ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「表現の自由侵しかねない」(北海道新聞)、「五輪報道の自由奪えない」(京都新聞)~出版労連、MIC、日本ペンクラブも五輪組織委を批判

 東京五輪の開会式イベントの演出を巡る週刊文春の報道に対し、東京五輪・パラリンピック組織委員会が業務妨害や著作権の侵害を主張し、雑誌の回収やネット記事の削除を要求している問題で、朝日新聞、信濃毎日新聞に続き、新たに北海道新聞と京都新聞が4月8日付の社説でそれぞれ組織委の対応を批判しました。北海道新聞社は大会のオフィシャルサポーター、スポンサー企業です。
 ほかに目にとまったところでは、出版界で唯一の産別労組である出版労連、新聞や出版、民放などの産別労組でつくる日本マスコミ文化情報労組会議(略称MIC)がそれぞれ抗議声明を出しているほか、日本ペンクラブも「東京2020組織委員会は報道統制をしてはならない~マスメディアの多様な報道を求める」との声明(4月6日)の中で、週刊文春への威圧も触れています。いずれも表現の自由にかかわる立場からの意思表明です。それぞれの社説、声明の一部を引用して書きとめておきます。
 表現の自由が民主主義社会でどれだけ重要か、組織委に多少なりとも理解があれば、このような事態にはなっていなかったのかもしれません。組織委は、大会スポンサーの一角からすらも批判を浴びていることを真摯に受け止め、自らの行為の意味を正しく理解し、今からでも、週刊文春に対する姿勢をあらためるべきです。ジェンダーバランスやルッキズムが問われ、さらに今また表現の自由を威圧し、しかもその非を認めないまま開催が強行される五輪とは、いったい何でしょうか。

▼北海道新聞社説:4月8日「五輪組織委抗議 表現の自由侵しかねぬ」
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/530782?rct=c_editorial

 恫喝(どうかつ)まがいの手法を取る組織委の姿勢は言論封殺に通じる。週刊文春のみならずメディア全体を萎縮させかねず、ただちに改めなければならない。
 組織委が今回の報道に過剰とも見える反応を示すのは、国際オリンピック委員会(IOC)や放映権を握る米メディアとの関係悪化を懸念するからではないか。
 組織委の橋本聖子会長の姿勢も厳しく問われよう。
 女性蔑視発言で退任した森喜朗氏の後を継いだ橋本氏は就任時、「信頼回復に努める」と述べた。組織委の一連の対応は、かえって国民の不信を招きかねない。
 開会式まで100日余りに迫っている。組織委は五輪の本義に立ち返り、コロナ対策を含め選手本位の姿勢を示すべきだ。

▼京都新聞社説:4月8日「組織委の抗議 五輪報道の自由奪えぬ」
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/543931 

組織委では、森喜朗前会長の女性蔑視発言や五輪エンブレム盗用疑惑など不祥事が後を絶たない。組織体質に厳しい目が向けられていることを認識する必要がある。

 五輪の人件費の「肥大化」を報じた新聞社に、組織委は謝罪と訂正を求めている。
 コロナ禍での聖火リレーや五輪開催の可否をめぐり、さまざまな意見や批判が飛び交っている。
 組織委は独善的にならず、しっかりと受け止めるべきだ。できるだけ情報を公開し、批判に応える姿勢を示してもらいたい。
 報道する側には、国民が疑問に思う事象を取材し、伝えていく責務がある。

▼出版労連声明:4月7日「公的機関による言論妨害、出版・表現の自由の侵害に抗議する」

 オリンピック・パラリンピックが、莫大な税金が投下される公共性の極めて高い催しであることはいうまでもありません。同組織委員会は、国内外から多くの批判を受けた森喜朗会長(当時)の女性蔑視の差別発言による辞任、タレントへの侮辱演出案の存在など、五輪憲章に抵触し、人権を軽視した度重なる不祥事を起こしてきました。同誌の表明するとおり、開会式の概要を取材・検証し公表することが公共の利益と合致することはだれの目にも明らかです。
 組織委員会は、非公開で会議を行うなど、極端に不透明な運営手法をとり、過度な情報コントロールを行ってきたことも報道で明らかとなっています。これらを納税者の前に明らかにする記事は、高い公益性を有していると考えます。さらに組織委員会は、警察と相談しつつ内外の関係者の調査に着手するとしていますが、これは刑事告訴をほのめかし取材活動を萎縮させることを意図した恫喝であり、不都合な事実を隠蔽することでガバナンスの不在を繕おうとしていると思わざるをえません。
 平和の祭典と称されるオリンピック・パラリンピックは、市民の共感と支持がその礎にあってこそのものと考えます。そのためには、運営組織の透明性は不可欠です。報道機関として当然の取材活動の範疇にあり、憲法21条で保障されている出版社として当然の出版活動の範疇にある同記事に対し、著作権法違反や業務妨害などの組織委員会の主張は、公的機関による言論活動の妨害、出版・表現の自由に対する重大な侵害にほかならず、看過できるものではありません。

▼日本マスコミ文化情報労組会議声明:4月8日「五輪組織委による言論妨害、出版・表現の自由の侵害に抗議する」 

 同誌の表明するとおり、開会式の概要を取材し公表することが公共の利益と合致することは明白です。さらに、当該記事は、開会式の内容の決定過程や、その公金支出の在り方を検証し批判しているもので、公益性が高い報道です。内部資料の引用や紹介を含む報道記事について著作権が問われると、権力の監視や市民の「知る権利」に応えるメディアの正当な取材活動が成り立ちません。

 さらに組織委は、営業秘密を不正に開示する者についても、「不正競争防止法違反の罪」及び「業務妨害罪」が成立しうるものであり、所管の警察と相談し、内部調査にも着手する、としています。刑事告訴をほのめかし、取材活動の萎縮を意図した恫喝とも受け取れます。公的機関による報道の自由への侵害や内部告発者や内部告発行為への威嚇とも受け取られ、今後の報道の自由、取材活動に多大な制限と影響を与えかねません。

 オリンピック・パラリンピックは、市民の共感、支持があってこそのものです。その運営組織の透明性は不可欠で、メディアの取材活動の範疇です。言論・出版の自由は憲法 21 条で保障されています。組織委の主張は、公的機関からの言論妨害、出版・表現、報道の自由、取材活動に対する重大な侵害にほかならず、メディアで働く労働者として、看過できません。1963 年に日本雑誌協会が制定した雑誌編集倫理綱領の第一項「雑誌編集者は、完全な言論の自由、表現の自由を有する。この自由は、われわれの基本的権利として強く擁護されなければならない」という立場をいま一度、強く支持し、組織委による同誌への発売中止、回収要求に抗議し、即時撤回を求めます。

▼日本ペンクラブ声明:4月6日「東京2020組織委員会は報道統制をしてはならない~マスメディアの多様な報道を求める」

 [またか!]東京2020組織委員会が、また問題を起こしている。今度は週刊文春が開会式内容を報じたことに対して、販売中止・回収・オンライン記事の削除を求め、さらに毎日新聞が非常識な高額日当を基準に会場運営委託費を算定しているのではないか、と報じたことに抗議し、謝罪・訂正を求めている。国立競技場デザイン変更やエンブレム盗用疑惑から始まり、最近の前会長や辞任した開閉会式演出責任者の差別発言まで、いったいどれだけ醜聞をまき散らすつもりなのか。マスメディアが、多額の税金を投入して開催される〝国家プロジェクト〟の内情を取材・報道し、問題点を指摘するのは当たり前ではないか。

