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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「わが罪はつねにわが前にあり」故松橋忠光さんのこと〜「一粒の麦」の生き方


 もう26年も前のことになります。1984年に「わが罪はつねにわが前にあり」という本が世に出ました。著者は当時、退職後8年余り経っていた元警察キャリア官僚の松橋忠光さん。副題に「期待される新警察庁長官への手紙」とあるとおり、同期生の中から警察庁長官が誕生するタイミングで、新長官に民主警察の再生を託す書簡という体裁をとっていました。内容は「警察社会の不義・矛盾・恥部・膿」と表現する警察社会の内情を、自身の経験に基づいて赤裸々に描いたものでした。手元にあったこの本を昨年秋、25年ぶりに読み返しました。そして、自分の所属組織が「こうあってほしい」という理想像からかけ離れていく時に、個人はどう振舞えばいいのか、その難しさを考えました。

 1984年か85年のことだと記憶しています。松橋さんとは、ある取材をきっかけに面識をいただきました。当時、わたしは新聞記者になって2〜3年目、青森在勤でした。地元の交通安全協会が人件費を不正に水増し請求していたことが県議会で共産党から追及され、県警OBである安全協会の専務理事が数日後に自殺する出来事がありました。遺書には、警察に迷惑をかけたという趣旨のことが書かれていました。「わが罪はつねにわが前にあり」を読んだばかりだったわたしは、松橋さんに連絡を取り、専務理事の自殺をどう考えるかコメントをもらいました。
 電話越しの初対面でしたが、概要を聞いた松橋さんが、まず深くため息をついて「どうして警察官は自殺してしまうのでしょうねえ」と話したことが、強く印象に残っています。「迷惑をかけたと謝るのなら、県民、納税者に対してであるべきでしょう。県議会で、よりによって共産党に追及されたことを『警察組織への迷惑』として苦にしたのでしょうが、そういう理由で自殺するのは責任の取り方として間違っている」と、そういう趣旨のコメントをもらった記憶があります。松橋さん自身がちょうど、警察官の自殺の問題を調べているところだということで、青森の出来事の新聞記事の切抜きなどを後日、送りました。

 以後、休暇をとって上京した際などに、横浜の松橋さんのご自宅にお邪魔するようになりました。1924年生まれの松橋さんと1960年生まれのわたしとでは親子以上の年齢差があり、加えて世間知らずながら厚かましさだけは1人前のわたしでしたが、松橋さんは社会人として対等の態度で接してくれたように思います。
 ちょうどこのころの松橋さんについて、ノンフィクションライターの小林道雄さんが松橋さんからの聞き取りをまとめた岩波ブックレットの「はじめに」の記述が、当時の松橋さんの雰囲気をよく伝えていると思います。長くなりますが以下に引用します。
 ※「ドキュメント戦後史 ある、とくべつな幹部警察官の戦後」(岩波ブックレットNO343 松橋忠光 書き手小林道雄)

 私が初めて松橋忠光氏に電話で取材したのは、たしか一九八四年の暮れごろのことだったと思う。その折、何より感じたことは元警視監という立場にあった人とは思えない謙虚な人柄と誠実さだった。より率直に言えば、警察を憂うる真摯というよりほかないその言葉には意外なものすら感じたものだった。
 意外と感じたということには注釈が必要だろう。その年六月、氏は同期の新警察庁長官への手紙という形式のもとに、自身の事実をもって警察社会の腐敗を告発する書『わが罪はつねにわが前にあり』(オリジン出版センター)を出版した。
 <この「手紙」は、内情暴露を目的とするものでは絶対にありません。国民の各位が、主権者として「われわれの警察をもっとよきものに育てよう」とお考えいただくための一つの手がかりとして、公表することにしたものです>
 前書きの冒頭にもそう書かれているように、刊行の意図が警察社会の浄化を目指すものであることは一読して明らかだったが、そこで指摘されている予算の私物化など構造的とも言える警察社会の不正は実に衝撃的なものだった。もっとも、そうした噂は以前から囁かれており、私自身もその裏を取るべく腐心していたわけである。それが元警視監という立場にあった人によって、否定しようもない事実として明らかにされたのである。
 当然、読者やマスコミは、警察当局がこれにどう答えるか注目した。だが、当局は黙殺というかたちで隠蔽をはかり、その代わりのように警察OBや御用評論家というべき人間からの一斉攻撃が開始された。しかもそれは、指摘された事実についてではなく、もっぱら「偽善者」といった言い方で松橋氏の人間性そのものを貶めようとする誹謗や中傷であった。
 そのような卑劣な攻撃を受けている人であれば、憤りと絶望感で「もはや見放した」となって当然である。普通であれば「歯には歯を」とばかり感情的にもなるだろう。しかし、その渦中でなお松橋氏は警察社会の正常化を切々と訴えていたのである。
 私が氏についての中傷にさほど煩わされなかったのは、それ以前に日本警察の“腐食の構造”にいささか通じていたからであった。だが正直に言えば、その時、私は松橋氏にちょっと分からないものを感じた。クリスチャンであるとはいえ、そうした姿勢自体を偽善的と見ることもできなくはないからである。
 その戸惑いが消えたのは、次に自宅を訪れて話をうかがった時のことだった。そこで、私が呆気にとられるように感じたことは、今の世にこれほど自身の功利性を考えない人がいるだろうかということだった。そして私は、その後何回かの取材の中で、権力に公正を求めていささかの妥協もない氏の生き方そのものに脱帽せざるを得なくなった。以後、今日までお付き合いをいただいているわけだが、現在の氏は元高級官僚とは思えない簡素な生活の中で、あたかもそれが自分に課せられた責務でもあるかのように冤罪事件の支援に東奔西走しておられる。
 しかし、ここに松橋氏を紹介しようとするのは、そうした氏の人柄と生き方を稀とするからだけではない。平和憲法・新刑事訴訟法によって生まれ変わった警察が、時の経過とともにその理念を形骸化させていく過程は、松橋氏の警察官人生そのものと重なり合っているからなのである。
 戦後の混乱の中で、一人の人間が何を求めて警察官を志願し、なぜ天職と心得ていたその職を辞さなければならなかったのか。松橋氏の場合、その理由はまさに民主警察の崩壊過程そのものの中にあったと思えるからなのである。

