ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

凡庸な人間と「一粒の麦」の生き方~新たなスタートの年に

 新しい年、2021年を迎えました。本年もよろしくお願いいたします。

 昨年10月に還暦を迎え、勤務先の通信社を定年退職しました。もうしばらくは雇用延長で同じ会社で働くとは言え、組織ジャーナリズムの一端に身を置いて過ごした現役の時間は終わりました。
 大学を卒業して通信社に入社し、記者として働き始めたのは1983年のことでした。この37年余を振り返って思うのは、凡庸としか言いようのない記者人生だったな、ということです。特ダネを取るわけでもなく、鋭い視点で社会に問題提起するような記事を書けるわけでもない。多少は要領がいいところはあったかもしれません。ちょっとしたまとめ仕事(例えば、他の記者が手分けして取材した結果を手元に集めて、1本の記事にまとめる作業)などは、デスクの指示通りにそつなくこなしていました。しかし、ただそれだけのことです。それなのに、自分では仕事ができるつもりでいました。今だから分かることですが、何より不幸だったのは、自分の生き方が会社と一体化していたこと、いわば人生を所属組織の中に埋め込んでいるかのような働き方をし、そのことに対して何ら疑問を感じていなかったことです。

 転機は30代の終わりでした。初めてデスクになり、仕切りを任されていた持ち場で、競合他社にその部署ではこれ以上の特ダネはない、というほどの大きな特ダネを連続して抜かれました。気が重い後追い取材ばかりの日々の中で、所属組織の中枢部からは当然のごとく、叱咤が飛んできます。自信を失って、果ては精神状態の危機を自覚するまでになりました。そうなって初めて、自分の凡庸さと弱さに気付きました。そのままでは、人としての存在自体すら危うくなっていたかもしれません。しかし同時に、それまでは考えたこともなかった想念のようなものが、ふっと頭に浮かびました。「ダメなら会社を辞めればいい」「自分には会社を辞める自由がある」。そのことを自覚できた時に、精神の安定を取り戻せたように思います。
 その後、社内の労働組合の役選(役員選考)で委員長職への打診を受けました。迷わず引き受けることにしました。あの時の苦しさ、つらさを思い出しながら、組織の中で働くことの意味、組織と個人の関係を自分なりにとらえ直すことができるかもしれないと思いました。「組織と個人」の問題意識はその後、新聞産業の産別労組である新聞労連(日本新聞労働組合連合)の委員長を務める中で、いよいよ強まりました。労組専従の任期を終えて復職し、やがて管理職となって労組を離脱した後も、この「組織と個人」は変わらぬ問題意識として、わたしの中にありました。

 新聞労連の委員長当時、海外の労働組合と交流する機会が何度かありました。日本のように、企業ごとに労働組合が組織されているのは珍しく、多くは業種ごと、職種ごとに、所属企業の枠を超えて労組が結成されています。日本の企業内労組のメンバーシップは同じ企業の従業員であることですが、海外では同じ仕事をしている労働者であることです。基本は個人です。一人ひとりはとても弱い存在ですが、だからこそ団結することが重要で、その権利も手厚く保護されているのだということを、海外の労組との交流の中で学びました。
 ジャーナリズムにしても、記者一人ひとりの力には限りがあるとしても、組織で動くことで強さが生まれるのだと、今は考えています。では仮に、その組織ジャーナリズムないしはジャーナリズム組織がうまく機能しなくなったときには、どうすればいいのか。その中で働く個々人の頑張りが問われるにしても、一人ひとりは弱い存在です。その一人ひとりが強くあるためには何が必要か―。引き続き、そのことをわたし自身の考察テーマとして、具体的なことを考えていきたいと思っています。

 あらためて思うのは「一粒の麦」の生き方、元警察官僚の故松橋忠光さんのことです。11年前、わたしが50歳になる年の初めに、このブログで紹介しました。
※「『わが罪はつねにわが前にあり』故松橋忠光さんのこと~『一粒の麦』の生き方」=2010年1月4日 

news-worker.hatenablog.com

 20代の駆け出し記者の当時に、様々な教えをいただきました。凡庸な上に自分自身を勘違いしていたこともあって、当時は理解できていなかったことも少なくありません。今は松橋さんの言葉の一つ一つがよく分かります。
 松橋さんの著書「わが罪はつねにわが前にあり」の最初のページに引用されている聖書の二つの言葉を再録しておきます。 

 われはわが愆(とが)を知る、わが罪はつねにわが前にあり
 なんじの救のよろこびを我にかへし自由の霊をあたへて我をたもちたまへ
 詩篇 第五一篇第三節・第一二節

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、いつまでも一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を顧みない人は、それを保って永遠の生命に至る。
 共同訳ヨハンネスによる福音第一二章第二四節・第二五節

  凡庸な人間なりに「一粒の麦」の生き方にならってみたい。ことしをその改めてのスタートとしたいと思います。