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「多くの菓子職人、海に消え」 給糧艦「間宮」の記録―毎日新聞「キャンパる」の記事

 8月は戦争と平和について考えることが多い季節です。8月19日の毎日新聞夕刊(わたしの手元にあるのは東京本社発行の紙面です)で、大学生らが作る「キャンパる」のページに、旧日本海軍給糧艦「間宮」の記事が掲載されているのが目にとまりました。一部を引用します。

 太平洋戦争の戦前から戦中にかけて、戦地に「お菓子」を届けた1隻の日本の船があった。給糧艦「間宮」。中でも、艦内で製造されたようかんは大変な人気を博し、多くの日本海将兵に愛された。間宮とは一体どのような船であったのか。元乗組員に話を聞いた。
 間宮は艦艇に食糧品を補給するための日本海軍初の給糧艦として、1924(大正13)年に建造された。全長145メートル、排水量1万5820トンで、主な任務は外地の連合艦隊の泊地まで大量の食糧を運び、配給すること。1万8000人分の食糧3週間分を搭載できた。

 冷凍・冷蔵設備を備えていたため、肉や魚、生鮮野菜を戦地に届けることはもちろん、艦内で豆腐や納豆、こんにゃくやパンなどの加工食品を製造することも可能であった。一方で燃料が石炭ということもあり、速さは14ノット(時速約25キロ)。船脚が遅いことで有名だった。
 戦中はぜいたく品であった菓子などの嗜好(しこう)品が作られ始めたのは31(昭和6)年ごろから。兵士の士気を高めることを目的とし、まんじゅうやもなかに、ようかん、アイスクリーム、ラムネ、ケーキも生産された。
 間宮では、菓子作りのために菓子職人を募集。採用された人のほとんどが菓子の老舗や親方についていた職人だったこと、また軍には銃後の支えもあって原料の確保ができたことから、高品質な味が提供できたという。中でも、もなかとようかんは特に評判が高かった。
 (中略)
 そして迎えた44(昭和19)年12月20日、ベトナムサイゴン(現ホーチミン)からフィリピンのマニラに向かう午後8時過ぎ、米潜水艦「シーライオン」から数回の魚雷攻撃を受けて間宮は多くの乗組員の命と共に沈没した。九死に一生を得た乗松さんは「狭い階段を駆け上って甲板に上がり、海に飛び込んだ。何回空気のかわりに水を飲んだかわからない。もうダメかと思った時に母の顔を思い出し、たまたま板切れをつかんで助かった」と振り返る。
 機関銃を操作する旋回手だった山崎正さん(88)=三重県御浜町=は、沈没時17歳。寒い冬の夜の海に10時間以上漂流した後、ようやく海防艦に救助された。
 高森さんによると、乗組員約280人のうち、100人前後はパン職人や理髪師をはじめとする軍属の民間人だったという。その中の60人は菓子職人であった。「軍人と違い、軍属は名簿もなかったため、名も知られず亡くなっていった多くの民間人がいた」(高森さん)。また菓子を船で作っていた背景にあるロジスティック思想、つまり艦隊を支える後方支援の体制が、当時の日本は米国に比べ圧倒的に不足していたことも指摘する。日本軍特有の精神主義にあらがい、間宮は数少ない後方支援を担う船として、日本海軍に給糧の大切さを知らしめたのである。

※キャンパる 戦争を考える/中 多くの菓子職人、海に消え 沈没の給糧艦「間宮」元乗組員ら証言
 http://mainichi.jp/articles/20160819/dde/012/070/009000c


 「間宮」のことは、わたしは故阿川弘之さんの「軍艦長門の生涯」で知りました。「長門」は「大和」「武蔵」建造前に大日本帝国海軍が世界に誇った戦艦で、連合艦隊の旗艦でした。同書はその長門にかかわった人たちを描くことを通じて、敗戦までの海軍と日本の姿を活写しています。阿川さんは「長門連合艦隊のシンボルなら、間宮は連合艦隊のアイドルであった」と書いています。長門が率いる連合艦隊の停泊地に間宮が入港すると、錨を入れ終わらないうちに艦隊の各艦からランチ(小型のボート)が白波を蹴立てて集まって来るほど人気があったからでした。
 士官室は客船のサロンのように広く、士官たちは各艦に配属されている兵学校の同期生同士で間宮に集まり、すき焼きでクラス会を開いたりもしていました。船内には牛舎のスペースもあり、肉牛を生きたまま運ぶ構想もあったようです。阿川さんもアイスクリームや最中、ようかんなど菓子の製造のことにも触れ、「乗員の三分の一が庸人で、菓子屋、豆腐屋、肉屋などの職人が、八十人ばかり乗っていた」と記しています(新潮文庫、上巻P334―P336、1982年11月発行、1999年8月9刷)。
 同書は間宮の最期までは触れていません。わたしは今回の毎日新聞「キャンパる」の記事で、撃沈によって軍人ではない菓子職人らにも犠牲者が出ていたことを初めて知りました。
 思い起こすのは海軍の徴用船のことです。第2次大戦では日本の多くの商船が海軍に徴用され、乗組員もそのまま海軍軍属の身分となりました。そして海員組合によると、1万5500隻以上もの民間船が撃沈され、6万人以上の民間人船員が犠牲になりました。戦争は、軍人だけではなく民間人にも大きな犠牲を強います。戦争と平和を考えることが多いこの時期に、そうした歴史が広く知られてほしいと思います。
※参考過去記事
▼「民間船員の『事実上の徴用』」海員組合が防衛省計画に断固反対〜広く知られるべき犠牲6万人余の歴史=2016年2月1日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20160201/1454253454
▼再び「民間船と船員の戦争犠牲の歴史」〜12・8開戦の日に=2014年12月8日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20141208/1417964407
▼民間船と船員の戦争犠牲の歴史〜毎日新聞「民間船員も戦地に」に感じたこと=2014年8月3日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20140803/1407041360

軍艦長門の生涯 (上巻) (新潮文庫)

軍艦長門の生涯 (上巻) (新潮文庫)