※以下[マジか!][落ち着け!]の段落が続きます

 このブログの以前の記事で紹介した朝日新聞と信濃毎日新聞の社説も、リンクを貼っておきます。

▼朝日新聞社説:4月7日「五輪組織委 市民に顔向けて仕事を」
  https://www.asahi.com/articles/DA3S14862472.html

▼信濃毎日新聞:4月7日「組織委の抗議 報道の自由への威圧だ」
  https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2021040700125

 

※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

news-worker.hatenablog.com

五輪組織委「報道の自由への威圧だ」(信濃毎日新聞)、「市民に顔向けて仕事を」(朝日新聞)~ことは週刊文春だけの問題ではない

 一つ前の記事の続きです。
 週刊文春が東京五輪パラリンピック組織委員会の内部資料を入手して報じた記事に対し、組織委が業務妨害や著作権侵害を主張して、4月1日発売号の回収やネット記事の削除を求めました。一つ前のわたしの記事では、著作権侵害との主張への疑問や、著作権を持ち出すこと自体の威迫効果を組織委が意図しているとの印象を受けることを私見として書きましたが、著作権の問題を離れても、組織委の主張は自由な報道への不当な圧力、威圧と言うほかありません。後述しますが、朝日新聞と信濃毎日新聞がそれぞれ4月7日付の社説でこの問題に触れ、組織委を批判しているのが目に止まりました。ことは週刊文春だけにとどまりません。他メディアが見解を表明するのは重要なことです。
 一般的に、報道に事実誤認があったり、不当に名誉を傷つけるようなケースでは、損害賠償や謝罪広告などで事後に決着を図るのが通例です。出版物の発行差し止めや、一度発行され流通している出版物を回収することは、極めて例外的な措置であり、公共性や公益性もない興味本位の報道で回復不能のダメージをこうむるケースなど、よほどの事情がなければ裁判でも認められるものではありません。
 東京五輪をめぐっては森喜朗・前組織委会長の退任をめぐる一連の出来事の中で、ジェンダー意識をはじめとする組織委自体の問題が鮮明になりました。開会式の演出を巡っても、週刊文春の報道によって、容姿を侮辱するような演出案があったことが明らかにされ、責任者が辞任しています。組織委のありようや、開会式の演出を巡る経緯のあれこれは、五輪大会に多額の公金が支出される以上、公共性、公益性が極めて高く、今やすべて報道に値するテーマです。そうなったのも組織委の体質のゆえです。
 そうであるにもかかわらず、組織委が雑誌の回収やネット記事の削除という、いわば言論・表現活動にとっては「死刑」にも等しい措置を要求するのは、民主主義社会の中で「表現の自由」が特別に重要な市民的権利として持つ重みや意義の理解を欠いているからではないか、と疑わざるを得ません。東京大会を巡るこれまでの経緯を踏まえて考えれば、報道への抗議にとどまらず、回収や記事の削除までを要求すること自体、公共性の高い組織として常軌を逸しており、組織委の体質の新たな問題点が明らかになっている、とわたしは受け止めています。
 組織委は4月1日のうちに公式サイトに見解をアップしています。一部を引用します。
 ※「週刊文春報道について」
 https://tokyo2020.org/ja/news/news-20210401-03-ja

 本大会の開会式の演出内容は、開閉会式の制作に携わる限定された人員のみがこれにアクセスすることが認められた極めて機密性の高い東京2020組織委員会の秘密情報であり、世界中の多くの方に開会式の当日に楽しんでご覧いただくものです。
 開会式の演出内容が事前に公表された場合、たとえそれが企画の検討段階のものであったとしても、開会式演出の価値は大きく毀損されます。加えて、東京2020組織委員会には、様々な代替案を考案するなど、多大な作業、時間及び費用が掛かることになります。このように開閉会式の内容を広く公表しようとする行為については、東京2020組織委員会の秘密情報を意図的に拡散し、東京2020組織委員会の業務を妨害するものであり、株式会社文藝春秋に対しては、書面で厳重に抗議を行うとともに善処を求めました。

 問題が噴出している組織委自身の現状には一言も触れることなく、一方的に被害のみを強調している文面からわたしが感じるのは、「五輪」開催にはだれもが協力しなければならない、そのことへの異論は許さない、との組織委の硬直した意識です。市民的な権利への配慮、さらにいえば民主主義の価値への理解と敬意を欠いているにも等しい、と感じます。コロナ禍の中で先行きに不透明感はぬぐえませんが、仮に東京大会がこのような組織委の下で開催されれば、五輪にとっても日本社会にとっても汚点として記憶されるでしょう。そのことを危惧します。なぜこんな五輪になってしまったのか、悲しく思います。

▽朝日新聞社はスポンサー企業

 組織委の主張に対して、当の週刊文春は4月2日、加藤晃彦編集長名で組織委の要求には応じないとの見解を公表しています。
 ※文集オンライン「『週刊文春』はなぜ五輪組織委員会の『発売中止、回収』要求を拒否するのか――『週刊文春』編集長よりご説明します」
 https://bunshun.jp/articles/-/44589

 ほかのメディアでも、朝日新聞と信濃毎日新聞がそれぞれ4月7日付の社説でこの問題に触れ、組織委を強い調子で批判しています。
 ※朝日新聞「五輪組織委 市民に顔向けて仕事を」
  https://www.asahi.com/articles/DA3S14862472.html

 なかでも驚きあきれたのは、週刊文春が掲載した記事を問題視して、発行元に雑誌の回収やネット記事の削除などを求めたことだ。開会式の演出案を入手してその一部を報じたのは、著作権法違反や業務妨害などにあたると主張している。
 自分たちの内部統制の甘さを棚にあげて、国民の知る権利の制約につながる回収や削除を、公の存在である組織委が迫る。異常と言うほかない。
 著作権法は、報道目的であれば正当な範囲内で著作物を利用することを認めている。そして開会式のあり方に関しては、責任者の度重なる交代に加え、出演者を侮辱するような企画案を前の統括役が示していたことが明らかになり、社会の関心が寄せられている。文春側が要求を拒否したのは当然である。
 組織委の振る舞いの端々にのぞくのは、「五輪のため」といえば誰もがその意向に従うし、また従うべきだという、まさに五輪至上主義の考えだ。
 日本で、世界で、コロナ禍が収まる気配をみせず、五輪を開催する意義そのものが問い直されているときに、とても通用する態度ではない。

 ※信濃毎日新聞「組織委の抗議 報道の自由への威圧だ」
  https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2021040700125

