ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

死者との「約束の場所」靖国神社

 過日、夏の休暇を取った平日の午後、東京・九段の靖国神社を訪ねました。
 新聞、テレビのマスメディアは、首相や閣僚が靖国神社に参拝するたびに大きなニュースとして扱ってきました。第二次世界大戦後に東京裁判を経て処刑されたA級戦犯らが「昭和の殉難者」として合祀されていることを主な理由として、首相や閣僚の参拝には賛否両論があることが背景にあります。毎年8月15日の敗戦の日には、マスメディア各社は終日、神社周辺をウオッチして閣僚や国会議員らの参拝を取材しています。
 通信社で記者として働きながら、中でも社会部に長く身を置きながら、靖国神社にかかわる取材は経験がなく、訪ねることもありませんでした。昨年秋に定年を迎えて、マスメディアで働く現役の時間を終えたのを機に、靖国神社がどういう場所なのか、自身で確認しておきたいと思うようになりました。
 今年3月に一度、訪ねました。ちょうど境内の桜が満開を迎えるころで、おびただしい人でにぎわっていました。明らかに、参拝よりも桜を見るのが目的の人が大半でした。笑顔と歓声がそこかしこにありました。それも靖国神社の一面なのかもしれませんが、静かな時に再訪しようと思いました。

 ■「靖国で会おう」

 第二次大戦を軍人として戦った人たちが残したいわゆる戦記物を読んでいると、「靖国で会おう」という言葉が出てきます。生きて帰れるとは思わない。死んだらお互いに靖国神社に祀られるのだから、そこで会おう、ということです。特に生還が予定されていなかった特攻隊の隊員の間では頻繁に交わされていたようです。いわば、靖国神社は死者たちの「約束の場所」と言っていいのだと思います。
 20年前に初めて読んだ山崎豊子さんの長編小説「沈まぬ太陽」のあるシーンが長らく印象に残っています。国民航空がジャンボ機墜落事故を引き起こした後、絶対安全を至上命題として再建に乗り出すに当たり、繊維会社を徹底した労使協調で再建させた実績を持つ国見正之が、時の利根川泰司首相の意向で国民航空の会長職に就きます。二度固辞した国見が、利根川の代理人であり、シベリア抑留の経験を持つ元大本営参謀の龍崎一清から「お国のために」と要請され、ついに受諾を伝えた冬の日、向かった先が靖国神社でした。
 国見は学徒出陣した元軍人で、連隊勤務を経て陸軍予備士官学校へ進み、前線指揮官として養成されました。同期生の300人は前線に赴きますが、国見は教官要員として残りました。多くの友が戦死しました。戦後、国見は毎年大みそかに、必ず靖国神社を訪ねていました。
 「今年は少し早く来た―」。予備士官学校の寮で「死んだら靖国神社で会おう」と誓い合った友の姿を思い浮かべながら、国見は心の中で語りかけます。「貴君らと別れて、四十二年目の今日、私は遅ればせながら、二度目の召集を受けた」「五百二十名の死者を出した航空史上最大の惨事を起した国民航空の再建を引き受けることになった」「微力の私には至難なことだが、せめて生き残った者としての務めを果たす覚悟だ。貴君らのご加護をお願いする―。」

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【写真:靖国神社参道と大村益次郎像 】

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【写真:靖国神社拝殿】

 わたしが2度目に靖国神社を訪ねたのは、国見の時とは違って8月の暑い日でした。15日の敗戦の日にはまだ数日の間があり、境内に人はまばらで静かでした。地下鉄の九段下駅から第一鳥居(大鳥居)をくぐり、大村益次郎像を過ぎて第二鳥居までの長い参道は神社の境内というよりも公園の趣きです。かつて、戦死者の霊を合祀する儀式「招魂祭」の際には、全国から遺族が集まり、式典を見守った場所だそうです。
 第二鳥居に続いて神門をくぐると、桜の木が青い葉を繁らせていました。3月に来たときには、大勢の人でにぎわっていた一角ですが、この日は閑散としていました。
 拝殿の前で、二礼二拍して手を合わせました。拝殿から本殿までは、ゆったりと距離を取って建てられています。拝殿から本殿を見た時に奥行きを感じました。人が少なく、静かなこともあって、その奥行きの深さに厳粛さを感じるように思いました。
 わたしのすぐ横に、車いすの老齢の女性がいました。手を合わせた後、持参した小さな写真の額を、本殿に向けてしばらくの間、掲げていました。無言のままでした。声を掛けるのがはばかられたのですが、ここに祀られている父親と、亡くなった母親とを会わせてあげているのかもしれないと思いました。靖国神社は、生き残った者が死者と向き合う「約束の場所」でもあるのかもしれないと感じました。

