「桜」疑惑の本質は安倍前首相による公権力の私物化~検察の捜査への根本的な疑問とマスメディアの課題

 安倍晋三首相当時の「桜を見る会」前夜祭(夕食会)の経費補填問題で、東京地検特捜部は12月24日午前、安倍前首相を嫌疑不十分で不起訴とし、公設第1秘書を政治資金規正法の不記載罪で略式起訴としました。東京簡裁は秘書に罰金100万円の略式命令を出し、秘書はただちに納付。これで検察の捜査と刑事処分は終結しました。安倍前首相は24日夕、自民党担当記者に限定して記者会見し、翌25日には衆参両院の議院運営委員会に出席しましたが、既に報じられている通り、議員辞職は否定。夕食会の経費補填についても詳細は明かされないままです。首相在任時から、「責任はわたしにある」と言いながら、一度として責任を取らなかった言葉の軽さ、無責任ぶりをまたも目にしている思いがしています。
 しかし、こうなることは十分に予想できたことでした。だからこそ、検察の捜査が安倍前首相本人に切り込むことが何よりも重要でした。それが言い逃れを許さない、もっとも現実的で有効な方策であり、だからこそ世論にも検察への期待があったはずです。結果的に、安倍前首相は自身が不起訴になったこと(「嫌疑なし」ではないにもかかわらず)を最大限に使って、国会議員の地位にとどまろうとしています。検察は世論の期待を裏切ったばかりでなく、前首相の“居直り”に手を貸したのも同然の状態になってしまっています。

 ▽「権力犯罪」に金額の多寡は問題ではない
 わたしは、安倍前首相を不起訴とした検察の対応の焦点は二つあるととらえています。一つは捜査と不起訴の結論そのものへの疑問、もう一つはその判断の説明のありようです。
 最初の捜査と不起訴の結論についてです。この点については法曹の専門家からも様々に批判が出ていますので、わたしが多くを書くまでもありません。一つだけ書きとめておくとすれば、この「桜を見る会」を巡っては様々な疑惑が指摘されており、夕食会の経費補填はその一部に過ぎない、ということです。疑惑の本質は、「内閣総理大臣が各界において功績、功労のあった方々を招き、日頃の御苦労を慰労するとともに、親しく懇談する内閣の公的行事」(安倍内閣の答弁書)である「桜を見る会」に、恣意的、組織的に首相の後援会会員を招いていたこと、つまりは自らの選挙区の有権者を、自分を選挙で支持しているというだけの理由で、内閣の公的行事に大量に招待していたということであり、首相の職務と権限の私物化に等しい、という点にあります。いわば現職の首相による「権力犯罪」の性格を帯びています。
 夕食会の経費補填の捜査も、そういう事情を重視するなら、おのずと前首相の関与が最大の焦点になるはずです。仮に前首相の関与があったとすれば、政治家と秘書の関係に鑑みれば、処罰されるべきは前首相本人であって、秘書の立件はその立場に照らして酷に過ぎるとさえ感じます。そのような大きな意味を持つ事件を、形式的な単純ミスを含めたほかの規正法違反の事例と同列に置く必要はないはずですし、同列に論じるべきではないと思います。
 不記載の額の多寡にかかわらず、家宅捜索などの強制捜査を含めて捜査を尽くし、社会一般の常識にかなった結論を得ることを、わたしは検察に期待していました。検察部内の議論として、不記載の額が少ないので本来は立件に値しないとの意見があったことが報じられていますが、それは意図的に問題を小さく収めようとする、ためにする議論であるようにしか思えません。報道によれば、検察内には、国民目線に立ってあえて秘書を略式起訴し、必ずしも必要がない前首相本人の事情聴取にも踏み切った、との自画自賛があるようですが、世論とは大きな乖離、落差があります。
 同じ24日、新聞記者との賭けマージャンで辞職した黒川弘務・元東京高検検事長を「起訴相当」とする検察審査会の議決が報じられました。元検事長を起訴しなかった検察の判断と社会一般の常識との乖離がこういう形で表れたと言うべきでしょう。
 付言すると、あっさりと罰金刑を言い渡した東京簡裁の判断にも疑問を感じます。罰則に罰金しかなく、刑罰の選択ができないのならともかく、不記載罪には禁固刑の規定もあります。正式裁判を開いて違法行為の全容や情状のすべてを審理し、刑罰を決めるべきではなかったか。その過程で、前首相と安倍事務所スタッフとのやり取りも明らかになったかもしれません。
 罰金刑を受けた第1秘書のことなのかどうか、判然としませんが、前首相から補填の有無を尋ねられた秘書は、確信的に虚偽を伝えた上、果ては「国会でも虚偽の答弁を貫いてもらうしかないと思った」との趣旨のことを周辺に話していると報じられていました。第1秘書もその意思を共有していたとすれば、犯情は極めて悪質であり、略式起訴で済ませていい事例ではないように思います。