 週刊文春の編集部は、開会式の内情を報じることには高い公共性があり、著作権法違反や業務妨害にはあたらないと反論した。多額の公費を投じる五輪が適切に運営されているか検証するのは報道機関の責務だと述べている。
 もっともな説明だ。組織委が著作権の侵害や業務妨害を持ち出すのはそもそも無理がある。それを承知で抗議したのなら、威圧する意図があるとしか思えない。
 組織委はまた、開会式の演出内容を「極めて機密性の高い秘密情報」だとし、文春が入手した内部資料を直ちに廃棄すること、今後は一切公表しないことも求めた。強硬な姿勢には、秘密の漏えいをことさらに印象づけて報道をけん制する狙いも見え隠れする。
 文春は今回の記事以前から、開閉会式をめぐる組織委内部の事情を報じていた。演出を統括する立場にあった佐々木宏氏は、女性タレントの容姿を侮辱する演出を提案していたことが明るみに出て、辞任に追い込まれている。
 内幕を暴く報道が組織委にとって目障りなのは察しがつく。だとしても、国家的な事業を担う組織の威光をかさに言論を封じることが許されるはずもない。文春だけでなく、ほかの報道機関にも組織委をめぐる報道をためらわせる圧力になりかねない。

 週刊文春の報道に対して、著作権侵害まで持ち出すことへの違和感、疑問については一つ前の記事で詳述した通りです。組織委の抗議にはそのような問題が多々あるのに、その抗議がまかり通るとすれば、ことは週刊文春だけの問題では済まなくなります。組織委や東京大会への批判はタブーとなり、ひいては多額の公金投入へのチェックも及ばなくなる恐れがあります。他のメディアが組織委の抗議には問題があることをきちんと指摘することは、ひいては自分たちの自由な報道を守ることにもつながります。
 朝日新聞が組織委を批判していることには、もう一つの意味があります。朝日新聞社が東京大会の公式スポンサーに名を連ねていることです。日本の新聞社では朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、日経新聞社がオフィシャルパートナー、産経新聞社と北海道新聞社がオフィシャルサポーターです。
 https://tokyo2020.org/ja/organising-committee/marketing/sponsors/
 森喜朗・前組織委会長の女性蔑視発言問題の際には、大会スポンサー企業の批判的スタンスも目につきました。ジェンダー平等への取り組みが、各企業にも問われているからでしょう。組織委に忖度しておとなしくしているのがスポンサーの役目ではない、と考えた企業は少なくないのだな、と感じました。むしろ、資金を提供する立場として積極的に意見を述べることも、本来的なスポンサーの役割と考えていいのかもしれません。
 週刊文春への威迫に対しては、他のマスメディアは今からでも見解を打ち出していいと思いますし、メディア以外のスポンサー企業も社会的に発言していいのではないかと思います。民主主義の根幹にかかわる問題をはらんでいるのですから。

東京五輪組織委が「著作権の侵害」を主張することへの違和感~著作権法は、場合によっては著作者の権利を制限し、公共性の高い情報が社会に流通することを担保しようとしている

 4月1日発売の週刊文春が、「森・菅・小池の五輪開会式“口利きリスト”」とのタイトルの記事を掲載し、この中で週刊文春側が東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の内部資料を入手したとして、その内容を報じていることに対し、組織委員会が文芸春秋に抗議し、掲載誌の回収を求めたと報じられています。
 様々な問題が噴出している東京五輪・パラリンピック大会に対しては多額の公金が投入されており、そのありようは極めて公共性、公益性の高い報道テーマです。仮に資料が組織委内部から持ち出されたとしても、問題がある実態を広く社会に知らせることが動機だとすれば、公益通報とみなすべきでしょう。内部資料の入手が著しく不適切な方法によるものでない限り、その内容を報じることには高い公共性、公益性があり、組織委の抗議や回収の要求は、自由な報道に対する圧力であるのは自明です。「表現の自由」が民主主義社会で格段に重要な点を踏まえれば、業務妨害との主張は当たりません。この点については、多くの識者が論評しており、今さらわたしが触れるまでもありません。

 気になるのは、組織委が著作権の侵害も主張している、と報じられていることです。その主張の全容は必ずしもはっきりしないのですが、内部資料の中にある開会式のプレゼン資料の画像を掲載したことを指しているようにも受け取れます。著作者に無断で複製した、ということでしょうか。近年、漫画の海賊版サイトなどが社会問題になり、著作権やその法改正の動向が注目されるようになっています。「週刊文春が組織委の著作権を侵害している」との主張は、著作権について必ずしも詳しくない一般の人たちに、同誌の報道は何かとてつもない重大な違法行為であるかのようなイメージを抱かせるかもしれません。しかし、著作権の観点から見ても、同誌の報道には問題はないと考えます。
 わたしは勤務先での業務として、著作権にかかわって3年になります。報道機関にとって著作権には二つの側面があります。報道の中で他者の著作物を適正に利用する面と、自らの著作物である記事や写真、動画などを管理し、適正に著作権を行使する面です。わたし自身の実務経験を踏まえて考えると、組織委の「著作権侵害」との主張には大きな違和感があります。著作権の法体系の中から自己に都合のいい部分をことさらに強調しようとしているに過ぎず、説得力を欠いているように思います。マスメディアの内部にいる一人として、著作権の正しい理解が社会に広がることを願う気持ちもありますので、以下に私見を書きとめておきます。
 ※以下に記す内容はわたし個人の見解であって、いかなる意味でも特定の企業や団体等の見解を代弁するものではありません

 ▽著作権は財産権~組織委はどんな損害を受けたのか
 マスメディアである週刊文春が報道として、大会組織委の内部資料を報じる、その資料の中の画像を雑誌やウェブサイトに掲載する、という行為を著作権の観点から考えるなら、大まかには以下の2点がポイントになります。①組織委の内部資料、あるいはそこに含まれる画像は組織委の著作物なのか②それらが著作物だとしたら、法的にどういう保護が保障されるのか―です。
 まず著作物の定義です。著作権法2条は「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」と定義しています。あくまでも人間によって文字やビジュアル、音楽などで表現されたものが対象です。「表現」にまで達していないアイデアは著作物に該当しない、というのが通説です。
 次に、著作物にはどのような保護が与えられるのか、です。言い方を換えれば、著作権とはどういう権利か、ということです。著作権とは、著作者が持つ様々な権利の総称です。自己の著作物に対して「勝手に~されない権利」ととらえれば、分かりやすいのではないでしょうか。例えば、著作物を勝手に複製されない権利(複製権)、勝手に出版されない権利(出版権)、不特定多数の人に勝手に送信されない権利(公衆送信権)など、多岐に渡ります。そして著作権は財産権です。著作者に対価を支払って、複製したり、出版したりすることもありますし、他人に譲渡することもできます。
 以上を元に、組織委の内部資料について考えてみます。大会の開会式案が画像や文字で表現されているので、確かに著作物に当たるかもしれません。しかも一般には未公表ですので、週刊文春がこれを入手して記事で紹介し、画像も掲載した行為は、著作物を著作者である組織委に無断で公表した、と言える余地があるかもしれません(この無断で公表されない権利である「公表権」は、著作権の中でも財産権とは別の著作者人格権に属します)。
 しかし、そうだとしても極めて形式的なことで、実態を踏まえた文脈でとらえてみると、著作権侵害としての違法性、悪質性はほとんど問題にならないほどに軽微なのではないかと感じます。まず、組織委の内部資料の性格です。本当の意味での著作物は、五輪大会の開会式イベントそのものです。著作物としての「表現」は実演です。内部資料は実演前の、いわばアイデア段階です。一応は表現物の形を取っていますので、著作物と言えばそうかもしれませんが、著作物として保護されることに本当に意味があるのは、式典の実演、パフォーマンスそれ自体です。式典の様子を勝手にテレビ中継したり、勝手にDVDに収めて販売したりできないのはそういう事情からです。
 また、内部資料はその性質上、組織委員会は一般に公表することは予定していないはずです。著作権が財産権として意味を持つのは、社会の中で知られ、意義を認められた場合です。理屈の上では、公表予定のない著作物の権利を売買することも可能かもしれませんが、そういう事例はあったとしても極めて例外的でしょう。内部資料を盗み出したなどとして批判するならともかく、公表を予定していないものに対して、著作権侵害を主張して批判することには強い違和感があります。週刊文春の報道による著作権侵害で、組織委は実体としてどのような経済的損害を受けたというのでしょうか。
 ここまでをまとめると、五輪大会開会式のイベント案についての組織委の内部資料は、それがアイデアにとどまるとすれば著作物に該当するのかすら議論の余地があるように思います。仮に著作物だとしても、内部資料それ自体はそもそも公表を予定していないのですから、報道によって一般に知られることになったとしても、組織委には著作権にかかわる経済的な損害はないはずです。さらに言えば、組織委は画像の掲載を著作権の侵害として問題視しているようですが、掲載された画像は280ページに上るという内部資料を構成するごく一部分でしょう。組織委の主張の文脈に沿って考えても、組織委の損害は極めて軽微なはずです。

