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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

伊丹万作「戦争責任者の問題」と憲法96条〜「だまされる罪」と立憲主義

 戦前に活躍した映画監督、脚本家で1946年9月に亡くなった伊丹万作という人がいます。やはり映画監督や俳優として活躍した伊丹十三さんの父親です。その伊丹万作が46年8月に発表した「戦争責任者の問題」という文章があります。内容から察するに、映画界で戦争遂行に協力した責任者を指弾し、追放することを主張していた団体に名前を使われた伊丹が、自分の考え方を明らかにして、当該の団体に自分の名前を削除するよう申し入れたことを公にした文章です。
 最初にこの文章を知ったのは新聞労連の専従役員だった当時で、8年ほど前でした。伊丹の出身地、愛媛県愛媛新聞の方に教示いただきました。その方自身「初めてこの文章を読んだときには、全身が震えた」と話していました。私も、一読してまったく同じでした。そして今、憲法改正論議の焦点が96条に絞られてきて、改憲手続きのハードルを下げることから改憲が始まりかねない情勢をみながら、この文章のことを思い出しました。
 この文章は、著作権保護期間を過ぎた作品を集めたネット上の図書館「青空文庫」に収録されていて、だれでも自由にアクセスできます。全文で7000字ほどです。
 ※伊丹万作「戦争責任者の問題」
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

 伊丹はまず、日本の敗戦後に多くの人が「今度の戦争でだまされていた」と言っていることを挙げ、「多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである」と指摘します。つまり皆が皆、だまされていたのであれば、だましていた人間は最終的には1人か2人ということになってしまいますが、そんなことはありえません。実際には「一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」というわけです。
 戦争でそうなるのも致し方なかったとしながら、しかし伊丹は、「だまされていた」と釈明することで戦争責任を逃れることができるのかと、たたみかけてきます。わたしが全身が震えるような思いがした、この文章の真骨頂だと感じた部分です。長くなりますが引用します。

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 さて、憲法96条との関連性です。伊丹のこの文章を今、読み返して感じるのは、立憲主義の考え方と底流で通じる部分があるのではないか、ということです。具体的に言えば、わたしたちは「だまされる」ということ、あるいは判断を誤るということに対して「いや、そんなことはない。そんなに愚かではない」と即座に否定せずに謙虚に構えた方がいいのではないか、ということです(日本国民がだまされやすい、愚かだと言いたいのではありません)。
 立憲主義については、これも新聞労連の専従役員時代のことですが、伊藤真さんの講演を聞く機会がありました。伊藤さんが強調したのは、民主主義のルールで決めた結果がいつも正しいとは限らない、ということでした。典型的な例がドイツのナチスです。民衆が熱狂し、頭に血が上った状態では誤った判断をし、誤った結果を招くことがありうる。だから頭が冷静なうちに、根本的な理念、約束事を定めておき、そうそう簡単には変えられないようにしておく。それが憲法だ、というわけです。
 昨年末の政権発足後、経済政策を中心に取り組み“安全運転”に努めているかのように見えた安倍晋三首相が、高い支持率に自信を深めたのでしょうか、憲法改正志向を公言するようになっています。改憲はもともと自民党の公約であり、昨年4月には改正草案も公表しているので驚きはありません。ただ、夏の参院選にらんで焦点が憲法96条の改変に絞られつつあり、日本維新の会、みんな党が同調するようです。
 96条は改憲手続きを定めた条文で、発議は衆参両院の議員の3分の2以上の賛成が必要です。改変案は、これを通常の法案審議などと同じ過半数に下げようという内容です。国会で改憲の発議が成立した後、国民投票でさらに過半数の賛成が必要であり、この点を指して、最終的には国民が判断するのだから問題ない、憲法を国民の手に取り戻すことになる、とする主張が改憲派の中にはあるようです。
しかし96条は、伊藤さんの説明した立憲主義で、根本的な理念や約束事が簡単には変えられないようにすることを具体的に担保した規定です。96条を変えることは、憲法そのものの性格を変えてしまうことになります。それは「改正」と呼ぶにはあまりに大きな憲法の変容のように思えます。
 伊丹万作の文章に戻れば、伊丹は「現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである」と言い切っていました。敗戦後68年たった今、国民全体の自己改造ができているのかどうか、私としては伊丹の見方を聞いてみたいところです。ただ、伊丹が厳しい言葉で書き連ねた「だまされる罪」を犯さないためには、憲法96条はそのまま残しておけば一つの大きな予防策として機能するのではないかと思います。またナチスの例も含めて、敗戦と歴史の教訓を生かす選択にもなるのではないかと思います。

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。


 【追記】2016年7月14日
 この記事を書いたのは3年以上前ですが、今もなお、よく読まれています。「伊丹万作」を検索して、このブログに来られる方が多いようです。「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と伊丹が喝破してから、今年8月で70年。今の日本社会を伊丹が見たならば、何と言うでしょうか。
 戦後70年だった昨年、この「だまされることの罪」とまるで裏と表の関係のような言葉を知りました。ナチスドイツの巨魁で、第2次世界大戦ではドイツ軍国家元帥だったヘルマン・ゲーリングが残したとされる言葉です。ゲーリングは、ドイツ敗戦後のニュルンベルグ軍事裁判であたかもヒトラーの身代わりのように訴追を受け、法廷ではナチスの正当性を果敢に論じ、絞首刑の判決を受けた後は、刑の執行を待つことなく、自殺を遂げたとされます。その言葉とは要するに、一国の指導者が国民を戦争に駆り立てるのはいとも簡単なことで、攻撃されつつあると国民をあおり、平和主義者に対して「愛国心が欠けている」と非難すればよい、ということです。
 ことしの年初の記事で触れていますので、よろしければご覧ください。

※「ヘルマン・ゲーリングの言葉と伊丹万作の警句『だまされることの罪』〜今年1年、希望を見失わないために」=2016年1月1日
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20160101/1451575528