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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

多喜二虐殺の今日的な意味〜横浜事件の再審開始決定と「渋谷事件」から

 かなり時間がたってしまいましたが、10月31日に横浜地裁で、戦時下最大の冤罪・言論弾圧事件として知られる「横浜事件」の元被告(故人)に対する再審開始決定が出ました(大島隆明裁判長、五島真希、横倉雄一郎両裁判官の合議)。先日、その地裁決定の全文を読む機会がありました(横浜事件についてはウイキペディアを参照)。
 今回は横浜事件をめぐる通称「第4次再審請求」への決定で、再審開始自体は別の元被告による第3次請求でも認められており初めてではありません。第3次請求の再審の結論は元被告側が求めていた「無罪」ではなく、違反に問われていた治安維持法が現在は廃止されていることによる「免訴」で、最高裁で確定しました。そのことを踏まえて、今回の決定は再審の結論についても「免訴」になるであろうことを明言していますが、それでも元被告側が決定を高く評価している理由の一つは、決定理由の中で、当時の特別高等警察特高)が凄惨な拷問を元被告に加え、虚偽の自白を強いたことを明確に認定したことです。
 決定に記載されている元被告の口述書からは、その拷問のすさまじさが伝わってきますが、読んでいて「はっ」となったくだりがありました。拷問を加えながら神奈川県警の特高の警察官が「お前らの一人や二人殺すのは朝飯前だ。小林多喜二がどうして死んだか知っているか」と、現代の日本でベストセラーになっている小説「蟹工船」の作家小林多喜二の名を口にしていることです。少し長くなりますが、元被告の口述書のくだりを引用します。

 検挙当日(引用者注:昭和18年5月26日)、警察官から「お前は共産主義者をいつ信奉したか」と問われ、「10年前から共産主義からは離れている」などと答えると、「泊会議はどうした。河童(細川)はどうした。証拠は十分あるんだ」などと言われて武道場に連れて行かれた。警察官2名は、約1時間にわたり、押し倒し、竹刀や竹刀片で乱打し、靴で蹴るなどの暴行を加え続けた上、私の手を取って無理矢理訊問調書に署名指印させた。私は、そのまま階下の留置場に入れられたが、上記暴行により身体各所に血腫脹を生じ約5日間苦しんだ(口述書では、内出血により約5週間ほど苦しんだとされている)。
 同年6月初旬、A(引用者注:原文は実名)ほか1名の警察官は、既に拷問を受けていた私を再び留置場から連れ出し、私が気絶するまでの約1時間、Aが、コンクリートの床に引き据え、頭髪をつかんで引っ張り、頭を床に打ち付け、身体を蹴り、もう1名の警察官が、「お前らの一人や二人殺すのは朝飯前だ。小林多喜二がどうして死んだか知っているか」と絶叫しながら木刀で背中を乱打する暴行・脅迫を加えた。Aからはその後も数回にわたって同様の方法で言語に絶する拷問を受け、鉛筆を指の間に挟んでこじったり、三角の椅子の足に座らせて1時間ほどそのままにしたり、両足を縛って吊るされたりした。取調はなく拷問に終始しているのに、全く言っていないことが私が白状したこととして聴取書に書いてあった。
 同年7月10日ころ、B及びAは、私を留置場から連れ出し、「殺す」と叫びながら、竹刀や椅子で殴り、靴で蹴り、頭髪を捉えて引き据えて額をコンクリートに打ち付けるなどの暴行・脅迫を加えて失神させた。私は、「殺してやる」というBらの言葉が嘘ではなく、同人らは本当に実行すると痛感し、白状しろと言われて、やむを得ず、「改造の仕事がいけないのなら仕方がありません。貴方の言うように認めますから刑務所に送って下さい」と言うと、Bがタバコを1本くれた。その4、5日後にAが来て、改造に掲載された論文をすべて共産主義に結びつけて分析したものを私に承認させることが続き、同月16日にそれを仕上げて持ち帰った。
 同年8月20日ころ、B、Aほか2名の警察官は、わたしを留置場から連れ出し、Bから、「お前、神奈川の特高をなめてるか。殺してやるからそう思え。出鱈目を言っているではないか」などと言われ、木刀で殴り、靴で蹴る暴行を受け、歩行不可能な状態となった。私は、不潔な留置所の生活を強いられて、この拷問に耐えるより、1日も早く彼らの言うことを認めて刑務所に行った方がいいとあきらめ、改造社に勤務中に共産主義運動をしたという創作の手記を書くことになった。

