ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

記者へのセクハラと、日本のマスメディアの「すり寄り型」取材慣習~年の瀬に当たって

 これまで被害を口にせずにいた、あるいは見て見ぬふりをしていたセクシャル・ハラスメント(セクハラ)や性的暴行、性的虐待を告発する「#MeToo」のムーブメントは、日本で2018年も一層の広がりを見せました。中でも財務省の福田淳一・元事務次官による民放局の女性記者へのセクハラは、マスメディアの取材現場の構造的とも言える問題を浮き彫りにしたように思います。
 取材にはいろいろあり、官公庁や企業の記者会見のように、多数の新聞社や放送局の記者が横並びで質疑を行う場合、そこで得られた情報は各社とも共通で差がありません。そうした取材だけではスクープとなる特ダネは出ません。そこで、記者が取材相手と1対1で会って話ができるかどうか、特に官公庁や企業で重要な情報が集まる幹部クラスとそういう取材ができるかが重要になってきます。仮にスクープに直結する情報が得られなかったとしても、追っているテーマの背景事情を知るだけでも意味があります。
 勢い、新聞社でも放送局でも、記者は取材相手と1対1で話が聞けることが大事と強調されることになり、また相手が大物であればあるほど、1対1で会って話が聞けることは、記者の力量として社内や局内で評価が高まることにつながります。
 財務次官と言えば、日本の財政・金融を司る官僚機構のトップです。他社の記者がいない場所で、単独で会えるとなれば呼び出しに応じざるを得ない、いやな思いをすることがあっても、ネタのためなら我慢するしかない、という心理が女性記者に働いていたとしても、無理はないと思います。
 女性記者の告発を週刊新潮が報じて、財務次官のセクハラが表面化した後、先行世代の女性記者たちから「自分たちが声を出していれば、被害は食い止められていたかもしれない」との自責の声が次々に上がりました。同じようなことが、女性記者の間で代々続いていたことが明らかになりました。そのことを知ってわたしは、わたしを含めてマスメディアの中の男性たちも、特ダネを最優先に考える余り、同僚女性たちの被害に目をつむっていたこと、あるいは被害に気付かないほど鈍感だったこと、そうしたことが女性たちに被害を訴えることをためらわせていたことを批判されて当然だろうと考えています。
 この問題を機に、新聞社や放送局は自社の記者をハラスメントから守ることを表明しています。財務省では職員にセクハラ防止の研修を行いました。マスメディアと政府の間で、再発防止に向けたやり取りもあったようです。しかし、これで十分とは思えません。
 記者に対する権力側の取材相手のセクハラは多くの場合、1対1の場で起きています。片や、圧倒的な情報を持つ立場であり、片や、その情報を聞き出したい立場。力関係は歴然としており、そこにハラスメントを生む構造的な要因があるように思います。また男女を問わず、情報欲しさから相手におもねたり、すり寄ったりするようでは、間合いを権力の側に一方的にコントロールされてしまいます。結果として、権力の側に都合のいい情報ばかりが流される、ということになるおそれがあります。
 権力の監視のために、記者が権力者に近づくのは本来、当然のことだろうと思います。ただ、マスメディア内部の現状として、「信頼関係」を名分に取材相手と1対1で会える関係を築くことに腐心することを当然とする傾向は否定できないと思います。「働き方改革」が叫ばれているとはいえ、夜討ち朝駆けの長時間労働も半ば当然、ないしは必要悪ととらえる雰囲気があることも、背景事情としてあります。財務次官のセクハラ問題が表面化した際、尊敬するジャーナリズムの先人のお一人から「すり寄り型の取材慣習の見直しが必要ではないか」との指摘をいただきました。同感です。マスメディア全体の課題だろうと考え、年の瀬に当たって書きとめておくことにしました。

 なお、以前の記事でも強調したことですが、セクハラ被害を考えるときに踏まえておかなければならないのは、一番悪いのはセクハラをする当人、加害者だということです。議論の際には、あるいは報道でも、折に触れそのことを明示して確認を繰り返す方がいいと思います。セクハラを受ける側にも落ち度がある、などというそれ自体がハラスメントの言辞を許さないためです。

■参考過去記事 ※このブログでことし(2018年)よく読んでもらえた記事の一つです
「セクハラを話し始めたメディアの女性たちに、自身の無知を恥じ入る」=2018年4月23日

news-worker.hatenablog.com