 ■遊就館

 付属施設の「遊就(ゆうしゅう)館」も見学しました。
 「遊就館は、靖国神社に鎮まります英霊のご遺書やご遺品をはじめ、その『みこころ』や『ご事跡』を今に伝える貴重な史資料を展示しています」とのパンフレットの記載の通り、博物館とは似て非なる施設です。
 明治維新に始まり日清、日露両戦争から「支那事変」「大東亜戦争」までを時系列にたどる展示構成になっており、有名無名の戦死者の遺品とエピソードが紹介されています。日中戦争を「支那事変」、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んでいるように、戦争当時の歴史観、価値観が色濃く反映されています。敗戦後に戦犯として問われ刑死した、あるいは獄中死した軍人は「昭和の殉難者」として扱われており、「戦死」の用語に対して「法務死」が使われています。

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【写真:遊就館】
 靖国神社に祀られているのは戦闘に加わった軍人が中心であるため、遊就館の展示も彼らがいかに戦い、いかに死んだかに重点が置かれ、日本軍がアジア各地で行った加害の側面や、日本国内での住民被害にはほとんど言及がありません。
 また、同じ作戦に従事していても、紹介されているのは戦死者だけです。例えば日米開戦時のハワイ・真珠湾攻撃の際、日本海軍からは航空部隊とは別に特殊潜航艇5隻も攻撃に参加しました。1隻に2人が乗り組んでおり、計10人のうち9人が戦死、1人は捕虜となりました。日本国内では当時、9軍神として大々的に報じられましたが、遊就館の展示も9人についてのみです。やはり、戦争の実相を伝える展示内容とは言い難く、戦争遂行を正当視する側の視点に貫かれていると感じました。
 いろいろな意味で印象に残るのは、特攻に関しての展示です。フィリピン戦線で海軍最初の特攻隊を組織し、敗戦とともに自死した大西瀧治郎中将が、周囲には特攻について「統率の外道だ」と語っていたことが紹介されています。この言葉は、当時の日本軍には、もはやまともに戦う力が残っていなかったことを、特攻の生みの親とされる大西がよく自覚していたことを示すものとして知られています。それだけの劣勢なら、一日でも早く停戦に持って行くのが合理的な思考のはずです。しかし、日本ではそうした思考は働きませんでした。大西のこの言葉は、当時の日本軍の非合理性をよく表している、とわたしは受け止めています。
 また、ポツダム宣言の受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が流れた1945年8月15日午後、海軍の大分基地では、特攻作戦の指揮を執っていた宇垣纒中将が11機の特攻隊を自ら率いて沖縄沖へ出撃し、宇垣を含め23人が未帰還になりました。遊就館には、出撃の際の写真も何枚か、展示されていました。この行為は停戦命令への違反とする見方と、玉音放送を停戦命令と解釈できるか疑問とする意見の両方があるようですが、宇垣はともかくとして22人は死ななくてもいいはずでした。生きていれば、その後の戦後復興を支えていたはずの若者たちでした。
 大西にしても宇垣にしても、多くの特攻隊員を死なせたことへの責めを負って自ら命を絶ったことを強調する展示ではあるのですが、同時に当時の日本軍を非合理的な発想、極端な精神主義が覆っていたこともあらためて実感しました。
 展示の終わり近くには、戦死者の遺族の思いが紹介されているコーナーがありました。第三者の目に触れることを前提に述懐したと思われるものが多く、本当の心情がどこまで表れているのかは分かりません。中に戦後、特殊潜航艇に乗った息子が戦死したオーストラリアの港を訪ねた際の母親の述懐がありました。「よくこんな狭いところを。母はほめてあげますよ」。何であれ、息子ががんばったことをほめてやりたい。国家とか軍隊とか、個人の力ではどうしようもない時代だったのだと思いますが、だれを責めるでもなく親としての万感の思いが凝縮された一言のように思え、胸が詰まる思いがしました。