 ▽著作権法が想定している報道の公共性、公益性
 さらに指摘しておきたいことがあります。著作権は著作者が持つ固有の強い権利ですが、著作権法にはその権利が制限されるケースが規定されていることです。著作物であればすべて著作者の許諾がなければ何も利用できない、というわけではないのです。
 例えば引用です。よく知られているようでいて、実は誤解も多いのですが、公表された著作物は、一定の要件を満たして正しく引用するならば著作者の許諾は不要です。

著作権法第32条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
 ※第2項略

 文化庁のサイトによると、引用における注意事項として以下の記述があります。

 他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。
 (1)他人の著作物を引用する必然性があること。
 (2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
 (3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
 (4)出所の明示がなされていること。(第48条)
 (参照:最判昭和55年3月28日 「パロディー事件」)

 ※文化庁「著作物が自由に使える場合」
https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html

 さらには、著作権法には「時事の事件の報道のための利用」という規定もあります。

 第41条 写真、映画、放送その他の方法によつて時事の事件を報道する場合には、当該事件を構成し、又は当該事件の過程において見られ、若しくは聞かれる著作物は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴つて利用することができる。

 ここでいう「時事の事件」とは狭義の「事件事故」に限りません。東京五輪を巡って開会式の演出にも問題が噴出していることも時事の事件と考えていいと思います。組織委の内部資料が著作物だとすれば、その内部資料の内容を報じる週刊文春の記事が、この条文の対象に該当する可能性は極めて高いと思います。「報道の目的上正当な範囲内」の制限についても、内部資料のすべてを掲載しているわけではないこと、記事によって組織委が受ける経済的損害(あくまでも著作権とのかかわりにおいての損害です)はないか、あっても極めて軽微であると考え得ることなどからも、問題にはならないと思います。
 組織委の内部資料は「公表された著作物」には当たらないため、引用などこれらの規定がそのまま当てはまるかどうかは、なお検討が必要かもしれません。それでも、著作権法にとりわけ41条の「時事の事件の報道のための利用」のような規定が用意されていることは、場合によっては著作者の権利を制限することで、公共性、公益性の高い情報が社会に流通することを担保しようとしているものだと、わたしは受け止めています。

 そもそもなぜ著作権によって著作物が保護されるのかと言えば、人間のクリエイティブな活動の成果がもたらす経済的な利益をその作者に還元させるためです。そうすることによって、次のクリエイティブな活動につながります。著作権侵害を理由に挙げて、週刊文春を批判し回収を求めている組織委は、こうした著作権の理念や法体系に対する理解があまりにも浅いように思います。ひいては、著作権に対する誤った受け止めが社会に広がることになりはすまいか、危惧しています。

見直すべきは、すり寄り型の取材そのもの~検事長麻雀事件が問うもの

 産経新聞記者や朝日新聞社社員との賭け麻雀が発覚し辞職した黒川弘務・元東京高検検事長に対し、東京地検は3月18日、賭博罪で略式起訴しました。東京簡裁は30日になって罰金20万円の略式命令を出しました。その日のうちに命令が出ることもある略式手続きの罰金刑としては、ずいぶんと時間をかけたな、というのが率直な感想です。黒川元検事長に対しては、検察は当初起訴猶予としましたが、検察審査会が「起訴相当」と議決した経緯があります。簡裁は必要と判断すれば正式裁判を開くことも可能でした。市民感情に照らして、正式裁判にしなくていいのか、簡裁の裁判官もいろいろ考えたのかもしれません。
 罰金20万円は相対的には軽微な罪と言えますが、捜査当局の関係者が行う賭け麻雀は犯罪として処罰に値することが明確になりました。マスメディアの取材の観点からは、記者が深く取材対象者に食い込んだ例として評価する意見も目にしましたが、今後は取材対象者との関係で、少なくとも賭け麻雀は社会通念に照らして容認されない、ということになるのだと思います。
 では、取材対象者、中でも公権力の情報をふんだんに持っている幹部クラスの当局者に対して、記者はどんな間合いで対すればいいのでしょうか。社会にとって有益な情報を入手し、それを社会に届けるためであれば、情報入手の手段は原則的にはあらゆるものを排除すべきではない、との意見も、マスメディアの関係者やジャーナリズム研究者の間では強いように感じます。そうした意見を全て否定するつもりはありませんが、わたしはこの検事長麻雀問題には、これまでマスメディアの世界で半ば自明の共通認識、常識のように思われていたことを疑う必要がある、そうでなければマスメディアの記者という仕事はもはや続かないだろうというほどの、軽視できない問題が内在しているように思います。

 麻雀事件でマスメディアが再考すべきは、圧倒的に豊富な情報を手にする権力者に対して、記者、取材者がすり寄るように近付き、密室の中で情報を得ようとする構図だと、わたしはとらえています。少し前の財務次官による民放女性記者に対するセクハラ事件で明らかになったように、そうした権力者取材は立場が対等ではなく圧倒的に権力者側が強いために、ハラスメントを生み出す余地が生じます。情報を得るために、当局者と1対1で会うことができる、それだけの関係を作るための例えば「夜回り・朝駆け」といったことを、マスメディアの多くの記者、デスク、編集幹部が「当たり前」と考えてきました。しかし、実はそうした構造的な問題があるとわたしは考えるに至っています。
 もう一つ、報道の現場は長らくジェンダーバランスを欠いたままでした。女性記者は数の上では増えていても、長年の取材上の習慣が「ボーイズ・クラブ」のままで変わっていない、という場面はそこかしこにあるようです。圧倒的な情報を持つ権力者を囲んで男ばかり4人で賭け麻雀に興じる光景は、すり寄り型の取材の延長線上にあるものであり、同時にジェンダーバランスを欠いたままの取材現場をリアルに映し出したものではないかと感じます。圧倒的な情報を持っていることを背景に、取材者に対して強い立場にある権力当局者に対しては、従来のすり寄り型の取材の発想そのものを見直す必要があるように思います。