 ▽不誠実な検察の説明
 もう一つの、検察による説明の問題です。
 安倍前首相を不起訴とし、第1秘書だけを略式起訴した検察の判断には疑問と批判があります。検察はそれらの批判に応え、疑問を解消するように努めることが必要です。私人同士の間の、例えば痴情のもつれのような事件ならいざ知らず、この事件の本質は「公権力の私物化」「権力犯罪」です。社会の信頼を得られる検察であるには、社会の人々の目に見える、耳に届く形で、検察自らが説明を尽くすことが必要です。
 そのような考えとともに、東京地検が前首相の不起訴を報道陣に対してどのように説明したのか、東京発行の新聞各紙の報道を見てみましたが、意味のある説明は見当たりません。わたし自身の多少の取材経験も加味すると、公式にはろくな説明がなかったと考えざるを得ません。
 報道によると、処分の発表は24日午後2時から東京地検の山元裕史・次席検事が行いました。安倍前首相を不起訴としたことの説明を、読売新聞は社会面の記事の中で以下のように伝えています。

 また、山元次席検事は、「嫌疑不十分」で不起訴とした安倍氏についても「容疑者」として扱い、黙秘権を告知して事情聴取を行ったと説明。その上で「(不記載の)共謀を認めるに足りる証拠がなかった」と述べた。

 「捜査したが証拠がないので不起訴にした」ということのようですが、前述のとおり、「権力犯罪」の性格を帯びている事例なのに、その重大さ、深刻さに見合うだけの捜査を尽くしたのか、はなはだ疑問です。そもそも「証拠がない」との説明は不誠実です。例えて言うなら、医師が患者の死因を聞かれて「呼吸が止まったこと」と答えるようなものです。
 夕食会の費用について、ホテルが出した明細書にはどんな記載があったのか、補填の原資はだれがどうやって用意したのか、といった事実関係を検察は押さえているはずです。それらの事実関係を踏まえて、安倍前首相の関与をどう判断したのか。捜査を尽くしたというのなら、説明して然るべきです。繰り返しになりますが、「公権力の私物化」の性格を帯びた事件です。
 一般的に検察は、容疑者を訴追した段階では「公判に差し支える」ことを理由に、捜査結果の詳しい説明は避けようとしますが、それも今回は当てはまりません。検察自身が、公判は不要と判断しているからこその略式起訴だからです。仮に、次席検事の発表の時点では、簡裁の略式命令が出ておらず、正式裁判の可能性もあったというのなら、第1秘書の罰金納付が終わった今からでも、説明をやり直してもいいと思います。

 ▽説明責任を問うのはマスメディアの役割
 この検察による説明の問題は、マスメディアの検察取材と表裏一体です。公権力のありようを巡る事件で、それ自体が公権力である検察に、自身の権限行使である捜査をきちんと説明させることも、今やマスメディアの役割、課題であるように思います。
 かつてのわたし自身の記者経験を振り返ってみると、検察幹部の発言を直接引用できるオンレコの記者会見は機会自体が少なく、しかも何を聞いても検察幹部からは「捜査に支障がある」「公判で明らかにしていく(この場では答えない)」との答えしか返ってこないのが常でした。しかしわたし自身は、そのことを本気で「おかしい」と思うでもなく、検察幹部の間を個別に、記者会見だけでは分からない背景事情などを取材して回っていました。
 検察内部への食い込み取材に意味がないわけではありません。むしろ「権力の監視」のためには今もなお必要なことだろうと思います。しかし、オンレコで検察が発信する情報が絞られている状況では、オフレコ取材や匿名でしか書けない取材ばかりになると、検察にとって都合のいい情報しか社会に流れないことになりかねません。これまでの流儀を改めて、検察幹部にカメラの前で話させることは容易ではありませんが、マスメディアの今日的な課題だと考えています。検察も公権力である以上、説明責任があります。
 元検事長のマージャン問題では、同席していた新聞記者らは「不起訴不当」でした。記者たちの行為も、社会一般の常識からは理解を得られなかったとわたしは受け止めています。密室での違法行為は、元検事長と記者らの「秘密の共有」です。どんな人間関係でも、そうした秘密を共有する関係になってしまえば最強ですが、そこに緊張関係はなくなります。こうした「すり寄り型」の取材は、記者に対するハラスメントの土壌にもなっています。記者の働き方の観点からも見直しが必要です。記者の一人ひとりが心身ともに健康で働き続けることができなければ、組織ジャーナリズムは成り立ち得ません。