 ■特攻兵器「桜花」

 遊就館には第二次世界大戦当時の日本軍の兵器も展示されています。玄関ホールにあるのは海軍の主力戦闘機だった零式艦上戦闘機(零戦)。大展示室には人間魚雷「回天」や艦上爆撃機「彗星」などが置かれています。回天は文字通り、乗員1人が操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器。零戦や彗星も大戦末期には特攻に使われました。
 わたしが目を引かれたのは、大展示室で、彗星の真上に天井からつるされているロケット特攻機「桜花」の実物大のレプリカです。機種に約1.2トンの火薬を搭載し、ロケット噴射で上空から敵艦を目がけて体当たりします。航続距離が短いため、双発の一式陸上攻撃機につり下げられて基地を出撃します。目標に近付くと母機から切り離され、乗員1人が操縦して飛行しました。

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【写真:特攻兵器「桜花」のレプリカ】
 日本は陸軍、海軍とも様々な航空機を特攻に使用しました。その中で桜花は、最初から特攻専門に設計、開発されたほぼ唯一の例でした。兵器としての正式採用は1945年3月。ひとたび母機から切り離されれば、絶対に生還できない非情さがありました。桜花のレプリカの下には、一式陸攻に抱かれた桜花が護衛の零戦に守られ、夕日を浴びながら沖縄へと進む状況のジオラマが展示されています。沖縄戦のころには、日本軍はまともな航空作戦を構えることができず、航空特攻一本でした。そこまで追い込まれたのならば、一刻も早く戦争を終わらせなければなりませんでした。搭乗員たちはどのような思いで出撃していったのか。このジオラマにも胸が詰まりました。

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【写真:(上)桜花部隊のジオラマ(下)ジオラマの一部・桜花を抱いた一式陸攻】
 桜花の特攻作戦では母機も撃墜されて未帰還となる例が多かったそうです。ジオラマの横には、その戦死者名の一覧のプレートがありました。ジオラマの説明によると、レプリカやジオラマは戦後、桜花部隊の「神雷部隊」戦友会から奉納されました。「かつて神雷部隊の将兵は戦死したら『神社のご神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう』を合言葉としていた」とのことです。

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【写真:艦上爆撃機「彗星」 その上に「桜花」】

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【写真:人間魚雷「回天」】

 遊就館の見学を終えて退出するまで、入館から2時間半がたっていました。もっと一つひとつの展示をじっくりと、メモを取りながら見ていれば、優に半日はかかると思います。

 靖国神社の源流は、幕末の戊辰戦争の官軍戦死者の顕彰です。賊軍の戦死者は供養も禁じられ、遺体はしばらくの間、その場で朽ち果てるままにされていた例もあったとされます。明治の元勲の一人である西郷隆盛も、最後は西南戦争で賊軍となったため靖国神社には祀られていません。3年前、西南戦争の激戦地だった熊本県の田原坂を訪ねる機会がありました。現地には政府軍、薩摩軍それぞれの戦死者名を記した慰霊碑がありました。双方をわけ隔てしない、そうした感覚は今日的なもので、靖国神社の思想は異なるようです。国家のために生命を落とした者は国家の責任で顕彰する―。いわば兵役に就く者へ死後の名誉を国家が保障する場所であり、戦争をする社会にはどうしても必要な施設だったのかもしれません。
 日本が不戦を国是とする今では、政治と宗教の分離という意味でも、やはり首相や閣僚、国会議員らがその身分を公然とかたって参拝することには疑問があります。
 一方で、76年前の敗戦を挟んで日本の社会は大きく変わりましたが、死者には時間の経過はないのかもしれません。そうだとすれば、死者にとっては今も変わらない「約束の場所」かもしれない。そんなことも感じました。


※遊就館は拝観料1000円です。玄関ホールと大展示室の展示のみ、写真撮影が可能です。

※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

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【写真:熊本県・田原坂の慰霊碑。西南戦争の薩摩軍、政府軍双方の戦死者の氏名をわけ隔てなく刻んでいます=2018年11月】

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【写真:靖国神社境内の満開の桜。3月に訪ねた際には大勢の人でにぎわっていました。これも現代の靖国神社のひとコマです】