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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

【憲法メモ】5月6日〜12日:毎日新聞「論ステーション:大阪と社会運動 湯浅誠さん/酒井隆史さん」ほか

 安倍晋三首相がこの夏の参院選で争点化させることを明言していることから、憲法改正論議が高まっています。安倍首相と自民党日本維新の会は、改憲の発議に衆参両院議員の三分の二以上の賛成が必要と定めた96条の改変を改憲の入り口と位置付けています。これに対して、憲法学者を中心に保守派の改憲論者からも批判が挙がっています。また、改憲そのものではなくとも、沖縄に在日米軍基地が過度に集中している問題や、米軍輸送機オスプレイが沖縄の全県挙げての反対にもかかわらず普天間飛行場への配備が強行された問題、あるいは4月28日の「主権回復の日」など、憲法に密接不可分にかかわる問題をめぐっても、研究者やジャーナリスト、反対運動に身を置く当事者の方々など様々な方が報告や論考、主張を発表しており、ネット上で日々、それらの言説に触れることができます。
 わたしはネットで目にした言説を、ツイッターフェイスブックで簡単な感想のコメントを付けて紹介したりしています。それらの中で主なものを、わたし自身の備忘を兼ねて一定の頻度で「憲法メモ」として、このブログ上でまとめて記録することにしました。とりあえずは週に1回をメドにします。キーワードは「憲法」です。文中で「憲法」が明示されていなくても、本質は憲法にかかわる問題だとわたしが考えた言説、論考も含めていこうと思います。
 わたしの日々のつぶやきは必ずしも賛同、同意見のものばかりではなく、またツイッターではほとんどコメントも付けていませんが、「憲法メモ」に残すのはわたしなりに広がってほしい、知られてほしいと考える論考、言説を中心にしようと思います。良質の論考、言質、情報を社会に流通させるわたしなりの試みの一つです。


水島朝穂さん「『記念日』の思想――KM(空気が見えない)首相の危うさ」(「今週の直言」=2013年5月6日)
 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0506.html
 4月28日の「主権回復の日」に対する論考です。一部を引用、紹介します。「記念日」のドイツとの比較は、マスメディアの報道でも日常的に意識されていいことだと思います。

 記念日というのは一定のサイクル(年単位)で、歴史的な出来事を想起させる「装置」である。このことは、9年前、「それぞれの『記念日』」でも書いた。ドイツのG.シュレーダー首相(当時)は戦後60年を前に、フランスのノルマンジー(6月6日)とポーランドワルシャワ(8月1日)を訪れ、また帝政時代の旧植民地ナミビア(8月11日)に閣僚を送って、「過去」と向き合った。これでドイツは、ヨーロッパのみならず、かつての植民地諸国においても支持と信頼を確実なものにして、国際的な地位を確固たるものにした。見事な「記念日外交」である。
 同じ頃、日本の首相と閣僚は靖国神社参拝をやって、周辺諸国とのあつれきを深めていた。かくして、2004年の時点で、「過去の克服」の問題に関する日独の差は圧倒的に開いてしまった。
 昨年12月、村山談話河野談話まで覆して、過去の蓄積を台無しにする第二次安倍内閣が誕生した。戦後68年を前に、この国は、長年にわたって築いてきた周辺諸国との関係を失いかけている。
 日本の政治家に「記念日外交」ができないのは、歴史的知見や教養が足りないからだけではない。特殊な「価値観外交」を過度に押し出すため、不必要な摩擦を広げてしまう点も無視できない。ドイツの対外政策を長年にわたり観察してきた者として、ドイツの政治家の多くは過去の歴史を踏まえ、「記念日」に配慮しつつ、それぞれの国に慎重かつ周到に向き合ってきたことを指摘したい。日本の政治家のように、7月7日(蘆溝橋事件)に首相が尖閣国有化を表明し、9月11日(満州事変の1 週間前)にその閣議決定を行う無神経さは、ドイツの政治家からすれば信じがたいことである。
 安倍首相は最近、「記念日」の使い方において、二つの重大な誤りをおかした。
 その一つは、閣僚の靖国問題に対する中国や韓国の批判に対して、「どんな脅かしにも屈しない」という異例に強い言葉を使ったこと(4月24日参院予算委員会)、歴史認識について、「侵略という定義は定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかでも違う」(4月23日同)と述べたことである。他国の批判を「脅迫」と受け取る感覚は理解できない。内心が相当歪んでいないと、このような余裕のない言葉は出てこないものである。

 水島さんが指摘する「二つの重大な誤り」のもう一つが「主権回復の日」です。


鎌田慧さん「目を覚ませ朝日、手遅れかも。」(「鎌田慧 公式ブログ」=2013年5月8日)
 http://nomorewar77.blog.fc2.com/blog-entry-196.html
 書き出し部分を引用します。全国紙も地方紙も新聞と新聞記者をよく知る鎌田さんの批判は、直接は朝日新聞に向けられていますが、マスメディアの中で働く一人として厳しく受け止めています。

