東京大空襲から74年 殉職した電話局職員31人の記録~「一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな」(吉川英治の碑文) ※追記 吉川英治記念館のこと

 第2次世界大戦の末期、1945(昭和20)年の3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、一夜にして住民10万人以上が犠牲になりました。その「東京大空襲」からことしは74年です。わたしなりに戦争を、中でも生活の場が戦場になり、おびただしい住民が犠牲になったこの東京大空襲の歴史を追体験するために、近年は多くの犠牲者が出た地へ慰霊碑を訪ねたりしています。
 ※東京大空襲に言及したこのブログの過去記事はカテゴリー「東京大空襲」をご参照ください

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 今回は、ことし1月半ばに訪ねた東京都墨田区の墨田電話局慰霊碑のことを書きます。
 JR総武線の両国駅、錦糸町駅からそれぞれ徒歩で20~30分程度でしょうか。蔵前橋通りと三つ目通りの交差点の少し北に「NTT石原ビル」(墨田区石原4丁目36-1)があります。
 大空襲の当夜、この地にあった墨田電話局では前夜から男性職員3人、女性交換手28人が勤務しており、最後まで職場にとどまって全員死亡しました。「由来」の説明プレートによると、最年少の交換手は15歳だったとのことです。通信インフラ網の維持は戦争遂行にとっても重要なことであり、早期に職場を離れて避難することなど、許されることではなかったのだろうと、容易に想像が付きます。若年労働力を根こそぎ動員せざるをえなかった、無謀な戦争の一面もあらためてよく分かると感じました。

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 慰霊碑のそばには、作家吉川英治による自筆の追悼の碑もありました。その詳しい由来がブログ「草思堂から 吉川英治記念館学芸員日誌」にありました。一部を引用して紹介します。

 ※「墨田電話局慰霊碑」=2016年12月17日
 http://yoshikawa.cocolog-nifty.com/soushido/2016/12/post-0a15.html

 吉川英治は、この東京大空襲で最初の妻・赤沢やすとの結婚時代に引き取った養女・園子を失っています。

 女子挺身隊として動員されていた園子は、やすと共に都心に残っていました。
 最後に確認されたのは、当時住んでいた浅草の自宅で、外出していたやすの帰宅を待つ姿でした。
 そのまま園子は行方不明となり、ついにその消息は分かりませんでした。
 吉川英治は、園子行方不明の連絡を受け、当時住んでいた吉野村(現吉川英治記念館)から連日上京して、園子の消息を訪ね歩きました。
 その時のことを、梶井剛元電電公社総裁との対談(『電信電話』昭和32年6月号)で触れています。
 園子を探し歩いてくたくたになった後、親交のあった秋山徳三の家に立ち寄ったところ、そこに来合わせた人物から墨田電話局の悲劇を聞かされたと言います。
 そして、こう語っています。
 
 それをききましてぼくは、ああ、そんなにまで純真なおとめたちがあったのに、ぼくの養女一人がみえなくなったからっていって、そう途方にくれたように幾日も探し歩いてもしようがない、たくさん、日本のいい娘たちが、そうして亡くなったんだから……と思って、ぼくもそこですっかりあきらめて、ついにその晩雪のなかを奥多摩へ帰ったことがありました。その話を、ぼくはいつまでも忘れかねるんですね。

 吉川英治は、この対談が縁となって、昭和33年(1958)3月10日に行われた慰霊碑の除幕式に招かれます。
 当時の吉川英治の秘書の日誌によると除幕式の3日後、電電公社の職員が来訪し、慰霊碑のそばに設置する由緒を記した碑文の撰文と揮毫を依頼します。
 この日誌からは、依頼を受けた吉川英治が、半月以上の時間をかけて、何度も書き直して碑文を完成させたことが窺えます。

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 その碑文には何が書かれているか、実物は見づらく、内容を正確に読み取るのは困難でした。上記のブログによるとこう書かれています。

 春秋の歩み文化の進展は その早さその恩恵に馴るゝ侭
つい吾人をして 過去の尊いものをも忘れしむる
こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災
殉職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半
における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自
らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうち
に相擁して仆れた主事以下の男職員三名 ならびに
女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠と
なした跡である
当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を
茲に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての
可憐なる処女らや ほか諸霊にたいし 痛惜の
悼みを新にそゝがずにいられない
人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあ
らば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念
とを惜しませ給うな        吉川英治 謹選

 「一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな」との言葉に従って、慰霊碑に手を合わせ、目を閉じて空襲当夜に思いをはせました。一帯は空襲によって一面の焼け野原になりましたが、今はビルやマンションが立ち並び、車がひっきりなしに行き交います。戦争の歴史を知らず、この現在の街並みに接するだけだったら、かつてこの場所で15歳の少女を含む31人もの方が、職務に殉じて空襲の犠牲になった、そのような出来事があったとはとても想像できないと思いました。