 社員が元検事長と麻雀卓を囲んでいた朝日新聞社は、たまたまなのか、元検事長が略式起訴されたタイミングで、記者行動基準の見直し結果を公表しました。

※朝日新聞デジタル「朝日新聞社、記者行動基準を改定 賭けマージャン問題」=2021年3月18日
 https://www.asahi.com/articles/ASP3L4CT2P3LULZU005.html
※記者行動基準 https://public.potaufeu.asahi.com/company/img/annnai/%E8%A8%98%E8%80%85%E8%A1%8C%E5%8B%95%E5%9F%BA%E6%BA%96.pdf

 記事によれば①「取材先と一体化することがあってはならず、常に批判精神を忘れてはいけない」と明記②「取材先の信頼を得ることは必要」としたうえで、読者から記者の「中立性」や報道の「公正さ」に疑念を持たれることがあってはならないと掲げた③「どういう取材のもとに得られた情報か、読者に説明できるように努めなければいけない」と補った④「安易なオフレコを前提とした取材は、国民の知る権利を制約する結果を招くことを自覚する」などと記した―といった点のようです。
 いずれも当たり前のことばかり。「当たり前のことをあらためて確認するのが大事」ということかもしれません。しかし、当たり前のことをあらためて強調しておけば、再発防止策としては十分でしょうか。
 当の朝日新聞が昨秋の新聞週間に合わせて掲載した企画記事で、東大大学院教授の林香里さんが朝日新聞社の編集担当役員との対談の中で「マスコミに近い人ほど『しょうがない』『これも一つの取材方法だ』と理解を示して優しくなる。マージャンまでしないと取れない情報があるというのがわからない」と指摘していました。それが社会一般の感覚です。しかし取材対象者に食い込む、信頼を得ることは、記者の仕事の世界では「当たり前」です。さすがに賭け麻雀は朝日新聞社、産経新聞社とも容認しない姿勢を打ち出しましたが、逆に言えば、違法行為でなければどんな付き合いでもいいのか。例えば、取材対象者が温泉好きなら、一緒にふろに入って背中を流すことはOKなのか。線引きは難しくなります。

 ※朝日新聞デジタル「朝日新聞、役割果たせていますか 新聞週間2020」=2020年10月14日

https://www.asahi.com/articles/DA3S14656998.html

 朝日新聞社の記者行動基準の見直しの出来、不出来を言うつもりはありません。圧倒的に豊富な情報を手にする権力者に対して、取材者がすり寄るように近付き、密室の中で情報を得ようとする構図を「当たり前」ととらえる感覚は、今や社会一般の感覚と大きな乖離があることをまず自覚しないと、文章をいじってどうにかなる問題ではないだろうと思います。
 マスメディアの編集幹部、経営幹部が、これまでの「当たり前」をなかなか疑うことができないのは無理もありません。その「当たり前」の働き方の中で、新聞社内の人事上、高い評価を受けて地位を得てきたのですから。しかし、東京五輪組織委員会の森喜朗前会長が、あるいは、つい最近の出来事では、開会式の式典企画の責任者だったCM界の重鎮が、それぞれ辞任せざるを得なくなったように、日本の社会の一般的な意識、常識も大きく変わりつつあります。
 社会との乖離をなくしていく方向に進むことができなければ、マスメディアの組織ジャーナリズムは持続できないでしょう。やりがいのある仕事であり、働きやすい職場でなければ、そこで働き続けよう、という気にはなりません。新聞社・通信社では20代、30代の社員の中途退社が続いています。ジャーナリズムに意欲を持って入ってきた若い人材が、ほどなく次々に去っていく。その要因は何なのか。真剣に考えなければならないと思います。

「被買収」の地元政治家が再び選挙運動に加わる~河井選挙違反事件、検察の不作為が民主主義を危うくしないか

 2019年7月の参院選広島選挙区で地元議員や首長ら計100人に計約2900万円を渡したとして、公選法違反罪で起訴された河井克行元法相が3月23日、東京地裁の公判で、それまでの無罪主張から一転して起訴事実を認めるとともに、衆院議員を辞職することを表明しました。有罪が確定し参院議員を失職した妻の案里氏との共謀は否定したとのことですが、唐突感は否めません。マスメディアの報道では、妻の有罪確定で自身も無罪は厳しいと判断し、実刑を免れるために方針を転換したのでは、といった見方が紹介されています。
 元法相が何を考えているのかはともかく、河井夫婦の公判は2人とも有罪でひとまず落ち着くことになりました。しかし、事件の全体像はいまだ分かっていません。特に、自民党本部から河井夫妻側に渡っていた1億5千万円の資金の使途は明らかになっていません。元法相の議員辞職に対して自民党の二階俊博幹事長が「他山の石にしないといけない」と発言しましたが、何を言っているのか。事件の全体像を俯瞰すれば、当時の安倍晋三首相(党総裁)や菅義偉官房長官(現党総裁、現首相)、二階幹事長自身も案里氏を推す中で行われていた買収であり、自民党という大きな背景があっての買収事件です。河井夫婦が公の場での説明から逃げ続けていること、自民党が他人ごとのように振る舞わっていることは、到底許されるものではありません。
 この事件ではもう一点、大きな問題が残っています。河井夫妻から現金を受け取った「被買収」の側が、いつまでも起訴されずにいることです。「買収」という犯罪は、買収する側とされる側の両方があって成り立ちます。一般の感覚では、金を受け取った地元議員や首長らも起訴されて然るべき、ではないでしょうか。また、検察が不起訴処分にもしていないために、市民が再捜査を求めて検察審査会に申し立てることもできない状態です。
 「被買収」側を起訴しないこと、それ自体もさることながら、それによって、さらに日本の民主主義の根幹にかかわる大きな問題が生じています。4月に行われる参院広島選挙区の再選挙で、「被買収」の議員らが選挙活動を行えることです。公選法違反に問われて有罪、公民権停止なら選挙活動はできません。選挙違反の当事者には当然のペナルティです。案里氏の有罪が確定し、夫の元法相も罪を認めるに至ったのに、「被買収」の地元政治家には何らペナルティがなく、選挙運動に加わるとすれば、民主主義を危うくする事態です。
 河井元法相が罪を認めた3月23日の朝、広島の市民団体「河井疑惑をただす会」のメンバーの方が、東京地裁前で事件の徹底解明を求めて宣伝行動を行いました。「ただす会」は公選法違反容疑を広島地検に告発し、検察を本格捜査へ突き動かした市民の集まりです。東京地裁前で配布したビラには「被買収者は選挙運動に関わる立場にない」との見出しも載っています。「被買収」の地元政治家が起訴されないことの問題点が分かりやすく記載されていると思いますので、一部を引用して紹介します。 

 検察庁は案里元議員の有罪確定(河井案里:懲役1年4月執行猶予5年、公民権停止5年)をしたにもかかわらず、案里元議員から現金を受け取ったことを認めた奥原信也県議(50万円)、下原康充県議(50万円)、平本徹県議(30万円)、岡崎哲夫県議(30万円)の4人をいまだ起訴していません。起訴しなかったら案里元議員の罪は成立しません。克行議員から現金を受け取ったと認めた首長・議員も起訴されていません。本来なら当然公選法違反で起訴され、公民権停止、つまり一定期間選挙権もないし、選挙運動を行えない立場、被買収者は同罪です。