 「我が国では、安倍政権に一番吠えていたはずの朝日新聞が声を失い、いつの間にか『権力者の飼い犬』に変わってしまったかのようだ。クオリティペーパーを標榜(ひょうぼう)する大新聞の変節は、人気絶頂の政権への“降伏”を意味するのか」
 刺激的なリードで朝日新聞を批判しているのは、「週刊ポスト」(5月17日号)だ。「変節」と書かれても、ムキになって怒る朝日の記者がすくなさそうだ。というのは、友人の現役記者やOB記者の「昔はこうでなかった」との嘆きをよく聞いているからだ。
 OBたちにすれば、週刊ポストにいわれるまでもない朝日の危機だが、経営陣は危機を感じていないようだから、まさに病膏肓(やまいこうこう)。
 かつては、週刊文春週刊新潮など、右派週刊誌に、その「偏向」ぶりを攻撃されていた。ところが、いまや時代も変わって、左派とはいえない週刊ポストから、「安倍晋三朝日新聞の不適切な蜜月」と、トップ記事で揶揄されている。
 安倍が総裁選挙で勝利したあと、早速、朝日が他紙より早く安倍の独占インタビュー記事を掲載した。これはいままでの批判の砲火を収め、恭順の意を表したものと読者を呆れさせたのだが、ウラでは木村伊量(ただかず)社長が、極秘裏に安倍に会っていた、と週刊ポストが報じている。


▽南部義典さん「憲法第96条の改正はできるのか(3)」(マガジン9「立憲政治の道しるべ」=2013年5月8日)
 96条の改正について各党の意見表明が予定されていた5月9日の衆議院憲法審査会の前日にアップされた論考です。一部を引用します。

 明日の議論で、冷静に見極めたいことがあります。
 それは、96条改正論者が、衆議院憲法審査会の前身であるところの衆議院憲法調査会(2000年〜05年・中山太郎会長)の議論を超える説得的な主張を繰り広げられるかどうか、改正論を支える新たな事実ないし論拠が明確に提示されるか、ということです。議論の内容が8年前よりバージョンアップされれば、新たな展開として、国民との対話が進む可能性がでてきます。
 この点、憲法調査会の議論を踏まえ2005年4月に公表された「衆議院憲法調査会報告書」の整理では、改憲発議要件の緩和は「多数意見」にはなっておらず、賛否が真っ二つに割れていました。その時点で賛成意見が全体意見の3分の2を超え、「多数意見」となっていれば、改正発議の可能性がわずかにでも生まれていたのですが、当時にしてそうではなかったのです。
 その後8年間、96条改正論に関する国会の公式な議論は一切存在しません(⇔96条に基づく国民投票法制の議論はありましたが、憲法審査会の未始動が続いたこともあり、ある意味当然です)。国民に議論が浸透しているわけではありません。事実、今年の憲法記念日に各紙が公表した世論調査結果によると、各紙いずれも改憲発議要件の緩和に関しては「反対」が「賛成」を上回っていました。憲法改正国民投票では、96条改正案は承認されないことになるでしょう。
 衆議院憲法審査会が開かれる明日の午前中、短時間で96条改正論を一気に成熟させ、コンセンサスを図るということは到底困難です。そうでないにしても、憲法調査会当時の議論を内容的に超えられなければ、同じ意見をくり返す、言いっぱなしの水掛け論に終わり(それを主張する議員の顔ぶれが憲法調査会当時とは異なるというだけです)、96条改正論は早晩、凍結状態に陥ると、私は考えます。

 この後に、8年前の時点での議論の集約が紹介されています。現在、目にする96条改変の主張が、内容としては目新しいわけではないことは広く知られるべきだと思います。


▽澤藤統一郎さん「96条改憲批判ーその4『96条改正は改正限界を超える』説」(「澤藤統一郎の憲法日記」=2013年5月9日)
 http://article9.jp/wordpress/?p=286
 憲法を改正するにも、どこまでの改正なら許されるか、限界がある、ということの分かりやすい解説です。書き出しを引用します。

 一昨日のブログで、法には序列があることを述べた。実は憲法の内部にも序列がある。これなければこの憲法ではなくなるという「憲法の中の憲法」を根本規範といい、それ以外を憲法津と読んで、差別化している。ハンス・ケルゼン以来の通説的な憲法論だ。
 憲法改正は何でもありではない。改正には限界がある。根本規範は、憲法制定権者の意思を体現するものとして、これを法的な意味で改正することはできない。現行憲法の規定で選任された国会議員や首相や閣僚が、この根本規範をないがしろにするような改正の原案作成はできない。国会はそのような改正案の発議ができない。
 「できない」の意味は飽くまで法的なもので、政治的な意味ではやってできないことではない。むりやりにやられてしまえば、事後に法的に争うことが困難であることは否めない。しかし、そのようにしてできた憲法日本国憲法とは別の憲法であって、日本国憲法と一体性のある改正憲法ではなくなる。そのような「改正の限界を超えた改正案の発議」がもつ正当性の欠如は、「改正手続」において、十分に吟味し批判されなければならない。その際の十分な理論的批判の根拠たりうるのだから、改正の限界を論ずる実益はある。