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 日本の敗戦から70年以上がたって、戦争を直接体験し、今に語ることができる方々がいなくなってしまう日も、それほど遠い先のことではありません。戦争の歴史を教訓として生かしていけるかは、まず第一に戦争体験を社会で継承していけるかにかかっています。戦争体験の継承の重要さをあらためて感じます。

 吉川英治記念館は東京都青梅市柚木町1-101-1に所在。かつての西多摩郡吉野村です。この地と吉川英治のかかわりについて、記念館のサイトは以下のように記しています。

 「宮本武蔵」「三国志」などの作品で国民的作家となった吉川英治は、昭和19年3月、都心の赤坂区(現港区)からこの地に移り住みます。
 形の上では戦時下の疎開のようですが、この3年前、太平洋戦争開戦以前に既に家を購入するなどの準備をした上での決意の移住でした。吉川英治はこの吉野村の家で昭和28年8月までの9年5ヶ月を過ごしますが、生涯で一番長く住んだのがこの家でした。

 記念館はことし2019年3月で閉館とのことです。

 NTT石原ビルから西に徒歩で5分ほどの「山田記念病院」玄関前には、旧日本海軍の駆逐艦「初霜」の錨が置かれていて、まじかで見学することができます。
 説明のプレートによると、病院の初代院長の山田正明さんは元海軍の軍医。かつて軍医長として乗り組んでいた初霜が戦後、解体された後に錨を引き取ったとのことです。
 ウイキペディア「初霜(初春型駆逐艦)」によると、初霜は1934年に就役。終戦直前の45年7月30日、京都府の宮津湾で米軍機と戦闘中に触雷して大破、擱座し、戦列を離れました。太平洋戦争を通じて第一線で活動し、45年4月の戦艦大和の海上特攻作戦にも参加していました。この錨を目にし、触れることで、そうした海の戦争も確かにあったのだと感じ取ることができたように思いました。

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 ※追記 2019年3月22日0時15分
 東京都青梅市の吉川英治記念館は3月20日をもって閉館しました。その前の休日、思い立って訪ねてみました。74年前の1945年、吉川英治は3月10日の東京大空襲で行方不明になった養女の園子を探しに都心に出て、しかし消息は分からないまま、ついにあきらめて、おそらくは傷心で青梅に戻ります。その日はこの時期とそう変わらなかったのではないかと思いました。
 吉川英治が戦後、元電電公社総裁との対談で語ったところでは、その晩は雪だったとのことです。わたしが訪ねた日は、吹く風にまだ冬の冷たさが残っているようでしたが、日差しを浴びて歩いていると、コートを着たままでは汗ばんでくるような、本格的な春の到来もまもなくだろうと感じる日でした。

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【写真】吉川英治が生活していた母屋

 都心からはJR中央線を立川駅で青梅線に乗り換え30分で青梅駅に着きます。それまで平野を走ってきた電車も、青梅から先は趣きが変わって山間部に入っていきます。記念館は青梅から二つ目の日向和田駅が最寄りですが、わたしは青梅駅からバスに乗り換えました。多摩川をさかのぼるように走ること15分ほどで、記念館に着きました。
記念館には吉川英治の最初の妻、赤沢やす、養女の園子と一緒に写った写真も展示されていました。生後間もなく引き取った園子を夫婦ともにかわいがって育てたようですが、「子はかすがい」とはならず夫婦は1937年に離婚。1945年当時は、吉川英治は再婚していました。それでも園子の消息不明を知って探しに行ったのは、それだけ園子への愛情が深かったということなのだろうな、と感じました。年譜を見ると、敗戦後2年間、断筆しています。対談で「ぼくはいつまでも忘れかねる」と語っていた園子のことを、この山あいの里でずっと考えていたのでしょうか。

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【写真】吉川英治の書斎

 記念館から徒歩で15分ほど。一帯は吉野梅郷と呼ばれる梅の名所でした。青梅市観光協会のサイトなどによると、最盛期は約120品種、1700本以上の梅樹がありましたが、ウメ輪紋ウィルス防除対策によりすべて2014年までに伐採したとのことです。その後植樹を進めており、わたしが訪ねた日は再開された梅まつりの期間中でしたが、かつてのにぎわいが戻ってくるには、まだ相当の時間がかかるのだろうと感じました。
 吉川英治が園子の生存をあきらめ、失意のまま吉野に戻った日も、梅は咲いていたのかもしれません。その花を見ても、きっと喪失感は埋められなかっただろうと思います。

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