ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

読書:「反貧困 『すべり台社会』からの脱出」(湯浅誠 岩波新書)

※エキサイト版「ニュース・ワーカー2」から転記です。http://newswork2.exblog.jp/8449148/
ことし4月に刊行されたときから早く読みたいと思いながら、先日ようやく読み終えました。著者の湯浅誠さんはNPO法人自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長。研究者やジャーナリストとはまた違う視点から、ホームレスや生活困窮者の支援の具体的な実践を踏まえて書かれたリポートです。豊富な実例や統計データの精緻な分析が掲載されていますが、その紹介はここでは割愛し、わたしにとって印象深かった点をいくつか紹介したいと思います。

 第一は、貧困が社会の問題として見えていないとの指摘です。第3章「貧困は自己責任なのか」で著者は「貧困の実態を社会的に共有することは、しかし貧困問題にとって最も難しい。問題や実態がつかみにくいという『見えにくさ』こそが、貧困の最大の特徴だからだ」とした上で「姿が見えない、実態が見えない、そして問題が見えない。そのことが、自己責任論を許し、それゆえにより一層社会から貧困を見えにくくし、それがまた自己責任論を誘発する、という悪循環を生んでいる。貧困問題解決への第一歩は、貧困の姿・実態・問題を見えるようにし(可視化し)、この悪循環を断ち切ることに他ならない」と指摘しています。「本人の努力が足りないからだ」との「自己責任」の先入観がある限り貧困は可視化されない、という意味に受け止めています。
このことは、マスメディアの報道にもかかわってくる問題なのではないかと考えています。ここ2年ほどの間に、報道でも「ワーキングプア」という用語が定着し、「格差」が社会の問題として位置付けられるようになった観があります。しかし、知識として「ワーキングプア」や「格差社会」を意識しているつもりではいても、一歩踏み込んでマスメディアがどこまで「貧困」を社会問題として意識しているか。やはりマスメディアの側が自己責任論から完全には解き放たれていないのではないか。本書を読んで、そのことに思い至りました。

 強く印象に残っていることの第二は、貧困の問題は経済的な側面に限定されないという指摘です。人と人とのつながりが失われ、やがては生きる意味を見失っていく、そういう心理的な側面も深刻だと強調されています。著者は、現代の貧困の背景として「五重の排除」を指摘しています。?教育課程からの排除(例えば生活保護世帯の子の高校進学率は社会全体の平均を大きく下回ります)?企業福祉からの排除(非正規雇用では低賃金で不安定雇用にとどまらず、社会保険や正社員なら当然の福利厚生からも排除されます)?家族福祉からの排除(頼れる家族がいない、家に居場所がなくなる)?公的福祉からの排除(「自分で働け」「家族・親族に面倒を見てもらえ」など)の4つに加えて、5点目を著書は「自分自身からの排除」と呼んでいます。「何のために生き抜くのか、それに何の意味があるのか、何のために働くのか、そこにどんな意義があるのか。そうした『あたりまえ』のことが見えなくなってしまう状態」であり「周囲からの排除を受け続け、外堀を埋め尽くされた状態に続くのは、『世の中とは、誰も何もしてくれないものなのだ』『生きていても、どうせいいことは何一つない』という心理状態」です。年間の自殺者が3万人を超える?自殺社会?の一断面を感じずにはいられません。
 貧困の問題には、経済的側面に限らない複合的な要因があるとの指摘に、ことし4月の貧困をテーマにした集会(以前のエントリ・「信頼と希望のネットワークをつくる運動に報道の焦点を」〜シンポ「憲法25条・生存権とメディア」報告、 詳報はこちら)にパネリストとして出席された首都圏青年ユニオン書記長の河添誠さんが、まったく同じことを指摘していたことをあらためて思い出しました(「もやい」と首都圏青年ユニオンの連携も本書では紹介されています)。

 本書の後半は、貧困を克服して、誰もが人間らしく生きることができる「強い社会」を実現させるための道筋が語られ、首都圏青年ユニオンなど非正規雇用労働者の個人加盟労組なども含めて、現場で実践に取り組んでいる人たちのネットワーク化が始まったことが紹介されています。
 あらためてマスメディアの課題と責任の観点から考えてみると、「反貧困」を掲げた現場の運動のネットワークを報道として取り上げ、社会に紹介していくことで、マスメディアも貧困の克服に貢献できるのではないかと強く思います。ジャーナリズムの本義が「何が起きているのか」を事実として伝えることにあるのは言うまでもないことですが、「ワーキングプア」や「格差社会」という言葉とともに近年マスメディアが追い求めてきたのは、窮乏している人たちの?窮乏ぶり?、表現として必ずしも適切ではないかもしれませんが、困窮の度合いがより厳しい人たちを取材対象として探すことに多くの場合は力点を置いてきたと感じています。そのことも「貧困の可視化」に意味がないわけではないと思いますが、一方で、貧困を「自己責任」の問題にすり替えさせず、社会の問題と位置付け、社会全体で克服していくためには、反貧困を掲げた運動のネットワークをも「今起きていること」として紹介していくことにも大きな意味があると考えています。
 「反貧困のネットワーク」は、わたし自身が少なからずかかわってきた既存の労働組合運動の在り方の観点からも、示唆に富んでいると思います。本書では、貧困が雇用・労働の在り方と深く関係している実態も浮き彫りにされています。1990年代半ば以降、不安定雇用が増大していく中で、正社員の働き方もまた大きく変わってきました。かつて日本企業の強さの秘訣とされた「3種の神器」のうち「終身雇用」と「年功序列」は成果主義に変わり、裁量労働制と相まって正社員の働き方もまた「自己責任」の色彩を帯びつつあるとわたしは感じています。「3種の神器」で、かつてと変わらないのは「企業内労働組合」だけです。
 労働組合運動にかかわってきたわたし自身の悔悟の念を込めて言えば、?正社員サークル?の企業内組合が自らの労働条件には敏感であっても、非正規・不安定雇用の増大に必ずしも敏感ではなかったことも、貧困の広がりの一つの要因だったのではないかと考えざるを得ません。また、そのことが正社員自身の働き方を苦しいものにしていった側面も否定できません。経営者は「安い労働力(非正規雇用)がほかにあるのに、どうしてコストが高い正社員を雇い続けなければならないのか」と考えるでしょう。
 正社員労働者と非正規・不安定雇用の労働者が相対峙する関係に立つのではなく、働き方の違いはあっても、ともに一人の人間として尊重されるような社会を目指して連帯を図っていく、そういう形でのネットワークの広がり方があっていいと思います。そうやってネットワークが広がった先で、社会のどこかで孤立している人にも「あなたは一人ではない」というメッセージが届く、そういう社会運動が今は必要だと痛感しています。

 本書は終章「強い社会をめざして」で、堤未果さんの「ルポ貧困大国アメリカ」も引用しながら、貧困の広がりが戦争へのハードルを低くすることを指摘し、著者のもとにも自衛隊の募集担当者から積極的なアプローチがあることを紹介しています。そして、こう強調します。
「他の多くの国において『貧困と戦争』はセットで考えられているテーマである。日本も遅ればせながら、憲法九条(戦争放棄)と二五条(生存権保障)をセットで考えるべき時期に来ている。衣食足るという人間としての基本的な体力・免疫力がすべての人に備わった社会は、戦争に対する免疫力も強い社会である」
 これはそのまま、メスメディアの課題であり、労働運動の課題でもあると思います。マスメディアにかかわる人、あるいは労働組合運動にかかわる人に是非とも読んでほしい1冊です。