 では、96条についてどうかと言えば、澤藤さんは次のように指摘しています。

 通説とか多数説とまではいえないが、「改正規範(96条)の改正」は、憲法制定権力自らが憲法改正権を制約して、憲法全体の擁護を意図したものである以上、改正規範(96条)の改正は根本規範同様にできない、という有力説がある。


毎日新聞「論ステーション:大阪と社会運動 湯浅誠さん/酒井隆史さん」(2013年5月10日)
 http://mainichi.jp/area/news/20130510ddn004070083000c.html
 毎日新聞社大阪本社の出稿記事です。リードと小見出しを引用します。

 大阪は、社会運動においても中心的な役割を果たしてきた土地だ。では現在はどうか。東京とはどう違うのか。昨年末まで半年間大阪に常駐した「反貧困」運動家の湯浅誠さんと、大阪の社会運動史に詳しい大阪府立大の酒井隆史さんに、活動の「場」としての大阪を語ってもらった。
◇「日本標準」の可能性−−社会運動家反貧困ネットワーク事務局長・湯浅誠さん
◇「移民」が支えた強さ−−大阪府立大准教授(社会思想史)・酒井隆史さん

 酒井さんの「いわば、大阪は『移民都市』」との指摘が印象に残っています。わたし自身、大阪に来て2年2カ月余になりますが、これまでに目にした“大阪論”の中で、もっとも納得できました。以下に酒井さんの言説の一部を引用します。

 第一次大戦後の労働運動などの主力は、関西・西日本から集まった下層労働者だった。さらに第二次大戦中にかけて、朝鮮半島や沖縄からの移民が続いた。マイノリティー運動の主役でもある彼らが、階層や出身別に従来の都市部周縁に集住して、あるいは集住させられて、今のJR大阪環状線周辺のような地域ごとの特色が生まれた。日雇い労働者の多い新今宮駅周辺、在日コリアンの鶴橋や沖縄出身者の大正が典型である。
 上町台地船場のような近代以前から代々の大阪住民は、むしろ少数派のはず。今の大阪を形作ったのは、故郷の言葉を捨てて大阪弁を身につけざるを得なかった人々である。いわば、大阪は「移民都市」。東京と比べて極端に狭い市内で彼らのバイタリティーや互いの異質さが交錯し、文化でも商業でも、ときに組織的に動いたり、集団が生まれたり。その表れの一つが社会運動だったわけだ。
 対東京的な「売り物」である「こてこて」の大阪像は、確かに大阪の一側面とは言えよう。しかし、これ一本やりでは、大阪を大阪たらしめてきた、内部のさまざまな異質さが見えなくなる。

 橋下徹氏と大阪維新の会が圧倒的な支持を維持していることに関しては、次のように触れています。

 確かに、大阪の運動は以前ほどの力が感じられない。この約10年間、先に話した意味でのバイタリティーも失われてきた。橋下徹市長の人気と反比例するように、街から良い意味でのわい雑さやアナーキー(無秩序)さが減った。橋下市長の支持率は、所得が相対的に高く、新しく市内に流入した層の方が高いとの研究もある。逆に言えば、旧来の運動を支えたような層が、段々と弱くなってきたようでもある。社会運動の弱さは、閉塞(へいそく)状況を打ち破り、未来を作る火種がないことにつながる。
 それでも、他の都市を歩くと、大阪はまだまだ「イケル」とつくづく思う。活気が違う。社会運動は、この活気と表裏で今後も繰り返し育ち得る存在のはずである。

 橋下氏と大阪維新の会(国政政党である日本維新の会とはあえて区別します)への高い支持は、わたしにとっても引き続き考察テーマです。


※この間、わたしは5月7日に以下の記事をアップしました。
 伊丹万作「戦争責任者の問題」と憲法96条〜「だまされる罪」と立憲主義
 http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20130507/1367881891
 伊丹万作伊丹十三さんの父親。戦前に活躍した映画監督、脚本家です。敗戦後間もなく、映画界での戦争責任追及の動きに対して、自らはその動きに与しないことを「だまされる罪」という言葉を使って表明しました。熱狂の中で大勢の人が同じ方向を向くことがある、しかし冷静になってみたら「だまされていた」と思う、そんなことをわたしたちの社会は経験していました。それから100年もたっていません。冷静な頭で決めたことは、軽々に変えない方がいいと思います。