 再選挙は、買収はもちろん公正でクリーンな選挙が行われなければなりません。自民党は大買収事件の大元になった1億5000万円について説明責任を果たさず、謝罪もしていません。河井事件がきっかけで贈賄が発覚し辞職した北海道2区は候補擁立を見送りました。自民党に候補をたてる資格はありません。
 2月28日、自民党の公認として立候補を表明した西田英範氏の選対本部の立ち上げの会合に、これらの被買収議員が多数参加していたと報じられています。絶対に許されないことです。

 「被買収」側が起訴されていないことは、こうした重大な問題をはらんでいます。しかし24日付の全国紙各紙を始め、東京ではマスメディアの報道ではこの点への言及を目にしませんでした。検察の不作為によって日本の民主主義がゆがめられる恐れがあるとすれば、そのことを報じるのはマスメディアの当然の責務です。繰り返し、指摘していい問題だと思います。政権与党である自民党ぐるみの背景構図があることに照らせば、地域限定のローカルの問題でないことは自明です。

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旧国鉄185系、新幹線リレー号の思い出

 3月13日のJR各社のダイヤ改正を前に、12日は各地で引退車両のニュースがありました。その中の一つに、旧国鉄時代の1981年にデビューしたJR東日本185系電車の定期運行からの引退がありました。
 東京~伊豆急下田・修善寺を走る特急「踊り子」のイメージが強く、12日のラストランのニュースも「踊り子」としての運行がメインでしたが、わたしにはこの電車にはもう一つ別の感慨があります。
 通信社に入社して記者になり初任地の青森に赴任したのは1983年5月。前年に東北新幹線は大宮~盛岡間が開業していました。上野~大宮はまだ工事中。上野~東京は工事も始まっていなかったかもしれません。その開業当初、上野から大宮まで、新幹線リレー号として走っていたのがこの185系でした。
 上野からリレー号に乗り、大宮で新幹線「やまびこ」、盛岡で在来線の特急「はつかり」にそれぞれ乗り換え、青森までは約7時間でした。それ以前は、上野~青森が特急で9時間。先輩たちからは「新幹線赴任の第1号か」と変な感心のされ方をしました。
 当時は青森から函館へ青函連絡船が運航されていました。上野から長旅を終えて青森駅に着くと、北海道に向かう乗客は長いホームの先にある桟橋へと向かいます。石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」がヒットしたのは1977年のこと。新幹線開業後も、青森駅にはまだ歌のままの情景がありました。わたしはホームを桟橋とは反対側の出口に向かって歩きながら、連絡船に貨車を積み込む入れ替え作業を眺めるのが好きでした。
 あの春から間もなく38年。わたしは昨年秋に勤務先を定年となりました。後を追うように185系も現役引退。ともに今は予備戦力です。

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※2016年1月、品川駅で撮影

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(続)「大震災10年」なのか「発生から10年」なのか~「復興五輪」に触れなかった菅首相

 前回の記事(あの日のこと~「東日本大震災10年」なのか「発生から10年」なのか)の続きです。
 3月12日付の東京発行の新聞各紙朝刊(朝日、毎日、読売、日経、産経、東京)は、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から10年を迎えた前日3月11日の各地の表情や、慰霊行事の模様を伝えました。

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 事実関係を中心にした「本記」と呼ぶ各紙の記事のうち、リード部分を書きとめておきます。

▼朝日新聞
「10年 終わらぬ思い 願い」

 日本社会を揺さぶった東日本大震災から11日、10年がたった。関連死を含め死者・行方不明者は2万2192人。東京電力福島第一原発の廃炉作業は遅れ、4万1241人がいまも避難生活を送る。地震のあった午後2時46分、全国で犠牲者への追悼の祈りが捧げられた。

▼毎日新聞
「祈り 教訓 次代へ」

 東日本大震災の発生から10年を迎えた11日。各地で追悼行事が行われ、犠牲者を悼んで祈る人々の姿があった。新型コロナウイルスの流行という新しい日常の中、震災を風化させることなく、教訓をどう次代に伝えるのか。被災地のみならず、日本全体が「あの日」に思いをはせた。

▼読売新聞
「『あの時』刻み生きる」

 2万2200人もの死者・行方不明者を出した東日本大震災から11日で10年となった。今も4万1241人が避難生活を送り、東京電力福島第一原発事故が起きた福島は、避難指示が解除されない地域がある。この日、全国で追悼式が開かれ、政府主催の追悼式で、天皇陛下は「被災した人々に末永く寄り添っていくことが大切」と述べられた。被災者らは亡き人や歩んできた歳月に思いをはせ、復興の願いを新たにした。

▼日経新聞
「天皇陛下『皆で寄り添う』」

 東日本大震災から10年となった11日、各地で追悼行事が営まれた。参列者らは地震発生時刻の午後2時46分に黙とう。鎮魂の祈りをささげ風化の防止を誓った。

▼産経新聞
「10年 祈り深く」

 死者、行方不明者、震災関連死を合わせると約2万2千人に上る戦後最大の災害となった東日本大震災は、11日で発生から10年が経過した。4万人以上が今も避難生活を送っている。被災者らは癒えない悲しみを抱きながら、犠牲となった大切な人を思い浮かべ、地震が発生した午後2時46分には各地で鎮魂の祈りがささげられた。

▼東京新聞
「陛下『誰一人取り残されることなく』」

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から十年となった十一日、東京都内や被災地で追悼式が開かれた。「風化させない」「強く生きていく」。遺族らは発生時刻の午後二時四十六分に黙とう。鎮魂の祈りが各地で広がった。震災関連死を含む死者、行方不明者は計約二万二千人。今も四万人以上が避難し、多くの被災自治体が人口減少にあえいでいる。再生への歩みはこれからも続く。

 政府主催の追悼式典は今年が最後になる可能性があるようです。大震災からの復興と原発事故の収束はいまだ終わりが見えず、「10年」は発生から10年がたった、というだけの意味しかありません。被災者と被災地にとっては、時間の区切りに本質的な意味はないことを、新聞各紙の現地からのリポートからもひしひしと感じます。しかし政府にとって「10年」は「もうそろそろいいだろう」との節目なのでしょうか。
 追悼式典の式辞で菅義偉首相は「復興五輪」に触れませんでした。昨年は安倍晋三前首相が献花式で言及していたとのこと。朝日新聞デジタルの記事で知りました。その理由を加藤勝信官房長官は記者会見で問われて明言できなかったと、記事は伝えています。
 ※朝日新聞デジタル「官房長官しどろもどろ 式辞から『復興五輪』なぜ消えた」
https://www.asahi.com/articles/ASP3C635WP3CUTFK01M.html

www.asahi.com

 加藤氏は会見で「政府の立場に変わりはないのか」と問われ、「復興オリンピック・パラリンピックは閣議決定された基本方針に位置づけられており、最も重要なテーマの一つであることは何ら変わりない」と述べた。
 ただ、なぜ「復興五輪」という言葉がなくなったかについては、「これは毎年の言葉を、なども踏まえつつ、作成されているものと承知をしておりまして、政府として、今後も、えー、しているものであり、ですね……」と5秒近く沈黙。「まさにそれに尽きるということであります」と続け、理由を説明することはなかった。

