッセージと同じ路線だ」と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について「反省していたかは疑問だ」と述べた。
 (中略)
 昭和天皇は「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ一部の犠牲となる人ニハ全体から補償するといふ事にしなければ国として存立して行く以上やりやうない話」だとした。戦力の不保持などをうたった日本国憲法を巡っては「憲法の美しい文句ニ捕ハれて何もせずに全体が駄目ニなれば一部も駄目ニなつて了(しま)ふ」との見方も示していた。
 同年6月1日の拝謁では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から侵略の脅威となるものを先(ま)づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と述べた。旧ソ連など共産主義への警戒感を強め、米軍基地反対運動に批判的な見解を示していた。

【社説】「昭和天皇『拝謁記』 戦後責任も検証が必要だ」=2019年8月21日
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-975015.html

 沖縄を巡り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。歴史を正しく継承していく上で、これらの検証は欠かせない。
 45年2月、近衛文麿元首相が国体護持の観点から「敗戦は必至」として早期和平を進言した。昭和天皇は、もう一度戦果を挙げなければ難しい―との見方を示す。米軍に多大な損害を与えることで講和に際し少しでも立場を有利にする意向だった。
 さらに、45年7月に和平工作のため天皇の特使として近衛元首相をソ連に送ろうとした際には沖縄放棄の方針が作成された。ソ連が特使の派遣を拒み、実現を見なかった。
 そして47年9月の「天皇メッセージ」である。琉球諸島の軍事占領の継続を米国に希望し、占領は日本に主権を残したまま「25年から50年、あるいはそれ以上」貸与するという擬制(フィクション)に基づくべきだ―としている。宮内府御用掛だった故寺崎英成氏を通じてシーボルトGHQ外交局長に伝えられた。
 既に新憲法が施行され「象徴」になっていたが、戦前の意識が残っていたのだろう。
 これまで見てきたように、昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3度切り捨てられている。根底にあるのは全体のためには一部の犠牲はやむを得ないという思考法だ。
 こうした考え方は現在の沖縄の基地問題にも通じる。
 日本の独立回復を祝う52年の式典で昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたところ、当時の吉田茂首相が反対し「お言葉」から削除されたという。だからといって昭和天皇の責任が薄れるものではない。
 戦争の責任は軍部だけに押し付けていい話ではない。天皇がもっと早く終戦を決意し、行動を起こしていれば、沖縄戦の多大な犠牲も、広島、長崎の原爆投下も、あるいは避けられたかもしれない。

■沖縄タイムス
「『一部の犠牲 やむを得ぬ』 昭和天皇、米軍駐留巡り 1953年記録 沖縄を切り離す『天皇メッセージ』と通底」=2019年8月21日
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/460393

 【東京】初代宮内庁長官を務めた故田島道治が昭和天皇との詳細なやりとりを記録した資料「拝謁(はいえつ)記」の中で、1950年代に日本国内で基地反対闘争が激化しているさなか、昭和天皇が53年11月24日の拝謁で「一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬ」との認識を示していたことが20日までに分かった。拝謁記の中で昭和天皇は国防は米軍に頼らざるを得ないとの考えを度々言及している。識者は「戦後にロシアの共産主義の脅威を恐れ、米国が琉球諸島を軍事占領することを求めた47年9月の『天皇メッセージ』を踏まえたもの」と指摘する。

【社説】「[ 昭和天皇『拝謁記』] 今に続く『捨て石』発想」=2019年8月21日
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/460401

 昭和天皇との対話を詳細に記録した貴重な資料の中で目を引くのが、基地問題に触れた記述だ。
 「全体の為ニ之がいゝと分れば 一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ 一部の犠牲となる人ニハ 全体から補償するといふ事ニしなければ 国として存立して行く以上 やりやうない話」(53年11月)とある。
 53年といえば、米軍統治下にあった沖縄では、米国民政府の「土地収用令」が公布され、「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収が始まったころだ。
 本土でも米軍基地反対闘争が起こっていた。反基地感情が高まり、本土の米海兵隊の多くが沖縄に移転した。
 「一部の犠牲」が沖縄に負わされる形で、今も、国土面積の0・6%にすぎない沖縄県に米軍専用施設の約70%が固定化されている。
 国の安全保障を沖縄が過重に担う現在につながる源流ともいえる言葉だ。
 戦時中、沖縄は本土防衛のための「捨て石」にされた。
 47年9月、昭和天皇が米側に伝えた「天皇メッセージ」では、「アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与(リース)をする」と、昭和天皇自らが、沖縄を米国に差し出した。
 今回明らかになった「一部の犠牲はやむなし」の思考はこれらに通底するものだ。
 米軍の駐留について「私ハむしろ 自国の防衛でない事ニ当る米軍ニハ 矢張り感謝し酬(むく)ゆる処なけれバならぬ位ニ思ふ」(53年6月)と語ったとの記録もあり、今につながる米国とのいびつな関係性を想起させる。


 東京発行の新聞各紙についいても、8月20日付朝刊で「拝謁記」をどう報じたか、事実関係を中心にした本記の扱いと見出しを以下に書きとめておきます。

▽朝日新聞
1面準トップ「昭和天皇 終戦後の『言葉』/戦争『反省といふ字、入れねば』/改憲『軍備の点だけ公明正大に』/記録文書見つかる」

▽毎日新聞
1面トップ「昭和天皇 戦争への悔恨/『反省といふ字どうしても入れねば』/拝謁記 表明実現せず/再軍備言及『禁句です』」

▽読売新聞
1面「再軍備、憲法改正 言及/昭和天皇の会話記録公開」

▽日経新聞
第2社会面「昭和天皇、戦争『反省』望む/宮内庁初代長官が会話記録/52年式典お言葉 首相反対で削除」

▽産経新聞
1面「昭和天皇の発言明らかに/改憲は『公明正大に』/再軍備『やむをえず』/初代宮内庁長官『拝謁記』」

▽東京新聞
1面準トップ「昭和天皇の声 克明/戦争『反省』退位言及/再軍備を主張/初代宮内庁長官 拝謁記」