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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「憲法記念日ペンを折られし息子の忌」〜朝日阪神支局事件から24年

 憲法記念日の3日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局を訪ねました。一階の入り口に24年前のこの日、散弾銃で襲われ殺害された小尻知博記者(当時29歳)の遺影が花に包まれるように飾られていました。記帳、焼香して、支局3階の「朝日新聞襲撃事件資料室」を見学しました。壁にかけられていたご遺族の句が強く印象に残りました。「憲法記念日ペンを折られし息子の忌」。

 24年前の1987年5月3日、朝日新聞阪神支局が目出し帽をかぶった男に襲われ、勤務中だった小尻さんが殺害され、記者一人が重傷を負う事件が発生しました。共同通信などに届いた犯行声明は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」と名乗り、「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない。特に朝日は悪質である」などと書かれていました。前後して朝日新聞東京本社なども襲撃され、さらには当時首相だった竹下登氏や元首相中曽根康弘氏への脅迫、江副浩正元リクルート会長宅襲撃と、赤報隊を名乗った犯行が続きました。警察庁広域指定116号事件、いわゆる「赤報隊事件」はしかし、犯人を突き止められないまま2003年3月にすべての事件の時効が成立しました。
 そのときからでも、すでに8年の年月が過ぎています。わたしにとって5月3日は、憲法記念日として「表現の自由」の尊さに思いをはせる日であるのと同時に、朝日新聞阪神支局事件という狂気としか言いようがない言論テロを決して忘れてはならないと胸に刻む日にもなっています。新聞の仕事に携わる多くの人が、同じ思いだと思います。
 24年前のこの日、わたしは通信社で記者になって5年目の26歳で、初任地の青森から埼玉に転勤したばかりでした。小尻さんは記者歴で2年先輩。事件の衝撃は、今も薄れることはありません。自分が選び取った記者という仕事は、本当に命がけであることを迫られるのかと、身震いするような気持ちになったことをよく覚えています。
 後年、新聞労連の委員長として、日本国憲法が規定する「表現の自由」について実地に学ぶ機会をふんだんに得ました。とりわけ痛切に感じたことは、自由な表現活動が担保されない社会は、戦争との親和性が高いということです。あるいは、戦争遂行には自由な表現活動はじゃまになるとも言えます。66年前に日本の敗戦で終結したあの長い戦争で、新聞が戦争の実相を社会に伝えず、戦意高揚の一翼を担っていた歴史はその一例だと思います。
 「赤報隊」は一連の犯行声明の中で「反日朝日は五十年前にかえれ」と要求していました。当時から50年さかのぼれば1937年。7月7日の盧溝橋事件で日中戦争が勃発した年です。1931年の満州事変から1945年の敗戦まで「15年戦争」とも呼ばれるあの長い戦争の時代。異論を許さず社会が戦争遂行一色になっていく、それにすべての新聞が加担していく、そういう時代でした。赤報隊事件は言論テロであることと同時に、歴史に学ぶことなく異論を認めない社会を是としていた点で、二重の意味で決して許すことのできない凶行です。
 阪神支局事件を機に、朝日新聞労組は毎年この日、言論の自由をテーマに西宮市などで集会を開いています。息の長い取り組みです。わたしも新聞労連委員長時代は東京から足を運び参加していました。ことし3月に大阪に転勤になり、一個人として久しぶりに参加を考えましたが、スケジュールが固まらず申し込みは見送りました。結果的に時間ができたので、初めて阪神支局を訪ねました。

 現在の支局は事件当時と場所は変わらないものの、建物は改築されています。3階の資料室には事件当日、小尻さんらが座っていたソファー、散弾を受けてつぶれたボールペン、体内の散弾を写し出したエックス線写真など、凶行を今に伝える数々の品が置かれています。若い記者、記者を志す若い人たちには、所属組織・企業の違いを越えてぜひ見てほしい資料だと感じました。同時に、若い記者を育てる立場の世代、さらにはその上の立場の人たちにも。
 冒頭に紹介したご遺族の句は、旧支局に小尻さんの遺影が飾られていた様子のパネル写真と並んで、壁にかけられていました。遺影の小尻さんは当時のままの姿ですが、わたしを含めこの24年の歳月を生きた者はみなそれぞれに年齢を重ねました。事件を風化させることがないよう次の世代に語り継いでいくことは、記者の仕事を続けてきた者の義務だろうと考えています。