 「蟹工船」の作者、小林多喜二は1933年2月20日、警視庁特高警察に逮捕されたその日のうちに拷問で虐殺されました。横浜事件の大弾圧が始まるのは1942年、神奈川県警特高の警察官が、「お前らの一人や二人殺すのは朝飯前だ。小林多喜二がどうして死んだか知っているか」と脅迫した拷問は1943年のことです。小林多喜二の虐殺は、恐らくはその直後から、思想・言論弾圧をする側には相手を屈服させる最強の脅し文句として、される側には最大の脅威として、その意味は正反対ながらも、互いに共通する暴力の象徴としての意味を持ち続けていたのだろうということに、あらためて気付かされた思いがします。
 小林多喜二が残した「蟹工船」がベストセラーとなったことし、10月26日に東京・渋谷で麻生太郎首相邸を見に行こうとしていた「リアリティツアー」の参加者3人が警視庁に逮捕される事件(「渋谷事件」と呼ばれることもあるようです)が起きました。新聞や放送のマスメディアでは単発的で地味な報道が大半だった一方で、ネットにアップされた逮捕の瞬間などの映像が多くのアクセスを集めたこともこの事件の大きな特徴ですが、映像を見る限り、警視庁の取り締まりの正当性には疑問を感じざるを得ません。作家の雨宮処凛さんの紹介によれば、「リアリティツアー」は低賃金、不安定雇用の労働者が団結と連帯を元に、時の為政者に直接交渉を申し入れようという行動でした。それは「蟹工船」の労働者たちがストライキに立ち上がった姿と重なっているようにわたしには見えます。
 「蟹工船」のストライキはいったんは弾圧されますが2度目は成功を収め、しかも最終部では労働者の団結と闘争が社会に広がっていく、つまり労働者の最終的な勝利を暗示しています。「蟹工船」の最後をそう締めくくった小林多喜二は、「蟹工船」発表の4年後に虐殺されました。国家に抵抗する1人の作家が殺されたという意味にとどまらず、日本の敗戦に至るまでの間、思想・信条と言論を弾圧するための負の象徴であり続けました。今日「蟹工船」がベストセラーになっている理由が、「蟹工船」の労働者たちに自らの姿を重ね合わせて共感している人びとが大勢いるということであるならば、小林多喜二の虐殺にも歴史上の出来事のひとつにとどまらない、将来を考える上での今日的な意味が生じてきていると思えてなりません。
 日本社会がかつてたどった道を繰り返させないためには何が必要か。それを考え、意識を社会で共有するためには、まず今何が起きているかが知られなければなりません。6日のエントリー「追悼 加藤周一さん」でも触れましたが、加藤さんが「現在の社会の空気は1930年代に似ている」と指摘していたことがあらためて思い起こされます。この先のわたしたちの社会で、抵抗のための表現活動が暴力で封じられる恐れはないのか。「蟹工船」が読まれている現在を境にして、小林多喜二の虐殺は、将来に起こりかねない可能性を過去から照射しているのではないか。今日、ジャーナリズムの役割が問われていることを強く感じます。

 小説「蟹工船」については、過去のエントリー「読書:『蟹工船』(小林多喜二、新潮文庫「蟹工船・党生活者」) 」もご参照ください。

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

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