 首相官邸のホームページで会見の動画を見てみました(14分38秒あたりから、このやりとりがあります)。「しどろもどろ」というほどではないにせよ、とっさの指摘にうまく答えられず、建前を並べただけだったことが分かります。質問者は東京新聞の記者でした。菅首相がこの日に「復興五輪」に触れなかったことは、重要な指摘だと思います。

www.kantei.go.jp

www.kantei.go.jp

 五輪誘致に際して、安倍前首相は福島第1原発を「アンダーコントロール」と言い切りました。しかし敷地内にたまり続ける処理水の最終処分方法はいまだ決まっていません。廃炉に至っては、一体いつのことになるのか。五輪誘致の大義として掲げていた「復興五輪」は、今は首相が口にすることもない。代わって昨年から強調されているのは「新型コロナウイルスに人類が打ち勝った証しとしての東京五輪」です。被災地、被災者不在の五輪強行であり、政治利用という意味では、国民不在の五輪強行です。
 そんな五輪に巨額の公金が支出されます。そのことを考えるとき、日本社会の全ての人々に当事者性がある、ということに気付きます。さらに誘致の大義が「復興」だったことを考えれば、その当事者性は「被災地の今と今後」にも及ぶことに思い至ります。
 これから夏に向かって五輪開催を巡る報道が増えていきますが、マスメディアはこの「復興五輪」にこだわり続けなければならないと思います。10年目の「3・11」は決して節目などではありません。 

あの日のこと~「東日本大震災10年」なのか「発生から10年」なのか

 東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所事故は3月11日、発生から10年がたちました。だれもが、あの日のことは鮮明に覚えているのではないでしょうか。

 わたしは勤務先の通信社の人事異動で、東京の本社から大阪支社に整理部長として着任して10日ほどでした。新聞社の整理部は記事に見出しを付け紙面を組み上げる、いわば新聞制作の心臓部ですが、通信社は自前の紙面を持ちません。出稿部門が事前に上げてくるその日の出稿メニューを点検し、記事をチェックして配信にゴーサインを出すセクションです。勤務先の通信社の大阪支社は、全国紙の大阪本社とほぼ重なり合うエリア、近畿、中国、四国を担当します。わたしはその整理部門、記事配信の責任者でした。
 その日、遅めの出前の昼食を済ませ、午後3時から東京本社とオンラインで行われる編集会議に備えて、支社からの出稿予定を再度、点検していました。午後2時46分、最初に異変を告げたのは、付けっぱなしにしていたテレビのNHKだったように思います。東北で強い地震との速報が流れました。あるいは、その後何度も目にし、耳にすることになる緊急地震速報だったかもしれませんが、記憶がはっきりしません。支社内が騒然とする中で、大きな揺れが来ました。ゆっくりと、横揺れにゆっさゆっさと揺れたのを覚えています。編集会議は中止。仙台支社や東京本社からの速報の音声がけたたましく流れる中で、やがてNHKが映し始めた津波の様子を、息を呑んで見つめていました。

 大震災取材の初動の期間、大阪支社の主な役割は後方支援でした。支社や管内の支局から応援の記者が東北の現地に向かいました。現地から戻った記者も、次の現地入りに備えていました。大阪支社の整理部では、本社の整理部門の負担を減らすため、ふだんは本社が行っている記事配信業務の一部を引き受けていました。来る日も来る日もわたしは大阪にいて、自分の持ち場で自分の仕事に取り組んでいました。福島第1原発の原子炉建屋が爆発する映像は、傍らのテレビで目にしました。
 正直に言えば、マスメディアに身を置きながら、この未曽有の大災害の取材と報道に加わっているとの実感は持てませんでした。ジャーナリズムを仕事にしながら、被災地や被災者の支援に連なることができていないように感じ、そのことに負い目、引け目のような感情を覚えたこともありました。しかし組織ジャーナリズムとはそういうものです。だれもが最前線で取材するわけではありません。むしろ、最前線の取材を支える態勢が整っていなければ、取材活動にしても記事や写真の出稿にしても、続くものではありません。社会に届かなければ、取材も報道も意味はありません。

 その後、大阪支社で3年間を過ごした後、東京本社に戻って記事審査を担当しました。出稿のメニューは十分だったか、足りない要素はなかったか、同じテーマの他社の記事と比べて見劣りはなかったか、などを毎日点検します。そうやって、次の取材に教訓を生かせれば報道の質は上がります。大震災と原発事故の発生当初、現場から離れた場所にいたことは、この記事審査の仕事には役に立つことがあったように思います。被災地から離れた場所にいて、何か自分にできる復興の支援はないかと思いながら、報道を見ている人たちがいます。そうした人たちの目線に立つことができるように思いました。

 東京発行の新聞各紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日経新聞、産経新聞、東京新聞)は3月11日付朝刊で、いずれも多くの関連記事を載せました。以下に、各紙の1面トップ記事のリード部分を書きとめておきます。被災地の復興はいまだならず、福島第1原発の廃炉は一体どれだけの時間がかかるか分かりません。10年目の当日の朝、その現状をどんな風にとらえ伝えようとしたのか、各紙なりの違いが読み取れるのではないかと思います。
 注目していたのは書き出しです。「東日本大震災から10年」なのか「東日本大震災の発生から10年」なのか。この未曽有の災害はいまだ続いています。被災者と被災地のことを忘れないためには、どんな表現がいいのか。細かいようですが、そんなことも考えています。
 最後になりましたが、犠牲になった方々に、あらためて哀悼の意を表します。

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▼朝日新聞
「東日本大震災10年」

 死者・行方不明者、関連死を含め2万2192人が犠牲になった東日本大震災から、11日で10年を迎える。避難生活を送る人はなお4万人を超え、福島県では帰還困難区域の大半で解除の見通しが立たない。被災地は、インフラ整備が終わった後、持続可能な地域社会をどうつくるのかという課題と向き合いつつある。

▼毎日新聞
「10年 戻らぬ暮らし」

 死者・行方不明者2万2200人に上る戦後最大の自然災害となった東日本大震災は11日、10年の節目を迎えた。津波に襲われた岩手、宮城両県の沿岸部には災害に強い新たなまちが生まれた。福島県では東京電力福島第1原発事故による避難指示の解除が進んだが、帰還できない土地が残る。

▼読売新聞
「津波被災地インフラ膨張」

 2万2000人を超す死者・行方不明者を出した東日本大震災から11日で10年となる。津波で被災した岩手、宮城、福島3県で行われた高台への集団移転は計約1万2500戸が対象となる大事業となった。しかし、宅地開発に伴って、インフラの新設を余儀なくされ、上下水道と道路の維持管理費は震災前より年間131億円(50%)増えた。人口減少が続く被災地では、費用の捻出が課題となる。

▼日経新聞
「被災地 自律回復探る」

 東日本大震災の発生から11日で丸10年となった。道路や住宅など生活インフラの整備はおおむね完了し、政府による大規模な公共投資は一段落する。この先は原子力発電所事故に見舞われた福島の再生、雇用を増やす企業の振興などが課題となる。新型コロナウイルス感染拡大の影響も残る中、被災地経済は自律的な回復を探る段階に入る。

▼産経新聞
「あなたに、伝えたい」

 東日本大震災は11日、発生から10年を迎えた。津波による大きな被害があった岩手、宮城、福島3県を中心に死者、行方不明、震災関連死は計約2万2千人に上る。新型コロナウイルスの影響で昨年は開催が見送られた政府の追悼式は11日、東京都内で行われ、被災地でも発生時刻の午後2時46分に合わせ、鎮魂の祈りが捧げられる。

