ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

追悼・藤田博司さん

 悲しい知らせに接しました。元共同通信論説副委員長で、上智大教授や早稲田大大学院客員教授を務めた藤田博司さんが10月5日、急逝されました。77歳でした。

「藤田博司氏が死去 ジャーナリズム研究者」47news=共同通信、2014年10月5日
 http://www.47news.jp/CN/201410/CN2014100501001726.html

 ジャーナリズム研究者で上智大教授や共同通信ワシントン支局長を務めた藤田博司(ふじた・ひろし)氏が5日午前0時5分、急性心不全のため岩手県八幡平市の病院で死去した。77歳。香川県出身。通夜は7日午後6時から、葬儀・告別式は8日午前10時半から、いずれも埼玉県所沢市東狭山ケ丘1の2の1、セレモニー狭山ケ丘ホールで。喪主は妻文子(ふみこ)さん。登山後、体調が急に悪化した。
 共同通信社でニューヨーク支局長、ワシントン支局長、論説副委員長などを務めた。95〜05年上智大教授、05〜08年早稲田大大学院客員教授朝日新聞の報道と人権委員会委員を歴任した。

 藤田さんが共同通信社に在職中は、存じ上げていませんでした。初めてお会いしたのは10年近く前、私が新聞労連の委員長だった当時です。新聞労連が主宰するジャーナリスト大賞の選考委員を引き受けていただきました。それを縁に面識をいただき、新聞労連委員長を退任後も、マスメディア関係者の集まりなどで時折、お目にかかっていました。冷静で物静かで、明晰な方でした。いつも、わたしたち現役世代の後輩を励ましていただきました。大阪に転勤になった後は、藤田さんに声を掛けていただき、勉強会で「原発再稼働の波紋」のテーマのもと、関西電力大飯原発の再稼働をめぐる関西の動きと関西のマスメディアの報道について報告する貴重な機会をいただいたこともあります(このブログでもリポートをアップしました)。新聞・通信や放送のOBら10人の方々が幹事役になっている「土曜サロン」という任意の集まりです。2カ月に1度の開催で、マスメディアのOBや現役が集まって、ジャーナリズムが直面している折々の課題について意見交換しています。藤田さんは中心的な幹事のおひとりでした。
※参考過去記事「橋下市長と『脱原発』の一つの仮説〜勉強会『原発再稼働の波紋』で報告」2012年5月28日
 http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20120528/1338162680
 今年春、3年ぶりに大阪を離れて東京勤務となり、藤田さんには「できれば土曜サロンも毎回、顔を出そうと思います」とメールで伝えていました。実際には、雑事にかまけて一度も顔を出さないまま。行けば、いつでも藤田さんにお目にかかれるだろうと気安く考えていました。まさかこんな形で永遠にお会いできなくなろうとは、思ってもみませんでした。悔いが残ります。
 藤田さんは、あまり一般向けではない「メディア展望」という月刊の冊子に、時々のマスメディアのジャーナリズムのトピックスを取り上げるコラムを連載していました。毎月初めに、最新のものをメールで知人らに送っていました。私もいただいていました。この10月1日にいただいたそれは、「公正さの確認が検証の核心」とのタイトルで、朝日新聞福島第一原発事故をめぐる吉田調書報道と従軍慰安婦報道を論じた内容でした。いつもにも増して明晰な内容であり、現在のマスメディアのジャーナリズムへの藤田さんの危機感が伝わってくる論考でした。とりわけ強く印象に残った部分を書き留めておきます。

 9月11日に記者会見した朝日の木村伊量社長は、吉田調書報道と慰安婦報道について、あらためて第三者機関による検証をすることを約束した。一見、互いに関連性のない二つの報道だが、検証しなければならない問題の核心は、報道における公正さをどう担保するかという点で共通している。一連の問題の根っこを手繰っていくと、これらの報道にあたって正確な事実を伝えるためのジャーナリズムの基本原則である「公正さ」がおろそかにされてはいなかったか、というところにたどり着く。そしてこの問題は、朝日だけの問題ではなく、日本のメディア全体が共有する問題であることにも気づかされる。
(中略)
 吉田調書、慰安婦問題の二つの報道の検証で決定的に欠けていると思われるのが、一連の報道でジャーナリズムの基本的規範である「公正」の原則が実践されていたかどうかの視点である。
ニュース報道の公正は、取材、編集、発信という報道のすべての過程で貫かれねばならない。具体的には、予断や偏見、思い込みを排し、可能な限り事実を正確に伝えることを記者は求められる。情報の確認と検証を怠らず、間違いがあれば速やかに訂正する。自社に不都合な問題があっても説明責任を果たす。そうした基本が守られたかどうか、といった視点からの検証なしには、二つの事例が遺した教訓はくみ取れない。
 報道の公正は左右の間をとる公平や中立ではない。平たく言えば、人から後ろ指を指されない振る舞い、人に恥じることのない仕事を意味している。報道が人間の営みである以上、誤りはつきものだ。しかし作業の過程で右のような意味での公正を心がけて最大限の努力をしたときは、仮に結果が間違っていても公正は貫けたと考えていい。
 朝日に限らず、日本の報道現場でも「公正」の原則が重要であることは十分理解されているに違いない。しかしそれが日々の仕事のなかで忠実に実践されているとは限らない。時間の制約や他社との厳しい競争環境のためにともすれば確認作業や検証作業がおろそかになる。記事をより魅力的に見せるために実体以上に飾り立てたい誘惑もある。公正な報道を妨げるそうした要因を排除するための仕事の仕組みを構築しておくことも、報道機関として留意しなければならない点だろう。

 公正を貫くジャーナリズムを守り続けることができるのか―。マスメディアで働く一人として、後輩の一人として、藤田さんから重いバトンを受け取った気がしています。あらためて、ご冥福をお祈りいたします。