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善意の避難ではなかった沖縄の学童疎開―読書:「対馬丸」(大城立裕 講談社文庫)

 第2次大戦中の1944(昭和19)年8月22日夜、沖縄から戦時疎開の子どもたちらを乗せて九州に向かっていた陸軍の徴用船「対馬丸」が、鹿児島県トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。那覇市にある「対馬丸記念館」発行のリーフレットによると、乗船者1661人、船員86人、船舶砲兵隊員41人の計1788人のうち、氏名が分かっている方だけで1476人が犠牲になりました。内訳は学童779人、訓導・世話人30人、一般疎開者622人、船員24人、船舶砲兵隊員21人とされています。この「対馬丸事件」のことは、ぼんやりとした知識しかありませんでした。芥川賞作家で「小説琉球処分」などの作品もある大城立裕さんの著作が文庫本になっていることを知り、先日、読みました。生存者の証言も6人分盛り込まれ、基本的な事実関係を概論的に知ることができました。

対馬丸 (講談社文庫)

対馬丸 (講談社文庫)

 本書であらためて目を見開かされた思いがしたのは、沖縄の「学童疎開」の意味です。本書の冒頭近く、読み始めてすぐの「疎開」に触れた部分の一部を引用します。

 「疎開」とは戦争被害をさけるための人口移住のことである。
 「疎開」という言葉は戦前にはなく、おそらくこの頃に、軍で作られたと思われる。英訳ではevacuationとされるが、この英語の第一義は、「容器から中身を空ける」ということで、第二義に「散開」とある。沖縄に守備軍を置くにあたって、食糧の節約と、足手まといの人口を減らす目的で、まず右の第一義のように発想され、これが人口の避難を伴うものとして、第二義の「散開」を考えたと思われる。「避難」という語が「逃げる」に似て好ましくないし、さいわい中国語に「疎開」(軍事用語)とあって「散開」の意味であることが、援用の理由であったろうか。散開とは、野戦で兵士が一ヵ所に固まっているときに、銃砲弾を打ち込まれて、それを避けるために散ることである。後日に遭遇した沖縄戦の事情と照らし合わせると、軍の低意が見えるのであるが、当時は、県民にそれは見えず、素朴に善意の避難と受け取られた節がある。 

 沖縄は翌1945年3月の米軍来襲以降、激しい地上戦の舞台となりました。日本軍は、本土決戦までの時間を稼ぐことを目的に戦闘を続け、そのために多くの住民が戦火の犠牲になりました。「守備軍」と言いながら沖縄の日本軍は住民を守らず、戦争指導部から見れば、沖縄は本土決戦のための「捨て石」でした。その沖縄戦に先立つ学童疎開は、戦闘を長く効率的に続けるための措置という性格が強かったのだと、本書で気付かされました。
 著者の「あとがき」によると、1960年に遭難学童遺族会から記録の執筆の要請を受けたことが始まりだったそうです。同人雑誌の仲間計3人で取材を始めましたが難航。1944年の事件直後にかん口令が敷かれていたこともあって、よく知られた悲劇というわけではなかったようです。
 読んでいる間は重い気分でしたが、救われる思いがしたのは、船員や同乗の陸軍兵らが終始、子どもたちには優しく接していたとの記述でした。

※参考「対馬丸記念館」 http://tsushimamaru.or.jp/