▼東京新聞
「悲しみの水脈から森を育てる」

 二〇一一年三月十一日の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から十年。こういう時に「節目」という言葉が使われることがある。一区切りという意味が含まれる。連載「ふくしまの10年」で福島の人々の取材を続けてきて「区切り」はついていないと感じる。

 

東京大空襲から76年、在京紙の報道の記録

 第二次世界大戦の末期、1945年3月10日未明に東京の下町、現在の江東区から墨田区にかけての一帯は米軍のB29爆撃機の大編隊の空襲を受け、一夜にして10万人を超える住民が犠牲になりました。「東京大空襲」です。以後、日本中の都市が次々に空襲で焦土と化し、沖縄戦や広島、長崎への原爆投下を経て、8月に日本は無条件降伏しました。もしも、この東京大空襲の前に戦争が終結していれば、その後のおびただしい住民の犠牲は避けることができていたかもしれません。76年たった今年、そんなことを考えながら、この日を迎え、過ごしました。
 東京の戦争被害の体験を風化させないために、東京発行の新聞各紙は例年、この日の紙面には関連の記事を載せています。ことしは、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の発生から10年を翌日に控えて、その関連記事が紙面で大きな扱いを占めましたが、それでも各紙各様に東京大空襲の関連記事も載せました。
 読売新聞と東京新聞は10日夕刊で、墨田区の東京都慰霊堂で開かれた慰霊祭の模様を伝えています。それによると、新型コロナウイルス対策として、昨年に引き続き規模が縮小され、一般の参列は取りやめになりました。
 以下に、各紙の記事の扱いと主な見出しを書きとめておきます。

【10日付朝刊】
▼毎日新聞
都内版「王貞治さんが逃げた道/同行の姉『もう二度と』/墨田の資料館 初展示」
▼読売新聞
1面コラム・編集手帳 ※「東京大空襲60年 母の記録」(岩波ブックレット)森川寿美子さんの逸話
▼産経新聞
1面・朝晴れエッセー「守られた命を大切に」 ※東京都世田谷区の78歳の読者
都内版「生きた証し 伝え続ける/慰霊大法要 遺族代表 石坂健治さん(71)」/「王さん 家族と逃げた道/墨田で企画展 姉への聞き取りで判明」
▼東京新聞
1面トップ「321人の証言 埋もれ20年/都、祈念館凍結で映像放置/東京大空襲 きょう76年」
26面(最終面)「被災の実態 地図で迫る/墨田区の石破氏学芸員 独自の地図を作成」/T発「あの日の記憶」「今も目に焼き付く炎」植木成さん(89)/「一夜で孤児になった」大塚祐司さん(86)
社説「究極の判断迫らぬ世に 3・11から10年」/「生の声」を残したい/美談にしてはいけない/命守る行政を最優先に

【10日夕刊】
▼朝日新聞
社会面「戦災孤児の海老名さんへ 米大使からの便り/東京大空襲の犠牲者 悼む集いに『感謝』」
▼読売新聞
1面コラム・よみうり寸評 ※外交評論家・清沢洌「暗黒日記」の逸話
社会面「『戦禍 風化させぬ』/東京大空襲76年 追悼法要」
▼日経新聞
社会面「『吹雪みたいにトタン飛来』『隅田川の桜並木 遺体並ぶ』/体験者と若者ら ネットでつながる」
▼東京新聞
社会面トップ「世界の王さん 命つないだ道/共に逃げた姉『戦争もう二度と…』/墨田で避難経路展示」/「追悼する機会 Thank you/慰霊続ける海老名さんに米臨時大使が手紙」/「祈り静かに/法要、コロナで縮小」

 朝刊、夕刊ともに東京新聞の大きな扱いが目立ちました。中でも、社説(中日新聞と共通)で、東京大空襲と福島原発事故とを取り上げていることが目を引きました。

 ※東京新聞・中日新聞:社説「究極の判断迫らぬ世に 3・11から10年」/「生の声」を残したい/美談にしてはいけない/命守る行政を最優先に
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/90604?rct=editorial

 戦争を引き起こすのは人間です。原発事故も、自然への畏怖の念を忘れた人間のおごりが生んだものだとすれば、両者の間には通底するものがあります。ともに教訓を忘れることなく、語り継いでいくことが必要です。

空襲の惨禍からよみがえった川崎大師「奇跡の銀杏」

 先日、神奈川県川崎市の川崎大師(真言宗智山派大本山平間寺=へいげんじ)を訪ねました。東京・品川から京浜急行線の特急に乗れば、15分ほどで京急川崎駅に。大師線に乗り換えて三つ目の「川崎大師」駅から徒歩で10分足らずです。初詣でには大勢の参拝客が訪れる東京近辺でも有数の大寺院。厄除け祈願で有名ですが、「霊木『奇跡の銀杏』」と呼ばれるイチョウの木があることはほとんど知られていないようで、ウィキペディア「平間寺」にも記述はありません。
 大きな山門をくぐって正面の大本堂に向かう途中の左手に経蔵があります。そのすぐそばにこのイチョウの木は立っています。案内板には以下のように書かれています。

 この銀杏は第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でもその痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒のご支援により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈願ください。

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 第二次大戦では、1944年に米軍が対日戦に長距離爆撃機B29を投入して以後、日本本土への空襲が本格化しました。45年3月10日未明、東京の下町一帯がB29の大編隊による焼夷弾攻撃で焦土と化し、一晩で10万人を超える住民が犠牲になった「東京大空襲」を皮切りに、全国の主要都市が次々に、軍事施設と住宅地とを問わない無差別攻撃を受け、焼かれていきました。
 総務省ホームページの「国内各都市の戦災の状況」の「川崎市における戦災の状況(神奈川県)」によると、川崎市では45年4月15日に最大規模の空襲がありました。「200機余の米軍機が飛来し、焼夷弾と爆弾合わせて1,110トンが投下され、市街地全体と南武線沿いの工場が壊滅的な打撃を受け、多大な死傷者を出した。全半壊家屋33,361戸、全半壊工場287、罹災者は10万人を超えた。川崎市が空襲で出した死傷者の大半はこの大空襲によるものである」。死傷者数は資料によって異なるようですが、米国戦略爆撃調査団報告書によると死者1520人、負傷者8759人とのことです。

 ※「川崎市における戦災の状況(神奈川県)」
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

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 参拝客でにぎわう現在の川崎大師の光景からは、そんな惨劇があったとはとても思えません。しかし、「奇跡の銀杏」の根元を見ると、確かに洞(ほら)の内側が黒ずんでいるのが分かります。かつて日本は戦争をする国であったこと、戦争が確かにあったことを今に伝える貴重なイチョウの木です。その戦争は、日本中で住民が犠牲になったばかりでなく、アジア諸国にもおびただしい犠牲、被害をもたらしました。
 ことしも間もなく3月10日、東京大空襲の日が来ます。東京と同じように、空襲を受けたそれぞれの地域に、それぞれの記録があります。そのことに思いをはせつつ、戦争体験を社会で風化させないために、それぞれの地で体験が語り継がれることが必要だと改めて感じます。

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