 何度もおじゃまするうちに、色々な話をうかがいました。生意気にわたしも自分の意見を言うこともありましたが、松橋さんはいつも真摯に耳を傾けてくれているように思えました。
 いつの折か、一度だけぴしゃりと発言をたしなめられたことがあります。何かの話の流れで人事の話題になりました。何気なくわたしは自分が所属する会社の人事について、職場で先輩や同僚たちとふだん話しているのと同じ感覚で、揶揄するように紹介しました。それまでにこやかだった松橋さんの顔から笑みが消えました。「他人の人事を面白がって話題にしてはいけません。組織で生きる人にとって、人事は重いものです」。この言葉は今も鮮明に覚えていますし、以後、わたしも組織で生きる人間として胸に刻みつけています。
 もう一つ、松橋さんのお話で今になってその意味や重さが理解できるようになったことがあります。「警察社会をよくするためには労働組合が必要です」と常々言われていたことです。正直に言って、当時はその意味が理解できていませんでした。わたしも入社以来、会社の中にあった企業内組合の組合員でしたが、自らの意思で労組に加入するというよりは、入社に伴うもろもろの手続きの一つとして加入したようなものでした。自分が労働組合に加入していること、加入できる労働組合が身近にあることの意味を理解できるようになるのは、恥ずかしながらずっと後のことになります。「警察官にも労働組合を」は、「わが罪はつねにわが前にあり」にも書かれています。松橋さんの確信だったのだと思いますし、今はわたしもよく理解できます。警察官に限らず、自衛隊員なども含めて、公務員について労働者の権利をどう考えるかは、もっと社会的な議論が深まっていいと思います。

 やがてわたしは青森から埼玉に、次いで東京の本社へと転勤になり、忙しさにかまけているうちに、年賀状だけのお付き合いになっていました。1998年11月、わたしは横浜に転勤となり「近くなったので以前のようにまたお会いできるかと思います」と電話してみました。久しぶりに聞いた松橋さんの声は元気そうでしたが、体調を崩していてベッドから離れられない、とのことでした。「年は取りたくないものですね」。それが最後にお聞きした言葉です。その年の12月に松橋さんは亡くなられました。74歳でした。
 葬儀に参列しました。「故松橋忠光兄 告別式次第」が手元に残っています。「故人愛唱」と紹介されている賛美歌461番「児童」の歌詞は「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」(1番)と始まり「わが君イエスよ、われをきよめて、よきはたらきを なさしめたまえ」(4番)と結んでいます。親族代表あいさつでの奥様の話が強く印象に残っています。「警察の批判を続けていた夫に『あなた、怖いからもうやめてください』と言いました。夫は『警察は権力を持っているから、やめるわけにはいかないんだ』と言っていました」。松橋さんとの交流、お話の一つひとつを思い出しながらあらためて思います。進む道が二手に分かれているときは困難な道のほうを選ぶ、そういう自らに厳しい生き方をしていた方だったのだろうと。

 「わが罪はつねにわが前にあり」の最初のページには、聖書の言葉が2つ引用されています。

 われはわが愆(とが)を知る、わが罪はつねにわが前にあり
 なんじの救のよろこびを我にかへし自由の霊をあたへて我をたもちたまへ
 詩篇 第五一篇第三節・第一二節

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、いつまでも一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を顧みない人は、それを保って永遠の生命に至る。
 共同訳ヨハンネスによる福音第一二章第二四節・第二五節

 松橋さんが警察の退職を決意したのは50歳のときでした。ことし、わたしはその年齢になります。わたしにとっての「一粒の麦」の生き方とは、どんな道なのか、その答えをことしは探していきたいと考えています。