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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「大本営発表」報道の今日的教訓~東京大空襲から75年

 第2次世界大戦末期の1945年3月10日未明、東京の下町一帯は米軍B29爆撃機の大編隊による空襲を受け、一夜で10万人以上が犠牲になりました。東京大空襲からことしは75年です。このブログでは毎年この日は、努めて何かを書きとめるようにしています。ことしは何を書くか考えましたが、あらためて空襲当時の報道を考えることにしました。
 以下は1945年3月11日付の朝日新聞です。

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B29約百三十機、昨暁
帝都市街を盲爆
約五十機に損害 十五機を撃墜す

「大本営発表」(昭和二十年三月十日十二時)本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり
現在迄に判明せる戦果次の如し
 撃墜 十五機 損害を与へたるもの 約五十機

  これが戦時中の「大本営発表」の部分です。当時の新聞には、当局に許された範囲内の報道しかありませんでした。
 ※ウイキペディア

 「大本営」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6

 「大本営発表」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8
 これまでもこのブログで繰り返し書いてきたことですが、この大本営の発表の本文部は、今日の感覚で言えばツイッターのツイート1回分でしかありません。 

https://twitter.com/newsworker/status/1237025256369311744

   実際には10万を超える人々が犠牲になったというのに、そこには人的被害は何も触れられていません。具体的な被害状況と言えば、宮内省で馬や自動車を担当する部門の火災が午前2時35分に鎮火した、ということだけです。実際には、死屍累々の惨状が広がっていたにもかかわらず。

 朝日新聞の紙面には、この「大本営発表」に続いて、自社の記者が書いたと思われる記事が掲載されています。その内容を書き起こしてみます。

 単機各所から低空侵入
 敵機の夜間来襲が激化しつつあったことは敵の企図する帝都の夜間大空襲の前兆として既に予期されていたことであったが、敵はついに主力をもって帝都を、一部をもって千葉、宮城、福島、岩手の各県に本格的夜間大空襲を敢行し来たった。
 まず房総東方海上に出現した敵先導機は本土に近接するや、少数機を極めて多角的に使用しつつわが電波探知を妨害して単機ごとに各所より最も低いのは千メートル、大体三千メートル乃至四千メートルをもって帝都に侵入し来たり帝都市街を盲爆する一方、各十機内外は千葉県をはじめ宮城、福島、岩手県下に焼夷弾攻撃を行った。
 帝都各所に火災発生したが、軍官民は不適な敵の盲爆に一体となって対処したため、帝都上空を焦がした火災も朝の八時ごろまでにはほとんど鎮火させた。また右各県では盛岡、平に若干の被害があったのみで他はほとんど被害はなかった。
 この敵の夜間大空襲を邀(よう)撃してわが空地制空部隊は帝都上空および周辺上空において壮烈な邀撃戦を敢行して大規模な初の夜間戦闘において撃墜十五機、損害五十機の赫々たる戦果を収めた。
 現下の防御態勢においてかくのごとき敵空襲は避けがたく敵は本土決戦に備えて全国土を要塞化しつつあるわが戦力の破壊を企図して来襲し来ったものと見られる、しかし、わが本土決戦への戦力蓄積はかかる敵の空襲によって阻止せられるものではなく、かえって敵のこの攻撃に対し邀撃の戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう。

 久しぶりにこの記事を読み返してみて、敗戦の5カ月も前のこの時期に、新聞記事に「本土決戦」の単語があることに、あらためて気付きました。国中を要塞化して、本土に敵を迎え撃たなくてはならないとは、少し考えれば、日本はこの戦争に必ず負ける、ということを意味していることが分かったはずです。しかし、そうとは直接報じることが許されない、戦争の実相を社会で共有できない。それが戦争末期の日本の社会の姿でした。
 それから75年。日本の社会の民主主義、さらには「表現の自由」や「知る権利」の行く末を深刻に案じざるを得ない中で今年の3月10日を迎えました。
 例えば東京高検検事長の定年延長です。森雅子法相は2月10日の国会答弁で、1981年当時に国家公務員法の定年延長(勤務延長)の対象に検察官は含まれていないと人事院が答弁していたことを突き付けられ、「詳細には承知していない」と口にしていました。人事院も、当時と解釈は変わっていないとしていました。ところが2月13日に安倍晋三首相が法解釈を変更した旨を表明して以降は、法相も人事院も後付けと言われても仕方がないような無理に無理を重ねた主張を続けています。検事長の定年延長を決めた閣議決定の前に、法解釈変更の手続きを適正に取ったと強弁しますが、そのことを客観的に裏付ける記録は何一つ示しません。「わたしが『正しい』と言っているのだから正しい」と言っているだけです。
 こうした「公」の記録をないがしろにする姿勢は、事実を伏せて都合のいいことだけを、時には事実の裏付けがない誇大な戦果を発表していた「大本営発表」と根は極めて近いように思います。
 より直接的に「表現の自由」や「知る権利」との関連で危惧されるのは、新型コロナウイルスを巡る新型インフルエンザ特措法改正です。ひとたび緊急事態宣言が発せられれば、感染拡大防止の大義名分のもとに、外出や公的施設を使った集会が事実上、制限されることになりかねません。他の公共的機関や公益的事業法人とならんで指定公共機関とされるNHKが、政府の対応などを巡って自由に報道できるかどうかも分かりません。民放等の他の報道機関が政令で追加される危険があることも指摘されています。

 これが現在の日本の社会です。

 戦前の新聞は戦争に反対することなく、むしろ戦争遂行に加担し戦意をあおっていきました。そのあげくの「大本営発表」報道でした。そうなってしまうには短くはない経緯があるのですが、要は、戦争と自由な表現、自由な報道とは本質的に相いれないのだとわたしは考えています。それこそが敗戦の大きな教訓の一つだろうと思います。その教訓を生かさなければなりません。この75年は「はるか75年も前」ではなく「わずか75年前」のことだとわたしは考えています。

※参考過去記事

 東京大空襲に関連するこのブログの過去記事は、カテゴリー「東京大空襲」をご覧ください。
 https://news-worker.hatenablog.com/archive/category/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2