ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「拗ね者」本田靖春さんの評伝と遺作

 元読売新聞社会部記者で、退社後はノンフィクション作家として活躍した本田靖春さんが2004年12月に71歳で死去して15年がたちました。わたしは昭和58(1983)年4月に記者の仕事に就きました。わたしと同世代の、昭和50年代後半から60年代に新聞記者を志した人なら、「不当逮捕」や「警察(サツ)回り」などの作品をむさぼるように読んだ経験があることと思います。
 その本田靖春さんについて、ノンフィクション作家の後藤正治さんが、担当編集者らに丹念に取材してまとめた評伝「拗ね者たらん 本田靖春 人と作品」(講談社)が2018年暮れ、上梓されました。がんや糖尿病と闘い、両足と右目の視力を失いながら執筆を続けた最後の日々の壮絶さには息をのみます。最後の作品「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社、2005年)は、本田さん自身「私はこの連載を書き続けるだけのために生きているようなものである。だから、書き終えるまでは生きていたい」と書きながら、最終回を残して絶筆になった作品でした。
 わたしはこの作品は未読でした。後藤さんの「拗ね者たらん」を読み終えて、何としても読みたいと思い、古書でしたが入手しました。読み終えて「もっと早く読んでおけばよかった」と思いました。
 本田さんは植民者の子として戦前の朝鮮で生まれ、敗戦後の引揚生活で苦労しました。日本の植民地支配の実相も肌で知っていました。それらの経験が終生、戦争を憎み、戦争を招くものには徹底的にあらがう姿勢の土台にありました。根っからの平和憲法支持者だったこともよく分かりました。
 本田さんは、社会部の黄金時代の終焉とともに1971年に読売新聞社を退社しました。社会部の黄金時代とはどんなものだったのか、実例もふんだんに書かれています。しかしむしろ、現在のマスメディアとそこで働く人たちにとって、今もなお意義があるようにわたしが感じたのは、部内で声を上げる気風が急速に失われていきつつあった中で、本田さんが若手記者たちに「野糞の精神」を説いていたというエピソードです。
 本田さん自身「下品になって恐縮だが」と断って紹介しているのは、次のようなことです。「可能ならば、全員で立ち上がって戦ってほしい。できないなら、せめて、野糞のようになれ―」「野糞はそれ自体、立ち上がることはできず、まして、相手に飛びかかって噛みつくなぞは絶望的に不可能である。でも、踏みつけられたら確実に、その相手に不快感を与えられる。お前たち、せめてそのくらいの存在にはなれよ、―と訴えたのであった」
 組織の中で、ひとり立ち上がって声を上げるのは大変な勇気が必要です。皆が続いてくれるとは限らないし、孤立すれば居場所がなくなるかもしれません。でも、もし「このままでいいのか」と思うのだったら、いきなり声を上げるのは無理でも、まずは本田さんが「せめてそのくらいの存在には」と書いたところから始めてもいいのではないか―。そんなことを考えました。
 わたしが記者の仕事に就いた1980年代前半は、本田さんに言わせれば、新聞社の社会部の黄金時代はとうに終わっていたのだろうと思います。わたしはと言えば、駆け出し時代に「不当逮捕」や「警察回り」を読み、本田さんが組織ジャーナリズムの一員として過ごした時代に重ねて、自分の記者としての未来を夢想したりしていました。あまりに無邪気に過ぎていたと、今は恥ずかしく思います。
 しかし、マスメディアの組織ジャーナリズムは今日なお、社会に必要です。わたしはそう考えています。そして、本田さんが遺した数々の作品と、とりわけ遺作の「我、拗ね者として生涯を閉ず」には、組織で動くジャーナリズムと、そこで働く者が知っておいた方がいい、いろいろなことが詰まっているように思います。わたしが思うその第一は、ジャーナリズムが何のためにあるかと言えば、戦争を起こさせないためであり、起きてしまった戦争は一刻も早く終わらせること、です。
 ジャーナリズムに身を置く、あるいは関心がある若い人たちには、まず後藤正治さんの「拗ね者たらん」を手に取ってみることを勧めます。

f:id:news-worker:20200105175309j:plain 

拗ね者たらん  本田靖春 人と作品

拗ね者たらん 本田靖春 人と作品

  • 作者:後藤 正治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/11/29
  • メディア: 単行本