ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「改革」の結集軸を失い存在意義が揺らぐ「維新の会」~大阪都構想 僅差で再度の否決

 大阪市を廃止して特別区を設置する「大阪都構想」は11月1日、大阪市民による住民投票で否決されました。「賛成」68万5729票に対し「反対」69万2996票。わずか約1万7千票の差でした。投票率は62.35%でした。構想を推進してきた大阪維新の会代表の松井一郎大阪市長は、市長の残り任期を務めた後は政界を引退することを表明。大阪府の吉村洋文知事は、自身が都構想に再度挑戦することはないと述べています。大阪都構想は、橋下徹氏が維新の代表を務めていた当時の2015年の住民投票でも否決されており、今回の投票結果は、維新の会による大阪都構想に終止符を打つと言っていいように思います。

f:id:news-worker:20201104000853j:plain

【写真】11月2日付の東京発行の新聞各氏朝刊

 この大阪都構想は維新の会の存在意義そのものでした。当時の橋下徹・大阪府知事と、自民党を離党した大阪府議、大阪市議、堺市議らによって地域政党「大阪維新の会」が結成されたのは2010年4月。翌2011年春の統一地方選挙で躍進し、同年11月には橋下氏が知事を辞職して大阪市長選に出馬し、知事選と大阪市長選の同時実施となったW選挙で知事に松井一郎氏、大阪市長に橋下氏が就きました。2012年の衆院選では国政政党「日本維新の会」が国政進出を果たします。その目的には、大阪都構想が実現可能になるよう法体系を整えることが挙げられていました。この維新の会の勃興から躍進の時期に、わたしは3年間(2011年3月~14年3月)を勤務先での転勤に伴い大阪で過ごしました。
 当時、間近で見た橋下氏の政治手法に代表される維新の会の政治は、わたしにはとても乱暴に思えました。意見が異なる相手とは、対話を尽くすよりは「民意がすべて」「選挙で選ばれた自分が正しい」という理屈でねじ伏せるような手法でした。「文句があるのなら、選挙で勝ってから言え」というのが基本的なスタンスだったように思います。特に、教職員に式典での日の丸掲揚、君が代の起立斉唱を義務付けた条例に代表されるような、自治体職員への過剰な規律の要求は、今も疑問に感じています。橋下氏は職員組合が過度に政治活動を行っているとして不満だったようですが、選挙で敵対候補を推して自分にたてついた職員組合を政敵とみなし、市長に就任後は力で屈服させようとしているように、わたしには見えました。
 しかし、そうした手法も含めて、橋下氏と維新の会は大阪の有権者の多数の支持を得ていました。「改革者」への支持だったのだと思います。その旗印が大阪都構想でした。維新の会は大阪都構想を実現するための政党であり、大阪都構想を掲げている改革者だからこそ、橋下氏や維新に乱暴さがあっても、選挙になれば支持を集めていたのだと思います。大阪都構想の内容は有権者に浸透していなくても、改革勢力として支持と期待を集めていた側面があったのだろうと思います。当時、大阪の街中で「大阪が強くなければダメだ。東京に任せていてはダメだ」という雰囲気を肌で感じることも少なくありませんでした。維新は、大阪が成長し国際的な競争力を持たなければならない、そのために大阪都構想が必要だと主張していました。維新の主張は、もともと東京に強い対抗意識を持つ大阪の気分、心象のようなものと相性が良かったのかもしれません。あるいは、「お上」意識が希薄だった大阪の気質が、さらに踏み込んで東京への対抗心へとかき立てられたのかもしれません。
 わたしは2014年春に大阪を離れ東京に戻りました。以後は、離れたところから大阪と維新の会を見ていたので、ざっくりとした感想のレベルです。2015年の住民投票で大阪都構想が否決された後、橋下氏は政界を引退したものの、松井氏は知事職に残りました。新たに吉村氏を国政から大阪市長に転身させて、大阪都構想は再び動き出しました。それもこれも、大阪都構想がなければ、大阪では維新の会の存在意義がなくなることからくる必然的なことだったのだろうと思います。泳ぎ続けていなければ死んでしまうと言われる回遊魚のように、大阪都構想を掲げて走り続けていなければ、維新の会もその政治手法も支持を得られないことを、維新創設以来の中心メンバーだった松井氏はよく分かっていたのではないでしょうか。
 大阪にいた当時、維新について「なるほど」と思う論評を耳にしたことがあります。一般には、維新の会と言えば橋下氏でした。しかし、それは皮相的な見方だというのです。いわく、維新の会とは自民党内から起こった都市型保守政党への脱皮運動であって、オーナーは松井氏だと。橋下氏はいわば雇われた看板のようなものにすぎない、ということでした。2015年の住民投票で大阪都構想が否決された後、橋下氏が特に未練も見せずに政界を去った一方で、残った松井氏が捲土重来を期したその後の経緯をみると、この論評はかなり当たっていたように思います。

 その松井氏も、大阪市長の残り任期限りでの政界引退を表明しました。維新の会が国政進出を果たしても大阪にとどまり、橋下氏が去った後は大阪にあって維新の会の代表を続けた松井氏をおいて、ほかに維新の何たるかをよく知り、代表が務まる政治家は得難いように思えます。何よりも、大阪都構想に終止符が打たれたことは、維新の会が政党としての結集軸を失ってしまったことを意味します。国政政党の日本維新の会も、大阪で維新の会が支持を集めていたからこそ成り立ち得た存在でした。国会の与野党の勢力模様にも影響があるはずです。このまま次の改革の旗印を見出し得ないようでは「維新の会」は早晩、沈んでいくしかないのかもしれません。「大阪都構想」に代わる結集軸となる「改革」の旗印も、そうは簡単には見出しがたいようにも思います。

 今回の住民投票は僅差で否決でしたが、もしも僅差で可決だったらどうなっていたか。「投票結果がすべて」と言わんばかりに、大阪市解体が強権的に推し進められ、大阪全体に深刻な分断が広がっていたかもしれません。かつてわたしも住民の一人だった地域が、そのような事態に陥らずに済むのは良かったと思います。

 この住民投票の結果は、東京発行の新聞各紙も1面で大きく扱いました。主見出しは「反対」と「否決」に二分されています。「否決」の見出しは、反対が多数を占めたとの現象面に加えて、そのことが持つ意味合いをも端的に表していると感じます。